共有が味わいを生む
おいしいものを食べて「おいしいよね」って言い合う。
きれいなものを見て、「きれいだね」って目を輝かせる。
おもしろいものを見て、笑い転げる。
興味深いことに出会って、「ねえ、知ってる?」と話す。
楽しいことをして、「ああ、楽しかったなあ」と満たされる。
……どれもこれも満たしたいとは思っていない。それでも、こうしたことを積み重ねていくことが人との関係を築く上で大切なことだと、少なくともわたしは思っている。
人と人とはわかりあえない。だから、好きな相手のことをわかりたいと願う。わかるためのひとつの方法が、相手がどんなときに笑い、どんなときに怒り、どんなときにつらさを感じるのかに触れることだ。
友人関係はもちろん、親子でも同じだ。そして、夫婦間も。
価値観がすべて合う必要はない。むしろ、合わないところがある方が、世界が広げられる分得がたい出会いではないかとも思う。
でも、何かを共有することはやっぱり必要だ。大きくても小さくても構わないけれど、「何か」があってほしいと思う。趣味でも、価値観でも、記憶でも。
共有しよう、したいという意識がないままでいると、関係性の再構築の機会を失ってしまうのだなあと思う。
興味の矛先が少しもこちらを向いていない相手との時間は、何とも味気ないものだ。過ごす時間は蓄積されず、ただ流れ落ちていく。共有する時間を蓄積させていこうと考えるわたしと、まったく興味を抱かないらしい相手。なんだか、虚しくなった。
過ぎていく時間を意味のあるものにできるかどうかは、自分次第だ。誰かとの関係性を深め築いていけるのかどうかも、自分と相手次第。
ヒビが入ってしまった関係性の器に、時間が注ぎ込まれては漏れていく。垂れ流されていくのを見て見ぬ振りをして、今日をまた超えていく。
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