『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』という展覧会に行った。【東京旅行日記】
「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」
という展覧会に行ってきました。
ほとんど予定を立てずに向かった東京の街で、暇を持て余した私が、内容も会場も最寄り駅もよく分からないままスマホだけを頼りにフラっと。
こういうタイトル、すごく惹き付けられるけど、惹き付けられ過ぎるが故に少しやらしさを感じます。(ひねくれ者)
でもこういうタイトルの作品ってだいたいハズレがないような気もします。知らんけど
チケット代1,300円(一般)とは思えないほど内容が濃くて、来ることができてよかったなーとしみじみ思いました。私がアートの展覧会に行き慣れてなくて相場を知らないのもありますが、どう考えても安すぎ!と思います。
恐る恐る展示を見ながらちょっと泣きました。
夕方から、そもそもの東京旅行の目的であるお笑いライブがあるのに、メイクが崩れました。最悪かも。
シンプルな矢印を見逃して迷子になったり、周りのお客さんの様子を見て、最初に渡された解説の冊子が非常に重要というのを途中で理解して順路を遡ったりしました。難しい。鉛筆で塗りつぶされてるようなただただ真っ黒な紙が、“人造湖(相模湖)の建設によって水没した街の地図”を表現してるなんて。手元の冊子と照らし合わせて背筋がゾゾゾでした。
1番心が動いて泣いてしまったのが
高川和也さんの映像作品で、ラッパーの FUNIさんと話していた内容。50分くらいありましたが、あるシーンが良すぎて、そこを目指して2回見ました。(ルール違反だったらどうしよう)
ラップという表現の文化についての話で、
高川和也さん自身が自分の言葉をラップに仕上げるまでのドキュメンタリー的な映像。
先生の立場として登場したラッパーFUNIさんへの質問としてこんなものがありました。
(一語一句合っているわけではないですが)
というような問い。
感情を書き出して落ち着いたり、発散出来たりするなら、確かに、作品に仕立てるという手間のかかる工程はいらないはずです。作品に昇華させることと、ただ発散すること、2つの表現になんの違いがあるのか、私も長年ずっと疑問でした。それに対する答えが凄く良くて、号泣。泣いてたやつ私ぐらいかも。
FUNIさんの答えは
というような内容でした。
作品にするとみんなが、それぞれの解釈で自分のモンスターを見てくれる、という喜びももちろん理解できましたが、その後の
「自分は毒親だったかもしれない」
という表現にバチバチに打たれました。
私も、
負の感情を1人で殺そうとしていました。
こんなものは外に出てはいけなくて、私が終わらせないといけなくて、叩きのめして消滅させないといけない。
でもそんなことはなかったかもしれません。作品となったら評価を受けるかもしれないから。私はこの感情を勝手に悪だと決めつけた毒親だったかもしれない。可愛い子には旅をさせよ。作品にすることは、確かにそういうことかもしれません。可愛い子には、シワのない服を着せて、強い靴を履かせて、大切に送り出すべきです。当然です。だから世の中には、作品を仕上げるための技術や、それを学ぶ学校があるんだなと思いました。
自分の中で、ずっと引っかかっていたものがようやく腑に落ちた気持ちで涙が出ました。なんで自分の表現のやり方を誰かに習うんだ?と思っていたので。もしかして、世の皆はこんなこと当然のようにわかってたんですか?私は今回のこの展覧会に行けたことで、やっと知ることが出来ました。
高川さんのラップの内容も、その内容がFUNIさんの的確な指導のもと作品になっていく過程も、すごくよかったです。
展覧会とか美術館とか、小難しそうな上に作法も全然わからないし、美術館に訪れるような人ってしゃんとしててクールで頭良さそうで怖いし、不安度と緊張度すごかったけど、でもとにかく行って良かったです。
チケット買う時、
『「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」のチケット1枚お願いします』
ってフルで言うのが恥ずかしくて、
『あ、この1,300円のチケットで…』
って値段で注文してしまいました。
大阪人がたこ焼き買う時みたいに…
東京旅行、
他にも
「装いの力 異性装の日本史」
という女装男装についての展覧会に行ってみたり、
お笑いライブを3本観たりしました。
特出した観光地があるわけではない、とも言われますが、東京は人間に魅力がある街だと思いました。
楽しかったー
また行きたーい