わたしの幸い

七月に入り、早くも一週間が経過した。このところ、天気はずっと不安定だ。今日も仕事部屋の窓から見える景色は、曇天と雨天とを繰り返している。いま住んでいる場所からはそもそも臨むことができないのだけれど、遠くに見える山々は、今日みたいな天気だと雨にけぶってしまっていただろう。実家から見える山を、ぼうっと眺めているのが好きだった。

そんな天気次第で明瞭に見えたり霞んでしまったりする景色と同じように、わたしはわたしがよく見えなくなる。割と欲求に忠実なタイプだとは思う。それでも、食べたいものややりたいことは何なのかが、よく見えなくなってしまうのだ。何かがそこにあることはわかるのだけれど、輪郭を捉えられない。地図のない場所に立ち、数メートル先から視界不良の状態だ。この状態に陥ると、身動きが取りづらくなり、なかなかに苦しい。はっきり「何もしたくない」わけではないから、何もできない状態に焦燥感を抱いてしまうのだ。


どこに出すわけでもない創作活動を始めた。ノートに自由に書き散らかしたかけらを、かけらが求める場所に戻していく。日に少しの時間、その時間のわたしは、楽しさの渦の中にいる。渦の中だから苦しさもありはするのだけれど、上回る楽しさがわたしを満たしていく。懐かしい感覚だ。

誰に見せるわけでもない部分は誰にでもあって、その見えない深さや奥行きが表層の味わい深さに現れる。ただ、深く深く潜る行為は面倒くさくて億劫だ。潜ったところで、何か大きな意味があるとは限らない。自分の何かが劇的に変わるわけでもない。いや、その積み重ねが長期的に見たら大きな変化に繋がっていくのだと思いはするのだけれど、少なくとも特効薬のような効き目はない上に、一見時間を無駄にしているかのような徒労感のほうが強いのだ。

そんなことに頭を使っているのも、はたから見たら時間の無駄遣いなのかもしれない。ただ、そんなうだうだぐだぐだ感じたり考えたりしていることも、創作に関してはプラスになる。人生に無駄なことは何もないというけれど、創作はあらゆるものを無駄にしない最たるものだと思う。出来不出来はさておき、手段として子どもの頃から持ち得ていたことが、わたしの命綱であり幸せだ。


目の前の視界不良が晴れていく。少なくとも、この物語を書きあげたいという思いはわたしのなかでクリアなものだ。ひとつの輪郭がくっきりした欲求は、芋づる式にほかの「やりたい」をも露わにさせていく。わからないながも、足を進めようと思える力になる。

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卯岡若菜
お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。