「なりたいもの」がなくなった
将来の夢は何ですか。
そう尋ねられることのあった子ども時代、わたしは特に答えに困ったことはなかった。常に何か「なりたいもの」があったから。
なりたいものに、なれるわけではない。
子どものころに思い描いていた夢をそのままそっくり実現させることは、やっぱりいろいろと難しいのが現実だ。
たとえば、いつかのわたしは漫画家になりたかったのだけれど、思うように絵が上達せず、その一方でメキメキと絵がうまくなる妹を目の当たりにしてしまって、何となくその夢をフェードアウトさせていってしまった。才能のなさという、縋りつきやすいものを言い訳にして。
「何かになりたい」欲は、成長と共に薄れていった。そうして、「やってみたい」欲だけが残った。
今の仕事に片足を突っ込んだころは、右も左もわからないながらも「こんな人みたいになりたいなあ」が薄ぼんやり程度はあった気がする。でも、今はその薄ぼんやりすらなくなってしまって、ただただ「やってみたい」だけが残った。そして、それがわたしの推進剤だ。
この先、どんな風になりたいですか。
どんなライターを目指したいですか。
そう尋ねられることが時々ある。そのたび、言葉に困って曖昧な感じになってしまう。「こんなことに興味があります」は言えるのけれど、「だから、こうなりたい」にはっきりつなげられているわけではないのだ。そして、興味があることはふわふわとしていて、「絶対にこれ」と狭められてもいない。根っこにあるのは、人や物事のありよう、と共通しているとは思うのだけれど。
こんな、ゆるふわな感じでいいんだろうか。「インタビューが好きなライターです」くらいしか、自分を説明する言葉を持たないままでいいんだろうか。それって同じような人がいくらでもいる話で、もう少しわかりやすい「何か」がいるんじゃないのだろうか。なんかこう、もっとちゃんと将来のビジョンを考え見据えた上で、今を歩んでいったほうがいいのでは……。
……といった感情に、時々ふわーっと覆われて、でも「とはいえ、描けないものは描けないんだよなあ」と思い直す。馬鹿みたいに、そんなことを繰り返している。
「ここを目指そう」なんて目標も定めきれないまま、ただただ目の前に現れる「やってみたい」に挑戦することを繰り返して、何とかかんとかこれまでやってこられた。たぶん、わたしはとてもラッキーだった。わたしが話すふわふわした「こんなことが好きで」とか「こう感じていて」を掬い上げて、「これ、興味がおありなんじゃないかと思って」とありがたいお話をいただいたこともあるから。
やっぱり今も、向かいたい先がわからない。「なりたい像を明確化したほうがいい」なんて意見を見かけるし、実際に言われたこともあるけれど、今のわたしはなりたい自分すらよくわからない。だから、セルフブランディングもできない。どう見られたい、が特にないからだ。(でも、どう見られたってかまわない、とまで振り切れてもいない中途半端さなのだけれど)
「こう!」がないものだから、興味を惹かれるままに寄っていっては、ジグザグと歩いている。ずいぶんと適当だよなあ、と我ながら思うけれども、長期スパンで物事を見て計画を練れるタイプではないのだろうから、もうこれは仕方がないのだ、きっと。これがわたしという人間なのだろうから。思えば、これまでのことも、その多くが「思い立ったら吉日」で、計画性より衝動性のほうが強かった気がするし。
行き当たりばったりで恐ろしいことこの上ないけれど、「やってみたい」欲に従ってさえいられれば、きっと少なからず進んでいけるし、楽しさを見失わずに済むような気もする。そして、楽しければ生きていける、とも。
将来の夢は、特にない。
死なないように生きていけたら、そして生きていくなかで少しでも誰かの役に立つことができていたら、それで万々歳、とても幸せなことなのだと思う。