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パートナーシップにおける対話の必要性について、結婚10年目の我が家の場合

「対話が大切」「話し合うことが大切」

パートナーシップについて語られるときに言われることだ。ふむふむなるほど、そうだねそうだね、コミュニケーションは大切だね。……と、とりあえず何となく理解はできる。

ただ、我が家の場合はこれらが真逆に働いた時期がある。今日は、そんなことに関してつらつら書く。



まず、そもそも「対話」って何ぞや。辞書を引いてみた。ついでに、「話し合う」も。

【対話】向かい合って話をすること。また、その話。
【話し合う】①互いに話す。②物事を解決するために相談する。

なお、「向かい合う」は文字通り「互いに正面を向いた状態で対する」と書いてあった。つまり、対話っていうのは真正面から向き合って話をするってことになる。正面を向いた状態は精神的な真正面、かな。OK、理解した。


で、我が家ではなぜ対話がかえって悪い結果になってしまったのか。

今振り返ってみて思うのは、ゴール地点を「分かり合える」に持っていっていたからだと思う。これはきっと、お互いに。あとは、「正しさ」に縛られていたようにも思う。正しいあり方、正しい関係性。そんなのないのにね。

まず、そもそも人は分かり合えないのが大前提にある。それは血が繋がってようが繋がってまいが同じことで、だから親子間でもきょうだい間でも最後は分かり合えない。もちろん夫婦も例外ではないのだけれど、夫婦だからこそ分かり合えるのではないか、という思いがどこかにあったのだと思う。

長年同じものを見て、同じ場所に行って、同じものを食べて、同じ映画を見て、いろいろな課題を乗り越えて。そのベースがあるからこその「だから理解してもらえるだろう」「理解できているだろう」という感覚。「この人はわたしのことをわかってくれる……!」という喜びは、恋に落ちるパターンあるあるだからなあ。(あ、わたしの話です)

ちなみに、よく「相手に期待しているからだ。期待はしないほうがいいのだ」という言葉を見聞きする。その是非は今は置いておくけれど、そもそも期待とは少し違うのだと思う。「この人なら変わらず理解してくれているだろう」という勝手な思い込みなのだ。そんなわけあるか。どんだけ傲慢なんだ。そんなのファンタジーだ。……という話なのである。だって、そもそも人は変わるんだから。それは自分も、相手も。


「夫婦だから理解し合えるだろう」が前提にあると、対話の目的も「理解し合うこと」になってしまう。そして、「理解し合うこと」が「正しいあり方」になってしまう。いやー、きっついね。きつい。

「理解したい」が上位にきているときは、まだいい。相手の話をとにかく聞きたい、言い分を、感情を、理由を知りたい。それは相手への純粋な興味であり、攻撃になりづらいから。しかし、「理解してほしい」が上位にくると、途端に雲行きが怪しくなる。言葉を尽くしても尽くしても理解されないと、感情がどんどんヒートアップしてしまい、そのつもりがなくとも攻撃しているような状態になってしまうリスクがあるからだ。

1番理解していてほしい相手だからこそ、されないことにより絶望が深まる。憤りにも繋がる。結果、決裂。(喧嘩になるか冷戦になるかひとり勝手に見切りをつけるかはケースによる)

そんな状況に陥っていたのが、数年前の我が家だったのだろう。何をもって「対話」とするかにもよる話でもあるので、人によっては「それは対話とは呼ばない」と言うかもしれないね。



当時のわたしは、とにかく理解してほしかった。「これこれこうで、こうだから」と理論立てて、冷静に伝えようと試みていた。でも、どうにもうまく伝わらなかった。むしろ、夫から責め立てられたり嘆かれたりして疲弊してばかりいた。

それは夫側の「男のプライド」問題が原因でもあったのだろうけれど、わたしのなかに「理解されること」「結果、変わってくれること」をゴールにしていた部分があったことも否めない。そして、「話し合うこと」こそが正しいあり方だとも思っていた。話し合い、理解を深め合うことこそが正しく美しい関係性であると。


ただ、わたしたちの場合は、幾度もうまく着地できなかった経験を重ねた結果、「今はふたをしましょう」となって今に至る。腹をかっさばいてハラワタを見せ合い、血まみれになりながら対話することをやめたのだ。

人によっては仮面夫婦だと言うのかもしれないけれど、別にそれ以後不仲を隠して良好な関係性を演じているわけではない。それはきっと夫も同じなのではないかと思う。(たぶんだけれど)今もふつうに腹立たしく思うことはあるけれど、「まあ、家族ならそれくらいあるよね」レベルの話だ。


今は「おそらくここは分かってもらえないであろう部分」を、そのままぽわんと宙に浮かばせたままでいる。伝えるときのゴールは「理解してもらうこと」ではなく「知ってもらうこと」だ。

相手を責め立てたいわけでないのなら、言いっぱなしでもいいと思う。「こう思ってるから」「こう感じたから」「こうしようと考えているから」、以上。夫がわたしの行動により何かをしなければならない羽目になるのであれば「いい?」とお願いしたり訊いたりするけれど、そうでないなら報告で終了。同意されようがされなかろうが、それはそれ、あとは彼側の問題だ。


そう思うと、「対話」「話し合うこと」が必要なシーンは限られているのかもしれないなあ、と感じる。腹を割って正直に真剣に話し合いましょう、だなんて、たいがいの人とは行わないけれど、だからといってそれらの関係性が「心を開いていない関係性」ではないのだから。

妥協や折り合いというと何となくネガティブな印象になってしまうけれど、良好な人間関係ってそこが無理なくできる間柄であるように思うのだ。我慢とか耐えるとかではなくてね。そして、それはパートナーとの関係性においても同じなのではないかと思う。

わたしには、真正面から向き合って腹を割って話し合えなければ、それはその関係性からの逃げだと捉えていた部分があった。でも、きっとそうではないのだな。それが、現時点でのわたしの考えだ。


どちらかというと、対話よりもただの会話がたくさんあったほうがいいのかもしれない。会話が多ければ何となく相手の姿が見えてくるものだから、「青天の霹靂!」みたいなことは起こりづらいように思う。ふだん、よほど完璧に演じられていた場合を除いて。(これまで穏やかな夫婦関係を築けているとばかり信じていた妻に熟年離婚を突き付けられて狼狽する夫とか……)

ただ、これも関係性によりけりなので、「会話がないとダメ」とも言い切れない。我が家の場合、おしゃべりだとばかり思っていた夫は、実はたくさん喋らないで済む場所を楽だと感じるタイプだったのだと付き合い始めてから知った。要するに、社会生活を円滑にこなすために喋っているだけなのだ。

こうしたタイプがふたりとなると、会話が少ないことこそが居心地の良い関係性であるといっていいだろう。(漫画「ハチミツとクローバー」のリカさんがそういったタイプの人だ)


誰にだって「ここは譲れない」ことはある。そして、その「譲れない」が相手にも影響が及んだり協力を仰がねばならないことである場合は、たとえ理解し合えなくてもどうにかして着地点を見つけなければならない。

どうにもこうにも両者が納得できる着地点が見つからないなら、そのときはそのときの判断だ。ただ、生きていくなかで「譲れない」ことは案外そんなにめちゃくちゃ多くはなくて、だからこそそこだけ擦り合わせられてさえいれば、あとは特別「対話を」と意気込まなくてもいいのかもしれない。


これを書いていて、ふと思い出したことがある。それは「対話=向き合って話し合うこと」の「向き合う」についてだ。真正面に座って相対するのは、敵対しやすい心理状態になり、友好的に話したいなら斜め隣がいいという。(スティンザー効果と呼ばれるものだ)

なるほど、そもそも真正面から向き合うこと自体が敵対しやすかったのか。精神的にも現実的にも、位置取りは「斜め隣」がいいのかも。真正面から向き合って腹を割って話し合いましょう、はあんまり良くないといえるのかもね。

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卯岡若菜
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