私を支える黒髪ピピピへ

悲劇のヒロインよろしく、
悲しみに呑まれた文章を書くのは失礼だ。
ついさっき、黒髪ピピピの訃報が流れてきた。

黒髪ピピピは私に痛快な自由を教えてくれた
偉大な存在だ。

高校生の頃、本やネット上にある医療の知識と少し違えた自分の躁鬱症状が気がかりだった。自分は本当に双極性障害なのか、相談相手も参考になる人間もおらず、説明のつかない気持ち悪い脳に振り回されて、自己嫌悪と日々への恐怖が毎日つらかった。
この世に「私への理解」はない
と孤独を深めていたところに表れたのが、黒髪ピピピだった。

躁状態と鬱状態、
それらを俯瞰で見たときの絶望、
何もかも共感できた。
言っていることに筋が通らない、
生配信の最中に、落ち込んだり苛立ったり、感情がブレる、
言っている内容に共感しつつも、
(数ヶ月後にはまた違うこと言うんだろうな)
と、そんなところにも共感した。
脳の造りが一緒なんだと思った。
ピピピが居るということが、私のこのキモい脳を理解出来る人が居る、ということだった。
ピピピのコメント欄で
「躁と鬱はこんなに短期間で切り替わるものじゃないし、双極性障害とは別の病気なんじゃない?」
というような書き込みがあった。
これは、私が私自身に対して問い掛けたことがある疑問だったが、もはやそれならそれで良かった。どちらにせよ、ピピピが別の病気なら、私も別の病気だし、とにかく私とピピピは同じ造りの脳だと確信していた。
病気関係なく、私の脳を理解できる人がいるという安心があった。

ピピピは、病魔に襲われる精神疾患者でありながら、その実態をリアルタイムでカメラに写し出す密着者でもあった。
躁状態の勢いで、躁鬱をネタに表に出てくる人間は山ほどいるが、ピピピほどの優秀な密着者はいなかった。

ピピピはいつでも私の1歩や10歩先を行っていた。私のnoteの内容なんて、ピピピのブログの後追いでしかない。
本当に自由な、
なんでもあり
の人生観を教えてくれたピピピが自死を選んだことは、その「なんでもあり」の“なんでも”の強調として受け取りたい。

ピピピの遺書ブログを読んで、
望んだ死であることはもちろん、
幸せを得られたからこその不安と絶望だという意味もよく理解出来た。

私も、死にたい人間は死んだらいいと思っている。これは、突き放した冷たい意見ではなくて、地獄の苦しみに泣き叫んで生きるほどの意味はこの世に無いと思っているからだ。生きる意味が無いと等しい重さで、死ぬ意味もない。だから、生きるも死ぬも好きなようにすればいい。

ピピピが選んだ死に対してもももちろん同じ意見だから、
冥途で楽しくやれよ!
って言ってあげたいけど、正直行き場のない悲しみがどんどん頭に溢れてきて、
先に死ぬなよ
って
私の我儘な気持ちが出てきている。

不眠で苦しかった時、
毎日ピピピの動画を再生しながら目をつぶっていた。
そうやんな、
生きるの辛いやんな、
と、ボロボロ泣きながらピピピの文章を聴いた。

ピピピの音声の裏で流れる
穏やかなオルゴールBGMは
ピピピの大好きなアニメ
「NHKへようこそ!」の主題歌で、
いつの間にか私も口ずさめるようになっていた。
あのBGMに乗っかって、
ピピピがえげつない文章力で
弾丸のように言葉を発射している動画は
ピピピ自身がなんと言おうと、
才能に溢れた芸術だった。

ピピピがあの動画を生み出すために
どれほど苦しんだかを思うと
こんなことを言っちゃいけないが
もう新しい動画が更新されないのは
本当に寂しい


色んな動画が消えてますが
いっこ好きなやつ残ってました



ピピピ生まれてきてくれてありがとう






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