金曜の夜に
思えば僕はここがどこなのかも分かっていなかった。目覚めて歩きだしただけだったから。分かるのは、何も道標のないここを、どちらに進めば良いのか身体が覚えていて、進んでいる感覚だけだった。アキラに惹かれていったのはそういう、見えない何かに繋がっていく、深く落ちていく心地良さだった。
桜が散り始めた金曜の夜、僕は大学終わりでイタリアンレストランのバイトについていた。アキラはそこに客としてやってきていた。男が3人、女はアキラを入れて3人。
みな酒に酔い始めて楽しそうに談笑している中、アキラはめっぽう酒に強く、まるでシラフでつまらなそうに冷たい白ワインに口をつけては黙って虚空を見つめていた。
白い肌に長い手足。細い手首に無骨なシルバーのバングルが痛々しく見えた。僕はその手首にもっと柔らかな何かをつけてやりたい。そう感じた。
そんな事を考えながら食事をサーブしていたらアキラと目があった。
「トマトとあさりのリゾットでございます。」
アキラはすぐに目を伏せて僕から視線を逸らした。すぐに逸らされたショックと、伏せた瞼の美しさに気持ちがいったりきたりして、アキラの向かいに座っていた男に
「とりわけるお皿ください。」と言われ、少し動揺した。
「ただいまお持ちします。」
僕はそう言って厨房に踵を返した。心臓の音が自分でも分かった。あの男はアキラを目の前にしてよく別の女と楽しげに会話ができるものだ。僕ならアキラから目を離すことはできない。そう僕なら。
バイト終わり、ダストボックスにゴミ袋を入れて帰ろうとした時だった。
「家近いの?」
びっくりして振り返るとアキラが立っていた。外で見るアキラは春の夜に白く溶けていきそうで、まるで人間ではないようだった。
「…え?…どういう意味ですか?」
僕は視線を合わせられなかった。
「そのままの意味だけど。ここから歩いて帰れる?」
「自転車で5分くらいですけど…」
「近いね!」
アキラはぱっと笑顔になった。やっとアキラの輪郭がはっきりして人間に見えた。僕に向けられた無垢な笑顔に戸惑っていると
「終電過ぎちゃって、みんな2次会行ったんだけど、行きたくなくてタクシー で帰ろうか、どこかの店で時間潰そうか、悩んでたらあなたが出てきたから。」
僕はますます戸惑う。
「…それはどういう意味ですか?」
「さっきと同じ返しだね。でも今のは確かに私が遠回しだった。家ついて行ってもいい?」
あまりに驚いて黙ってしまった。
「そうだよね、無理だよね。でもさっきお店で目が合ってなんとなくいけそうな気がしたんだよね。」
アキラがその話題を出した事に僕はひどく高揚した。
「…すぐそらしたじゃないですか。」
「だってあの場で見つめ合っても周りがびっくりしちゃうじゃない。」
「まぁ…そうですね。」
「ね、何もしないで朝まで大人しくするから行ってもいい?」
予想外の提案すぎて逆に冷静になって、僕は気付いたら頷いていた。
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