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足掻いて、もがいて、

先日も似たようなことを書いたのだけれど、現在、休業につき夫が毎日家にいる。

「休校、来月末までに延期になったって」

と伝えたら、「まあ、そうやろな」と夫。「学校始まったあとも心配やな。朝のドタバタとか、また対応できるようになるんやろか」と続けると、「俺もやわ。仕事戻んのしんどい」と言った。

「いや、別に元どおりにならんでもええんちゃうの?」と伝えた。というか、本当にそっくりそのまま元どおりになるだなんてことは恐らくないのだから。たとえ、傍目には大きく変わることがなくとも。(本当の意味で大きな変革が起きるのかどうか、正直なところ、わたしにはわからない。何だかんだで、「何となく大半は元に戻ったっぽい。一部分は変わらざるを得なかったけれど」が今まで起きてきたことだから)

変わっていくことが進化であるならば、また元どおりに戻ることにストレスを感じるのであれば。であるならば、元に戻ることは当人にとっては退化でしかない。「どうやったら少しでも自分が心地いいと思えるのか、考えてみるいい機会なんちゃうの?」と言うと、「せやなあー」と届いたのか届いていないのかわからない声が返ってきた。



「でも、だって」

夫はいう。たとえば、「一時的にでもシュフになるのやって、ありやん」なわたしの言葉に。

「でも、また働こうと思ったとき、リスクになるやん」

とか。

まあ、理屈はわかる。だって、家庭に重きをおく期間をブランクと捉えられて、その期間を重視されるがために、世の母親たちはマミートラックなるものを走る羽目になっているのだから。

でもさ、と思う。

今までの価値観を「でも、だって」と自分が選ばない理由にしてしまっているうちは、自分にとっての「より良い」に至れるかどうかって、正直運任せになっちゃうよね、と。

本当の本当の意味で「選べない」のが現状なら、まあ仕方がない。腹を括って、現実ってやつに向き合うしかない。むしろ、もやもやに捉われている場合でもない。だって、背に腹は代えられないのだから。できれば、そのなかでもモアベターな選択をギリギリまで探りたいところではあるけれど。

なんていうか、足掻ける余裕がいくばくかでも残っているのなら、足掻いたほうが結果的にハッピーになることって、多々あるんじゃないかな。

「でも、だって」が必要なシーンもあるとは思う。それで納得させて進まなければならないときは、誰にだって多かれ少なかれあるだろう。

だけど、「でも、だって」を100%正当な理由にあてがって、第3、第4の道を探ることすらやめてしまうのは、やっぱりもったいなくないかなあ。



夫には、「キャリアの断絶は確かにあると思うけど、自分次第な部分もあるんやない? 要は、自分がどうなりたいかにもよる気がする」と伝えた。断絶が決定的な壁になってしまうこともあれば、自分次第でどうにかなる世界もあるんじゃないのかな。特に、何かしらは変わるのであろう、これからの社会なんかでは。

まあ、こんなことをいうと「甘い」と言われるのがオチではあるのだけれど、でも何とかならないかと足掻いてみることは、無駄ではないと思うのだ。

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卯岡若菜
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