ひとりを引き受け、ひとりを味わう
受験生の頃に受けたAO入試の小論文に、「一人」と「独り」について書いた。「“独り”を避け“一人”を好む若者たち」。携帯やネットで他者といつでも簡単に繋がれることなどについて書いたその小論文は、二次試験の面接官である教授に「おもしろかったです」と褒められる。うれしかった。
昔流行った動物占いで、わたしは「ひとりを好む狼」だった。人は好きだ。人と話すのも、共に過ごすのも好きだ。けれども、誰かと過ごすのと同じくらい、ひとりの時間も必要としている。
ただ、今まではそのひとりは「一人」であり、「独り」ではないと思っていた。常にどこかに孤独を抱えていて、独りがつらくて怖かった。必要としているのは独りではなくて、一人なのだと思っていたのだ。
小論文を書いた頃はまだガラケー社会だった。わたしは携帯を持たない希少側の人間だったため、例の小論文を書いたともいえる。
今はあの頃よりもさらに誰かと繋がりやすい世界だ。直接やりとりをするわけではなくとも、SNSを覗けば、そこには誰かの存在がある。リプをするしないに関係なく、誰かが「いる」感覚がある以上、本当の独りにはならずに済む。
ただ、孤独を感じないのかと言われればそれはまた別の話だ。人混みにいるときの方が孤独感を抱くことがあるのと同じで、垂れ流されていく誰かの気配が、かえって孤独感を強めることもある。
誰かと中途半端につながっていると、思考までどこか中途半端になる。ひとりで部屋にいるはずなのに、ひとりで考えごとができなくなる。
垂れ流されるTLは、思考を乱すノイズだ。ノイズに邪魔をされて思考を深めきれず、「まあ、いっか」とつい打ち切ってしまう。潜っていかなければ手に入らないものを手に入れられないから、できあがってきた言葉も半端だ。
自分のことを書くものであったり、感情に訴えかけるものであったり。はたまた創作であったり。こうしたものを書くには、「独り」に自分を沈める必要があるのだろう。少なくとも、わたしの場合は。
独りだから感じられるものがある。独りだから気づけるものがある。独りだから生まれてくる言葉もあるし、独りだから理解できるものもある。
一人でいながらにして独りから逃れやすい時代だからこそ、独りを大切にしたい。孤独は嫌だけれど、孤独から生み出されるものもあるのだから。