その一言、百人力です
書いたものを誰かに読んでもらえていたと知るのは、いつだって嬉しい。「好き」とか「応援しています」と言ってもらえるのは、もっと嬉しい。
その言葉があるから書いているわけではないけれど、その言葉は確かにわたしの肥料になる。子どもの頃に「豚もおだてれば木に登る」との評価を親からされていたくらいには、まあおめでたいし単純だし、乗せられやすい人間なんだろう。
ただ、もちろんのこと世辞はいらない。乗せようとしてくる人の言葉は案外わかるものだ。まあ、直感に過ぎないといわれたらそれまでなのだけれど、たぶんそこそこ当たっているのではないかなあと思っている。
書く作業は孤独だ。リモートだろうがそうじゃなかろうが、創作だろうがそれ以外だろうが、書く作業自体はいつでもどこでも孤独だ。だから楽しくもあり、一方で迷子にもなりやすいのだと思う。
書き終えた瞬間の自己満足と、読み返すときの「うわあ」感。それを繰り返しながらも、どこかのタイミングで「完」としなければならない。どこかに出すものでも、そうでないものでも。(そうでないものは延々と手を加え続けることもできるけれども)
わたしは自信満々に宣言できるタイプの人間ではない。できる「振り」もできない。弱腰はさすがによろしくないぞ、と平静な顔をするようにしてはいても、内心ではおどおどびくびくしていることが多い。自分の精いっぱいと外から見たときの及第点とは必ずしもイコールではないから、だいじょうぶだろうか、満足してもらえるだろうかと不安にさいなまれてしまいがちなのだ。
だから、あっさりと迷子になる。さまよえる子羊になってしまう。
そんなとき、出口を照らす言葉をかけてくれる人の存在は貴重だ。それは時に編集さんであり、時に読み手の方だったりする。どちらからの言葉も、「ほら、そんなに迷う必要はないよ」と伝えてくれる。編集さんからは、「うん、こっちの道の方がよかったかもね」と教わることだらけだ。(日々是精進也)
しょっちゅう「ダメダメだあああ」とひとり打ちひしがれ、「凡才ですらない……」と勝手に落ち込む。「マジわたし何もできないな」と思い、それでも書くことしか術をもたないから書く。依頼された仕事以外で書いているものに関しては、「果たしてこれを出したところで誰か読んでくれるんだろうか」と思ってばかりだ。(読まれなくても書くけれど、やっぱり誰かに読んでほしいとは思う。この気持ちはわたしのなかで両立している)
そうやって悶々としているときに言葉をかけてもらえた。これは、ちょっともう、震えるほど嬉しいことなんです。まるで、さっと雲間から光が差し込むような感覚。百人力です、本当に。
最近あたたかい言葉をいくつかもらえたのが、本当に本当に嬉しかったんです、というお話。