結果論に過ぎない、見えないスイカ割りの成功

「これから世の中はおそらくこうなるので、これこれこうしておいたほうがいいですよ」

「今これこれを考えて動いていた人が、きっと成功につながりますよ」

みたいな言葉は前々から見かけられていたもので、別に珍しくも何ともない。「へー、そうなんだー」と、ふんわり受け入れたり受け流したりつまみ食いしたりしてきた。全肯定も全否定もできないことが大半だから。だから、「〜すべき」とまで言い切る言葉には、「すんごい自信ですね」と思ってきた。

言い切ったほうが強い力を込められるから言い切る言葉が多いのだ、とは思っている。でも、たいがいのことは天気予報と同じで「〜でしょう」とか「〜かもしれません」くらいしか言えない。未来のことなんか、特にだ。せいぜいできるのは予測に過ぎないし、その予測を信じ切って動くより、その場その場の変化に応じて試行錯誤と微調整を繰り返す力のほうが役に立つのではないかと思う。

「こうしてたからこうなった」も、ただの事実のひとつであって、万人に共通する答えではない。その人の結果論に過ぎないし、うまくいったから言えるだけの話も多いでしょ。なのに、事例紹介的な姿勢ではなく、「こうしたらこうなるのに、こうしない人ってどうなの?」みたいな物言いもあって、それにもやっぱり「すごい自信だな」と思う。

努力と実力だけですべてがうまくいくことなんてそんなにない。それだけでうまくいけるほどの実力(才能)が、そもそもそう手に入るものでもない。うまくいったのは、自分がラッキーだったからだ。縁やら運やらに恵まれたからだ。「運も実力のうち」? うん、それも確かに一理ある。チャンスの女神は前髪しかなくて、その前髪を掴むための行動を起こしていたのかどうかはその人次第だから。でも、縁や運は、やっぱり縁や運なのだ。自分の力の及ばないところにあるものであり、掴みとるよりも恵まれるものなのだと思う。

外からの「ああしたほうがいい」「こうしたほうがいい」ばかりに目を向けてしまうと、かえって身動きが取れなくなる。方々から声をかけられるスイカ割りみたいなものだ。しかも、スイカの正確な位置が周りにも見えていないスイカ割り。「右」やら「左」やら「そのまままっすぐ」やら、さあどれを信じればスイカに辿りつけるのだろうね。

たまには、「うっせー!黙ってろ!!」な勢いで耳を塞ぐことも必要だ。たとえ外の声に惑わされないとしても、やっぱりどこか疲れてしまうから。視認可能な範囲は、ひどく狭い。半年後、一年後、その先のことなんか見えやしない。先ばかり見ようとがんばっていたら、それこそ「今」に足元をすくわれる気もする。うーん、怖いよね。それでも生きている限り進まなければならないのだから、せめて足くらい今ある地面にしっかりつけておきたい。耳を塞いだり半目で見てみたり、ひょいとつまみ食いしてみたりしながらね。

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卯岡若菜
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