灯りを手渡す“ねずみ算”
人のために何かをしたかった。悩みを言えずに抱え込むタイプで、それがとてもつらかったから、同じような人の役に立てる何かをしたかった。誰彼構わず相談できなくたっていいし、弱音を吐けなくたっていいけれど、もし「誰か」を求めたくなったとき、その「誰か」にしてもらえるなら、喜んでなりたいと思ってきた。
だから、カウンセラーになりたいと思った。高校生の頃のことだ。
ただ、それにはかなりのキャパシティがいるのだと思ったのは、大学生の頃。わたしは博愛主義者には程遠い。割と人を好きになりやすいタイプだと思ってはいるけれど、聖人君子では決してない。果たして、好きになれない人を相手に真摯に向き合えるのだろうか。そんなことを思った。
結局、大学は鬱で中退してしまっているのだけれど、そのときに思っていたのは、不特定多数の人を相手にするカウンセラーではなくて、身近にいる大好きな人たちの支えや捌け口になれるなら、それで十分だし、そうありたいということだ。
頼りにされると、応えたくなる性分だ。悩みを相談されると、何時間でも時間を割こうとしてしまう。
高校時代、そんなわたしの性分に気づいていたのか、古典の先生に「適度に手を抜かなきゃあかんよ。卯岡さんまで巻き込まれるよ」と言われたことがある。そのときに相手をしていたのは、保健室登校をしていた同級生で、確かに彼女はわたしの手に負えなかった。でも、やれることはやりたかったのだ。そのときも、「先生がそんな投げ出すこと言うなんてひどい」と思ったことを憶えている。
そんなスタンスで向き合えるのは、きっと限度がある。だから、せめて心から向き合いたいと思える人たちに頼りにされたら、そのときに全力を尽くせるわたしでいよう。そう思ったのだ。
マンガ「鋼の錬金術師」に、「わずかでいい。下の者を守れ。その下の者もまた下の者を守る」というセリフが出てくる。大衆を守ることを志していた軍人(その後のマスタング大佐)が、その想いを戦争体験によりへし折られ、まずは自分の部下を守ることからはじめることにしたシーンで語られるセリフだ。
これに、友人のヒューズは「子供騙しだ。ねずみ算だ」と笑いながらも賛同する。「なら、この国の全員を守るためにはねずみのてっぺんにのし上らないとな」と続くわけだけれど。
わたしの想いはこの野心とは別物だ。けれども、わたしの中に、「わずかでいい」という言葉はずっと残り続けている。
悪意は伝播する。だから、きっと善意だって伝播するはずだ。わたしが誰かに助けてもらって嬉しかったように、わたしが誰かの助けになれたなら、その誰かはまた誰かの助けになるのではないか。そんな風に思ったのだ。
苦しみや弱さは、誰にでも吐き出せるものではない。だからこそ、その誰かがいてくれることが、泣けるほど嬉しいことがある。誰かのささいなひとことで、乗り越えられる夜だってある。
たいそうな人間ではないから、みんなに灯りを掲げられはしないけれど、せめて身近にいる人たちに求められたときには、そっと灯りを手渡したい。そして、その灯りがいつしかリレーになればいい。そうして、生きづらさをやりすごせる人が増えたらいい。そんなことを思っている。
きっと、こんなことを思うのは、わたし自身がまだまだ生きづらいからだ。どん詰まりになりそうになっては、誰かのおかげで浮上している。本人は意図していないかもしれないけれど、わたしは少なくとも助かった。そんなことは往々にしてある。
いい人になりたいわけではない。でも、せめて大切な人たちにとって、わたしもわたしを助けてくれた人たちのようなひとりになれるような、そんな人になりたいと思っている。
心の支えのねずみ算が続いていく様子を想像する。きっとそこではやさしさをたくさん感じられるはずだ。