「何もしていない、できていない」感から抜け出すために
もう何年も前から「時が過ぎるのが早い」と言い続けている。
二十歳を迎えたときにバイト先のパートさんたちに「これから、本当に早くなるよ」と言われ、三十路になるころには「30から、本当にあっという間だよ」と年上の知人やママ友たちに言われたけれど、本当に本当にほんとうにその通りで、今年も気が付けば6月下旬に差し掛かろうとしている。
気付けば寒さが過ぎ去っていて、たぶん今年も気が付けば夏が終わっているんだろう。
あまりにも時間の流れが速すぎて、めまいを起こしそうになる。何かが起きたわけでもないのに、不安という名の雲が立ち込めてきそうになる。何もしていない、何もできていないまま、一日、一週間、一カ月、そうして一年が経ってしまう、そんな気がして。
実際のところ、さすがに一週間、一カ月単位で「何もしていない」なんてことは、ない。少なからず母親としての役目はあるわけだし、仕事だってしている。それでも、なぜだか心の片隅に「何もしていない、何もできていない」という感情が膝を抱えて居座っている。
何もしていないわけではないのに、何もしていないと感じてしまうということは、自分で「した、できた」と思えることをできていないということなのだろうか。では、わたしは「何」をすれば、「した」ことになるんだろう。「できた」と思えるんだろう。
とはいえ、さすがに24時間365日、空虚な無力感を抱えっぱなしというわけでもない。充足感を味わえる瞬間がないわけではないのだ。
「満ち足りる」は、物質的なものと精神的なものとに分かれる。どちらもハッピーな気持ちになれるという意味では変わらないけれど、よりわたしが充足感を覚えるのは後者だ。ほしいものを得られることもうれしいし幸せではあるけれど、精神的な喜びのほうが、より心に与える影響が大きいような気がする。大げさだけれど、魂が喜ぶ、みたいな。
精神的な充足感は自分ひとりで得られるものではないからかもしれない。わたしの場合、精神面でじわじわと満たされていく感覚を味わえるのは、自分のしたこと、言ったことで誰かが喜んでくれたときだ。1ミリでも、その人の役に立てたのかもしれないと思えたときだ。物質的な充足感はお金で得られやすいものだけれど、「誰か」由来の充足感は、自分だけの力ではどうにもできない。だからこそ貴重でありがたくて、じわじわと、でも大きな喜びを与えてくれるのかもしれない。
物質的な充足感は瞬間的な爆発力のあるタイプのものであり、精神的な充足感はゆっくり浸透していくように広がるタイプのもの、という違いもあるのかな。いや、めちゃくちゃほしかったものは、見るたびに幸せな気持ちになれるものでもあるけれど。
どちらの充足感も大切だけれど、精神的な充足感が枯渇してしまうと、メンタルのコンディションが下降して、ほしいものを得られたときに充足感を覚える感性も鈍ってしまうような気がしている。うれしい、おいしい、楽しい。これらポジティブな感情をそのままきちんと味わうには、心が潤っている必要があるのだろう。カチコチの土壌にいきなり肥料を与えても、たぶん吸い込んではくれない。耕して水をやって、やわらかくしたところに栄養を与える必要がある。きっとそれは、人も同じだ。
今のわたしの場合、「ありがとう」で満たしてくれる他者は、ほとんどが仕事関係だ。家族や友人に言われてもうれしいけれど、仕事で感謝されたり役に立てたりすることは、やはり、また別の満たされ方があると思う。あとは、こういった徒然なるままに書いているnoteを読んでもらえることもうれしい。読んでくれた「誰か」を感じられることは、書き手としてはやはりとてもありがたいのだ。
自分がすこやかに生きていくためにも、誰かのために立つことをしたい。少しでもより良いほうに進む一助となれる何かに携わりたい。
……なるほど、そういうことなのか。「何か」って、そういうことか。
「で、具体的に何よ?」と言われたら困ってしまうのだけれど、誰かの役に立つには、結局のところまずは一つひとつ目の前のことに向き合うことがスタートだ。誰かに喜んでもらえる仕事ができるよう、思考を巡らせ話を聞き、伝えられる文章を書いていきたい。そうすれば、少しでも「これをした、できた」と思える時間を生きていけるかな。