“書くこと”へのラブレター
書くことってなんだろう。
最近、ふとそう思うことがあります。すべての人にとってではなく、わたし個人にとっての“書くこと”です。
単純に“好きなこと”というカテゴリーに入れるには、わたしにとって書くことはウエイトが重いのではないかと思う。
確かに書くことは好きだし、飽きないし、苦にもならない。好きなことのひとつにカウントしていいものだとは思います。
でも、ほかにたくさんある“好きなこと”と比べて、書くことはわたしにとって、“そこになければならないもの”だと思う。
ピアノを弾くことが好きです。でも、弾けなくても生きてはいられます。
本を読むのが好きです。でも、読めなくても生きてはいられます。
映画を観るのが好きです。でも、観られなくても生きてはいられます。
お酒も同様。生物的な意味を除けば、飲食だって、わたしはなくても死にはしない。(精神的な意味で)
でも、わたしは書けなくなったら死ぬと思う。書くことを奪われてしまったら、生きていられないと、そう思う。
わたしにとって、書くことは呼吸と同じくらい、あって当たり前のものなのでしょう。実際に書いているときは、それくらい自然に書いているように思います。(もちろん推敲するわけですが)
息を止めたら生きていけないように、書くことを止めたら生きていける気がしません。命はあるかもしれないけれど、精神的には死ぬでしょう。もしかしたら、肉体的にも生きていられなくなるかも。……なんてね。
書くことはわたしにとってデトックスでもあるし、思考の整理手段でもあります。
同時に、クスリのような中毒性を持ってもいるのかもしれません。
誰かに依存をしたくないと突っ張って生きているのだけれど、わたしは何よりも“書くこと”に依存しているのかも。
物心ついたときから、何かを書き綴ってきました。誰かのためではなく、わたしのために。そうして書いたものを、誰かが喜んでくれたらうれしかった。そうしてまた書き続けた。その繰り返しで、今に至っています。
さみしくて頭が狂いそうな日も、悲しみで眠れなかった夜も、何かを書いていたから、たぶんやり過ごしてこられた。
書くことは、一番の友人であり、恋人であり、酸素であり、クスリ。
わたしは死ぬまで、ものを書き続けるのでしょう。