そこで、ただ光っていて
震災とか、台風とか、何か社会を大きく揺るがすような出来事が起きると、一気に「何かいいことを言わなきゃ」「励ましになるようなことをやらなきゃ・発信しなきゃ」といった類の言葉が増える、気がする。
それは今の情勢でも同じことだ。猫も杓子も表現する側になれる時代だからこそ、顕著なのだろうとも思う。
「何か自分にできることを」となるのは何らおかしなことではない。わたしも模索している。自分のやるべきことをやるのは前提として、何かできることはないのかを考えていたいし、やれることをやっていきたい。
けれど、個人的な感覚として、「何だかいい感じの雰囲気に仕立ててみました」みたいな言葉は、ちょっと遠ざけたくなってしまう。この「何だか~」な判断は完全なる主観。まあ、わたしのnote自体が主観バリバリの文章に過ぎないので、今さらではある。
「何だかいい感じの雰囲気に仕立ててみた言葉」に対する忌避は、外面がやたらといい、だけど腹の内はよくわからない人に対したときに抱く感情に近い。まあ、一言でいうと「それって、ほんとう?」と疑いたくなるのだ。「何だかよさげなものにしているだけで、実はそれ、裏があるものなんじゃないの?」みたいな。
なお、「こんなときだから前を向けることを」「前向きになれることを」な言葉すべてを避けたいと感じるわけではない。「あえて」「意識して」は、その気持ちが「ほんとう」でありさえすれば、その言葉が放つ力も「ほんとう」だから。ええと、だから再三繰り返すけれど、少なくともわたしのなかでは。
ちょっと離れていたいなあと思う言葉は、その言葉を使って相手を丸め込もうとか、コントロールしようとか、そういう意図が透けて見えるように感じてしまうのだと思う。そこに、底知れない不気味さを感じてしまうのだ。「それって、耳に心地いいだけの言葉を使って、どこかの場所に押し流そうとしているのではないの?」と。
そうした言葉たちよりも、わたしはただそこに建って光っている灯台のような言葉が好きだ。精神的にお疲れ気味のときほど、そうした言葉を見つけたいし、触れていたいと思う。そこかしこに、その人の息づかいを感じられるような。
そういえば、夜に家やマンションに明かりが灯っている様子を眺めるのが、子どもの頃から好きだった。そこには誰かが住んでいて、誰かの暮らしが、人生がある。そんなことを想像しながら、家に帰るのが好きだった。その感覚と同じなのだろう。
あえてドラマチックにしなくていいし、情緒性を持たせようとしなくていい。ぽつぽつと零れ落ちたような言葉は、街や灯台の明かりのように、「ここにいるよ」と光っている。わたしはそうした光をただ眺めて、勝手に「よし、わたしもがんばろう」と思ったり、「あー、いいなー」と癒されたりするのだ。
そこに誰かが元気で(元気でなくとも)生きて過ごしていることがわかるだけで、もらえるものってあるんだと思う。直接会うことが難しい時期だからこそ、その光を眺めていたい。
ちなみに、今日はわたしの誕生日である。このご時世だ、特に予定はないし、そもそもわざわざ祝うような歳でもないのだけれど。
その日その日に残していく言葉は、歩いてきた道のりで光る、ヘンゼルとグレーテルに出てくる石みたいなものだ。振り返るとき、「こんなことを考えていたんだよ」と光り、未来のわたしに知らせてくれる。何もしていないようでいて、それでも確かに進んできたことを教えてくれるような、そんな言葉をこれからも残しておきたい。