琵琶湖疎水を歩く その二
能登半島地震に関係する・・と出てますが、最後の余談の記事によるもので本記事には関係ございません。
春節の事をすっかり忘れていて、予定通りに動けていません。九博とか行こうかと考えてたけど、色々高い。高すぎ。
予定変更しております。こんにちは。
続けていきます。また、長いです。適当にどうぞ。
舟が通れるのは、第3トンネルの出口までです。
ここらから、どうするかというと、インクラインを使って貨物列車に舟を乗せて下流まで舟を下ろします。下流まで高低差が36メートルあるので、普通であれば、ここが荷上場になりますが、積み荷を積んだまま舟を載せて昇降できるようになっています。
インクランは、普通に入ることができます。582メートルと、そこそこ長いし、そこそこ坂道。
インクラインは下らずに、脇へそれます。蹴上合流トンネル。
蹴上発電所の取水口がある水路を遡っていきます。突然水量が増えましたが、後に第2疎水、第3と水路が拡張されているためです。前述の記事の水路の水量が少ないのは、1~3月が(たぶん。調べて)メンテナンスのために水量を減らしているからです。
水路を歩いて行くと、南禅寺がみえてきます。と、いうかどこからが南禅寺の伽藍になるのかがわかってない・・・。奥に見える鳥居は平安神宮の鳥居。京都国立近代美術館のあるあたり。細見美術館あたりにある川は琵琶湖疎水です。冷泉通りを平行して最終的に鴨川につながります。結構、伸びていきます。
水路の先には水路閣があります。上部は水路となっていて、水は流れています。順番に水路に沿ってきているので、大きく驚かないでしょうが、南禅寺を訪れた人はいきなり異質な建築物が出てきてなんだこれってなるでしょうね。
当時の日本人がデザインして造ったモノとしては結構イケてますね。鉄筋コンクリート橋でみた、田辺朔郎氏によるものらしいです。
しかし、南禅寺もよく境内に造ることを許したなぁ。
おそらく、永観堂、野村美術館あたりへ流れていき、最終的には下流で合流するものだと。ここから先は道が無くなる。
水路閣に戻りつつ、南禅寺山門の脇を通って、公共トイレのあるあたりから、また脇へそれていきます。
私のお気に入りの金地院があります。今回の記事には関係しませんのでこれ以上書きません。あくまで琵琶湖疎水、明治の遺構をたどっていくという散歩ですので。く・・・。
路地の両脇に流れているのも琵琶湖疎水からくるものです。
ねじりまんぽ。上部はインクラインです。
「まんぽ」はトンネルのことです。マンボとかもいいますね。
レンガがねじれているのがわかりますでしょうか。下部の
土台部分と比べるとよくわかります。インクラインとレンガの向きが直角にならないように、わざとねじるように斜めに敷設してあります。こうすることで強度を上げているわけです。
琵琶湖疎水記念館(入館無料)で、一応、終着地点といっていいだろうか。インクラインから降ろされた舟は、この噴水のある船溜まりに到着します。この先、どうなったかは、しらない・・・。ただ疎水自体は前述したとおりまだ伸びていきます。前述以外であれば、永観堂あたりから慈照寺(銀閣)のあたりまでにある哲学の道の脇を通って北白川へぬけていきます。また、御所の防火用水としてポンプで送られていたりなど、あちらこちらへ。
さて、最後になります。長々申し訳ないがもう少しだけ。
交差点に、三角形の頂点がある塀があります。この中、日本庭園です。
琵琶湖疎水を利用して作庭された有名な庭の一つです。
無燐庵。山県有朋の別荘です。
三角形や道路はどこだといわれそうですが、紛れもなくあの内部です。
高生垣と東山の借景をもって、いびつな形の土地を異空間に仕立てています。
明治の特長盛りだくさん。当時の人気作庭師、植治(7代目小川冶兵衛)によるデザインです。
三角形の頂点部。電柱とか透けて見えますね。
赤信号みえますか。真ん中のあたり。
野暮だわ。
この辺りは、もともと確か、畑地だったとおもったけど、琵琶湖疎水が引き込まれたことで、多くの日本庭園が造られました。資産家の方がこぞってこの辺りに別荘を建てたということ。
すぐそば、南禅寺にある方丈庭園は江戸期のもので、枯山水で水を使ってません(金地院も同様)。そのことからも。琵琶湖疎水は明治期に池泉式を岡崎地区周辺で流行させた一因と言えるわけです。
そんなこんなで、終了。哲学の道をどうしようか迷ったけど、疲れていないうちに撤収。
下部、ニュースは昨日のもの。余談。
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