年間映画ベスト 2021年
2022年になりました。今年も一年よろしくお願いいたします。
私生活や社会状況で色々あった結果、夏場と年末付近が忙しく、結果として濱口竜介を見逃したし、アニメでも『劇場版 少女☆歌劇 レヴュー・スタァライト』を見逃したし、ベニー・チャンの遺作もまだ観てないし…とベスト出せるほど映画観てないのですが、一応メモとして残しておきます。
しかし、今年はホントに豊作で、字義的な意味でのワースト作品は観てなかったような気はします。
ベスト10
・横浜聡子『いとみち』
結構遅めに観たためにTLからは乗り遅れてしまったのですが、日本の地方やコミュニティの現状、家族の在り方を見つめつつ、絵空事でない不安や貧しさを受け止めていく物語の在り方に震えた。最後、お店を再開するときの店長の言葉は、ここ数年右往左往していた自分の人生にとって確かな指針として刻まれた。あの風景をスタンダードサイズに収める演出の倫理観、個々のキャラクターを掬い上げようとする脚本の眼差し、すべてが愛おしい。
・loundraw『サマーゴースト』
岩井俊二そのままの音楽が物語るように、新海誠が描いていたメランコリーと憧憬をそのまま引き継ぎつつ、アニメーションが根源的に持つ不安定さと断絶を鋭利なモンタージュで露わにしながら、曖昧で不確かで、そして何者でもない私たちの物語を語る手付きの確信めいた鮮やかさに、無銘の人々への挽歌としてのアニメーション本来の在り方を観た気がした。
『シライサン』がジャンル映画の仕掛けに見せかけて、届かなかった純真への思いをラストシーンに込めていたのに引き続き、乙一は終わったはずのゼロ年代を総括しているようで、共有幻想が喪われてしまった象徴としての線香花火とただただ深く内省へと進んでいく物語が心に響いた。
・ポール・W・S・アンダーソン『モンスターハンター』
詳細はブログにて。
本作が、オマージュを捧げていたカーペンター作品のようにカルト化することを信じている。アメリカ人は映画が何であったのかを忘れてしまったのでしょう。
・瀬々敬久『護られなかった者たちへ』
佐藤健と清原果耶が深夜事件について語るシークエンス、中村義洋『ゴールデンスランバー』で堺雅人が香川照之と対峙した場が重ねられていることに気づき、ここ十数年日本が忘れてはならない諸々の問題をジャンル問わずに描き出してきた林民夫の、その執念に近い信念に敬服した。瀬々の演出もそれにこたえるように1シーンも手を抜いていないし、何より日本映画を代表する役者の力が十二分に画面に刻印されている。
『返校』や『アメリカン・ユートピア』を観たとき、このような政治に向き合い主張する作品が果たして日本で作られるのだろうかと考えていたのですが、杞憂でした。
・平尾隆之『映画大好きポンポさん』
本作をまともに評価・批評することを、自分は多分出来ないだろうと思う。『ゴッドイーター』の失敗から八年、もう表舞台に立たないと思っていた天才演出家が、その鋭利なカット割と均整の取れたレイアウトを再びスクリーンに顕現させたこと。それだけで感動してもし切れなかった。平尾隆之が自分の人生を投影しながら、創作に全てを賭けてもいいと叫ぶのだ。誰がそれを否定できるのか。
・ニア・ダコスタ『キャンディマン』
自分にとってホラー映画は、可能性を感じる新進気鋭のイメージが具現化される場であって、そういった意味で一番技術的に驚かされたのが本作のニア・ダコスタでした。
はじめて主人公がクリーニング屋の男に会う前、あの不穏さと風をワンカットで演出するショットへの強い倫理観。長回しの中で、フレーム内フレームと構図に拘り抜き、新しい映画史を作るぞという意志にずっとゾクゾクしぱなっしでした。
・清水崇『樹海村』
詳細はプログにて。
漆黒に包まれた『牛首村』の画面が漂わせるまがまがしさを観て期待を膨らませている。
・ジョン・ハイアムズ『ストーカー 三日目の逆襲』
ポストモダニズムからジャンル映画を刷新する流れを観ていると、そこで社会的主題にジャンルが隷属してしまう状況が往々としてあるのではないか、と思うのです。
近年のハリウッドのアンチカタルシスが実のところ映画それ自体をないがしろにした結果のようにも感じていて、だからこそ旧来のジャンルや活劇を志向する作品に心惹かれる自分がいます。
多くのジェンダーを取り扱った作品の中でも、ジョン・ハイアムズの研ぎ澄まされた活劇への強い意志が全編にわたって漲った本作がとりわけ美しいと感じたのもそのためかもしれません。
アメリカの内部が生成した戦争としてのイラクを、戦争映画とハードSFを踏襲することで鮮やかに描きながら、アクション映画の極限に挑んだ『ユニバーサル・ソルジャー 殺戮の黙示録』に引き続いて、必見でしょう。
・三木孝浩『夏への扉 キミのいる未来へ』
他の作品と違って本作だけは出来が落ちることは理解しています。ですが、本作が反復と猫に託した希望が自分に刻まれてそれによって人生が変わったこともまた確かで。観た直後の感動は一番強かったので個人的にベスト10から外すことはできなかった作品です。
・草野翔吾『彼女が好きなものは』
詳細はブログにて。
正しさのような一義的に固定された思想としてではなく、学びながら迷いとぶれを抱えて考えていくことが、こういった題材を作品とする上で大事なのだと信じている。
感動した作品
・岨手由貴子『あのこは貴族』
本作が演出に持つ倫理や硬度はまさしく皆目すべき達成なのは確かな一方、一方で二人の主人公を描くために空間設計の使い分けが徹底されているように腑分けをしすぎているようにも思えた。
・前田弘二『まともじゃないのは君も一緒』
会話劇の1カット1カットで、かけるべき照明をかけ、人々に流れる空気や瞬間をきっちり切り取っている。後半期に実生活が忙しくて映画をそれほど観れていないのですが、前半は『あのこは貴族』と本作が邦画を代表する作品ということでいいかなと。
・永井聡『キャラクター』
ジョン・カーペンターばりにタイトルバックにドーンと映し出される長崎尚志の名前に「マジかよ…」と思いつつ、いやぁー面白かったぁ。
映画と漫画のサスペンスは明確に違うのですが、あくまで本作は漫画のサスペンスなのですよね。『モンスター』や『アブラカダブラ』など、あくまで世界観や設定を明らかにしていく漫画的ミステリーを展開していく中で、あの人が殺されるかも、といった映画的サスペンスは捨象される。その奇妙さが挑戦的だし、そこから物語自体がマンガ論(キャラクターと細部の対比が、登場人物に仮託されている)になっていくのもよい。『セブン』のような古典や『罪の声』や『ミセス・ノイジィ』など現在の邦画に目配せしつつ、社会派や家族主義を謳うよりジャンル映画らしく悪意と倒錯で終わらせるべきだと、回答がない『放送禁止』をおっぱじめた時点で断固支持します。
・森ガキ侑大『さんかく窓の外側は夜』
本作の「先生」のビジュアルは明らかに『エヴァンゲリオン』のゲンドウに寄せていて、イメージとモンタージュの連鎖で物語られる欠落を抱えた主人公二人が少女を助けようとする顛末が、シンジとカオルが本来辿るべき道筋を描いているように感じた。それは、少年漫画のヒロイズムを批評的に換骨奪胎した原作のせいだけでもないように思えます。
結局安易なヒロイズムに回帰してしまった『エヴァ』の末路などよりも、それをどう別の作家が引き受けるかの方が全然スリリングで面白いのは、二次創作が前提となった現在のフィクションの在り方としては興味深いかなと。『呪術廻戦』とか。
本作が二人の距離が無化されない宙づりで終わることは、『いとみち』同様答えのない現実の問いに関する誠実な回答だと思う。
・村瀬修功『閃光のハサウェイ』
平尾隆之との並びは『ゴッドイーター』と『GANGSTA.』を続けて観ていた一視聴者として感慨深いです。
・イシグロキョウヘイ『サイダーのように言葉が沸き上がる』
今年のアニメは明確に演出家の世代交代をすべきだと感じた一本。『オカルティックナイン』のイシグロキョウヘイの全身全霊と現状を描こうとする意志が込められている。
後本作や『サマーゴースト』を観ながら、大庭功睦『滑走路』を思い出したりしていた。
・堤幸彦『ファースト・ラヴ』
一言だけ書くなら、テレビ局と裁判所を重ね合わせたことが全て。相馬大輔と組んでからの堤幸彦を嘗めてはいけない。ただ、『人魚の眠る家』に比べると一枚劣る。
・高橋洋人『胸が鳴るのは君のせい』
その堤の腹心である人がこの方。演出の質はベスト級で、青春映画の質の高さを実感させる一本。
ただ、脚本に難があって、ラブコメで三角関係の遅延って、結構難しいよね…。
・ジョナサン・ヘンズリー『アイス・ロード』
・マーク・ウィリアムズ『ファイナル・プラン』
リーアム・ニーソンは、ずっと、尊い。
・ジョン・スー『返校 言葉が消えた日』
ゲーム的な演出と台湾映画の清廉とした画面が溶け合っていて、不思議な感覚をずっと引きずっていた。
後、歴史を内省的に掘り下げていく物語が胸を打つ。
・チェン・スーチェン『唐人街探偵 TOKYOミッション』
これは吹き替え版で観てはいけないぞ。
最初の新宿と最後の『聲の形』で震えた。『羅小黒戦記』の時も思ったけど、中国映画、多分日本映画界より日本映画を研究していると思う。
楽しめた作品
・英勉『東京リベンジャーズ』
間柴が普通のボクシングやっているような映画。演出効率の良さと照明への拘り。ヒットも納得であるが、運動はいつものが良いかな。
実写版おそ松さんでいつもの調子に戻るのだろうと思いつつ、予告編観た時に「『傷物語』?」となったので結構楽しみ。
・リサ・ジョイ『レミニセンス』
終わった時代を代表する作品で続編や後始末するより、その時代の要素を引き受けて別の作品にしていくべきで、その点だと本作と『サマーゴースト』が良かった。
・ロバート・エガース『ライトハウス』
笑いと恐怖のぎりぎりをついていて、伊藤潤二が滅茶苦茶好きそうと思ったら、おまけ漫画まで描いていた。
・耶雲哉治『ライアー×ライアー』
ナレーションの使い方は野暮ったいが、撮影は丁寧だし、役者も魅力的に撮られているし、金田一蓮十郎が描いてきたラブコメのエッセンスとして語りの反転も上手かったしと悪い印象はない。ジャンプのあれやこれがこのぐらい映画だったら良いのに・・・。
最近の集英社の監督選びは絶望的で、女性キャラがほとんど出てこない『嘘 喰い』に中田秀夫とかただの馬鹿なのかと。弛緩しか感じない予告編を観るたびに説教したくなる。いい加減にしてほしい。
・朴性厚『呪術廻戦 0』
実をいうと原作はここだけ未読で劇場行ったので、観た時真っ先に浮かんだのが「この原作者、久保帯人好きすぎじゃね?」と思ったという。
『ゾンビパウダー』にいただろこいつと思ったキャラが五条悟と互角の争いを繰り広げたり、最後の乙骨vs夏油とか完全にお互いの格を削り合うオサレバトル(説明が多い割に全く能力が分からなかった特級呪霊と「大義だ…」の下りで笑ってしまった)で結構楽しめた。『BURN THE WITCH』もMAPPAだったらなぁ…。
ただ、そのためか、複数の状況が空間的に交差しないまま、それぞれがバラバラに戦う『BLEACH』と同じ構造になっているせいか、個々のシークエンスがぶつ切りに感じて『牙狼 DF』ほどは興奮せず。テレビ版の真人戦のが映画的だった気がするので、渋谷事変はよ。
・ロド・サヤゲス『ドント・ブリーズ2』
サム・ライミの秘蔵っ子であるフェディ・アルバレスがその圧倒的な演出力を見せつけた1を超えることは…まぁできないけどできないなりに見せ場や活劇をしっかり見せようという感じの映画で好感を持つこと請け合い。
・サイモン・マッコイド『モータル・コンバット』
ジョー・タスリムと真田広之の二人だけがこの映画に本気で、その本気に最後だけ演出家が応えているようにも見えるのでまぁいいかと思う。けどさぁ…。こういった企画が出るたび「ジョン・ハイアムズが撮ってくれれば…」と思う。モー・ブラザーズでもいいよ。
・アダム・マッケイ『ドント・ルック・アップ』
『マネー・ショート 華麗なる大逆転』がコメディの体裁を崩して、どうしようもない現状をそのまま深刻に受け止めていたのに比して、本作は風刺という名を借りて、そのどうしようもない状況に流れてしまっているように見えてしまった。科学者が名声とアイデンティティに揺れ動くさまを、アナウンサーとの三角関係に重ねたのは明らかに脚本のミスだと思う。ディカプリオの誠実さに全てを賭ける構成なら猶更のこと。
・吉田大八『騙し絵の牙』
そりゃ他の有象無象に比べたら観れる、観れるよ。話も面白いし配役も的確、演出のテンポもよいとは思うよ。
けど、同時にこれを手堅い仕事と褒めたらダメでしょうよ。スタンダードでも瀬々と違って明らかに手を抜いて(早撮りで)撮っている。
それで傑作をモノに出来るのはイーストウッドだけですよ。『美しい星』を撮った人にここで満足してほしくない。
ダメだと思うよ
・SABU『砕け散るところを見せてあげる』
堤真一と清原果耶だと堤幸彦『望み』のが全然演出が上手いので映画作家は意識的な積み重ねが大事なのだと思いました、まる。
流石に餅を食うところで固定カメラでただただ映すだけの無策さは擁護しようがない。後30分は削れるので役者が可哀想。
・リドリー・スコット『最後の決闘裁判』
夫の視点から映るシークエンスでの母親が象徴するように、第一章は男性側の視点から物語が描かれます。そこで、最初妻のマルグリットは明朗で利発な女性として光を伴って描写されます。ですが、3章では、彼女の視点から苦悩が描かれる際、第一章で女性を彩った光は喪われ、実態としての苦悩が描写される。第一章で描かれるのはあくまで男性から観た女性性であり、第三章こそが真実である、という訳です。
この本作の構成は、「女性らしさ」を一義的に捉え、愛嬌や装いを男性側の欲望に結び付けて描いており、だからこそ第三章でマルグリットがドレスを買う下りは夫に否定されることで打ちひしがれることになります。
ですが、本来化粧をはじめとした外向けの装いや愛嬌は、男性の欲望を叶えるためだけに存在するものではありません。女性自身が自己を実現する方法の一つとしての側面が当然ある。そういった可能性、男性性が女性性に書き換えられたり、女性性だと思っていたものが男性性に近い権力を志向する転位のようなことが起こりうる可能性が本作では描かれない。加害する男性は愚か者として、女性は加害される客体として一義的に腑分けされる。極めて旧来的な価値観からつくられた映画ではないかと。そして、そのような固定的なジェンダー観を否定していたのが、ジェームズ・ワン『マリグナント』だったのではないでしょうか。
自己の問題として差別意識を一人引き受けていたベン・アフレックが監督すべきだったと、自分は今でも信じている。
・庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
Qとはいったい何だったのか、という着地にげっそり。
・京田知己『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』
最初「面白いー楽しいー」→中盤「なんだあの気持ち悪いAV監督みたいな敵役は」→後半「('Д')…なんやこれ、もうええわ」
エウレカとノヴァクが地下鉄で戦うシークエンスにおいて戦闘とSEXが明らかに重ね合わせられていたり、囚われたアイリスを拘束具のような花嫁衣装を着せるなど、独善的に思想を押しつけるノヴァクには男性性が付与されている。『天空の城のラピュタ』のムスカが投影されているがための描写なのだと思いますが、ムスカのあの言動が許されるのは、彼が独善的な人物だと映画で明確に描写され、物語上で断罪されるからに他なりません。ランバ・ラルのように部下に慕われている人物にそれを重ね合わせることの齟齬が起き、彼の思想が特に否定もされないがために、結果として無駄に性的なビジュアルばかりが残るという恐ろしいことになっています。アイリスのあの衣装は物語に意味があってもこの時代にやっていいことじゃないでしょうに。引用の仕方が粗雑で無思慮なんですよ、本作。
富野由悠季が現代では絶対にしないであろう過去作の出来事を反復する後半に至って、現代を見据えたロボットアニメは『閃光のハサウェイ』のみだったと、忘れることにしました。登場人物たちが特攻をする物語を安易に引用することの意味を製作陣は考えたのでしょうか。虚構世界やパラレルワールドで世界の在り方を説明できる時期はとうの昔に過ぎ去ったはずで、エヴァも含めて未だにそんなことを面白がっている方々の気がしれないというのが、正直な自分の本心だったりします。
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