#3 いい加減に「あさ」を迎えようよ
医大の受験判定で、女性が差別されていたらしい。発覚後、憤りを感じている言葉を多数目にし続けている。
理由は「女性は結婚や出産で退職してしまうから」。まあ、退職「してしまう」女性がいないとは言わない。でも、退職「せざるを得ない」女性の存在が黙殺されている現実に、これまで受験して落ちた女性の悔しさを思った。
わたしの友人にも、子どもの頃から医師を目指していた子がいる。お金の事情で私学医大は不可。国公立専願で、一浪したけれど手が届かなかった。(学力的なものが理由だったのかどうかは知らない)
結局、彼女は私学の別学部に進んだ。このニュースをどう見ているだろう。
何だかんだいって、日本人には「夫を支える妻」が好きな人が多いのだろう。「半分、青い。」でも、「もう一度映画の世界で挑戦したい、別れてくれ」と告げた夫に「死んでくれ」と返した妻を指し、「支えるから挑戦しなよと言えないのか」という感想を見かけた。
「げげげの女房」しかり、「妻が支える」ストーリーは好まれる傾向があるのだと感じる。
ノーベル賞の受賞者や活躍するスポーツ選手が取り上げられるときも、「陰で支え続けた妻」が褒めそやされる。いかに支え続けた妻が立派か、それがいかに素晴らしい夫婦関係であるのかが語られ、美談にされることが多い。
もちろん、支え続けた妻は素晴らしい。けれども、逆パターンだと、支えた夫を褒めることとセットで、結果を出した妻は「不合格」だとされることがないだろうか。
男性は結果を出せば、その裏で家庭を顧みていなかったとしても、世間的には「仕方ないよね」で済まされるケースが多いのに、女性は「妻として」「母として」がおざなりになっていると、「自分勝手だなあ。母親なのに」と見られることがないだろうか。
家事や育児が最低限やれているうえで仕事もできていなければ認められない。そう感じている女性は多いのではないかと思う。
また、主夫に対しても同様だ。「大黒柱であるべき」という価値観は、やはり根強い。妻が大黒柱で、家事育児を担っている男性は、やはり「不合格」だとされることがあるだろう。
「女性は結婚したら夫・子どものサポートをするもの」と決めつけられて損をするのは、おかしい。家庭のことは妻がしてくれるのだから、男性は既婚子持ちでもガツガツ働かせていいとされるのも、おかしい。
わたしがめちゃくちゃ好きだった朝ドラ「あさが来た」では、夫のサポート役ではない妻が描かれていた。夫の新次郎は仕事が好きではない男性で、跡継ぎなのに道楽ばかり。一方、妻のあさは商売が大好きな女性で、次々に新しい挑戦をし続けていた。
時としてダメンズにも思える新次郎だったけれど、彼は妻に仕事を押し付けていたわけではない。そして、妻に「ああしろこうしろ」と指図したり勝手に望んだりもしていなかった。
「あさは商売が好きやなあ」と言い、自由にさせて見守るのが基本スタンスだった。仕事が嫌いだと言ってはいたけれど、彼は社交性に優れており役立つ働きもしていた、ただのボンクラではなかったことも添えておく。
「あさが来た」でいいなと思っていたのは、夫婦がそれぞれ、互いのありようを何だかんだで認め合っていたことだ。
江戸時代末期という時代に、「女のくせに商売が好きなんて」と思わずに、「なら、そろばんをあげよう」と思った新次郎。妻が働いて活躍していることへ嫉妬することもなく、芸を極めることに関心を寄せていた。……下手をするとただのヒモだけれど、妻に稼ぐことを頼んでいたわけではない。
表舞台に立つ妻を、快く送り出せる夫。こんな夫婦を描いた「あさが来た」が好きだったのだ。
表舞台に立つのが好き、得意な女性もいれば、裏方として支えるのが得意な男性もいる。そして、そのどちらもを交互にこなすこともできるのだ。
以前読んだ本に、「どちらが山に芝刈りに行っても、どちらが川に洗濯しに行ってもかまわない。そして、それは必要に応じて交代したっていい」と考えている夫婦のエピソードを読んだ。理想だ、と思った。
夫がフル稼働したいときに妻が支え、妻が仕事に注力したいときには夫が支える。こうした柔軟な比重の置き方ができる社会を目指そうよ。
もちろん、内助の功タイプの夫婦だってあっていい。ただ、そこを基準にしていては、これからの時代はダメだと思う。
女性は、結婚や出産で仕事をやめる人ばかりではない。男性が従来の働き方から解放されない職場が多すぎるから、そうした社会のシステムにやめさせられているんだよ。