【創作】「八田與一を捕まえに行こう」そう、彼が言った。
「八田與一を捕まえに行こう」そう、彼が言った。
僕が相槌とも疑問とも取れるイントネーションで「はぁ…」と答えると、彼は寝転がっていたソファから飛び上がり僕の眼前まで自らの顔を寄せた。
「八田與一を捕まえに行こう、今から」
真白に光る海のような彼の眼に呆けた面で口を半開きにした僕が映った。
僕は口を閉じ、唇の端にキュッと力を入れると彼の言葉を頭の中で何度も反復させた。
八田與一、八田與一ね。そうか…八田與一だよな。
「賞金首の?」
「そう。賞金首、ウォンテッド、それで俺達はバウンティーハンター!どうだ、いいだろ?」
何が良いのか分からないが、また何時もの彼が出たと思った。
昔からそうだ。その場で思いついた事を後先考えず行動に移す。
大きな火が見たいと言えばかき集めた枯れ葉にガソリンを注ぎ、危く山火事を起こしかけた。なぜ引力が存在するのかと言えば、その日のうちに学校を抜け出し図書館から借りてきた学術書を飲まず食わずで三日三晩読み続ける。
彼にはそういうきらいがあった。
そしてそれに付き合わされるのが僕だった。
だから彼が突然、僕の家に上がり込んで家具や生活用品を端っこに追いやり、確保したスペースで生活をし始めてもまぁコイツだしなぐらいにしか思わなかったし、そんな生活がもう数年続いてようがまぁそんなこともあるわな程度にしか感じなかった。
「それで、何処にいると思ってんの。八田は」
彼はその言葉を待っていたと言わんばかりに口角を上げ眉を目を細めると、僕にスマホを画面を突きつける。
「海が俺達を待っている」彼のスマホが示した場所は、家から30分ほどでつく観光地でもなんでもないただの海辺であった。
景色は足早に通り過ぎ、周期的に来る振動が体を揺らす。
車窓を少し開けると轟轟と鼓膜に刺さるような風切り音が車内に広がり、思わず閉めた。
平日昼間の車内は酷く空いており、甘ったるい静寂の中を電車の軋る音だけが響いていた。
「…気持ち悪い」
電車の振動でも酔ってしまう彼は、持ち前の陽気さを失いただの肉の塊として座席で死骸になっている。僕は彼のそういう姿を見ると少し安心する、普段の彼は何処か人間離れしていて何時かフラッと僕の前から消えてしまう気がする。
あの世ってどんなだろう、とか。
宇宙ってどんなところかな、とか。
僕の手の届かないところにもきっと一人で行けてしまう彼は一度そう思うと止まってくれたりなんかしないだろう。それで1人になった僕は何だったんだアイツとか言って普段の日々に戻っていく…。いや、別にそれでいいな。そうだ、それでいい。
でもなんか不服だ、これだけ迷惑をかけておいて。はい、おしまいで終わってしまうのはズルい気がした。
「何で海に八田與一がいると思った、しかも近所に」
僕がそう聞くと、背もたれに頭が当たるほど体を座席に滑らせた彼が水中から息継ぎをするように苦しそうに口を開ける。
「あぁ…夢、夢で見た、から」
「夢…?お前、夢で見たから海に八田與一がいると思ったのかよ」
「夢で、見たら。普通…行くだろ」
「行かねぇよ普通。…まじかよ」
僕は口元を覆う様に両手で抑えると眼を閉じる。
わざわざ電車まで乗って外出したかと思えば、夢で見たからかよ。これなら家で映画でも見ていた方がよっほど生産的じゃないか。
喉元まで出かかった罵詈雑言を既の所で飲みこみ、僕は気分を紛らわす為に車窓から見える景色に目を移す。
手前に見える手の加えられてない無造作な緑と時折見える電柱が句読を打ちながら、視界の奥で見える吐き気がするほどに青い大海をデジャビュのような白波が繰り返し寄せては返す。同じ景色から同じ景色にパノラマのように流れる様は、まるで時間が止まったように思えてなんだか不安になってくる。もし、本当に時間が止まっているのなら?僕たちは永遠に進む電車の中に閉じ込められて目的の駅にはずっとつけずにただ沿線状をグルグルと骨になるで回り続けるだけなのでは?一度沸いた不安は体中のあちこちに根を張りどれだけ不乱に引き抜こうとも、僕を嘲け笑う様に思考の四隅に蔓延った。違う、そんなわけがない。そんなこと起こるわけがない。焦る手つきでスマホをズボンのポケットから取り出す。慣れた手つきで地図アプリを開き現在地を確認した。自宅から目的地で検索し、表示される青い道筋を進む現在地を表す矢印を縋るように目で追う。
自分たちは確かに前に進んでいる、そう思える確証を得られた僕は突然立ち上がった時のように貧血に似た脱力感が全身を襲い、ゆっくり背もたれに体重を預けた。
遠くからノイズの混じるひび割れた車掌の声が聞こえ、電車のドアが乱雑に開かれる。
気が付くと、目の前には顔を青くした彼がそれでもにこやかな表情を浮かべ僕に手を差し伸べる。
「行こう」
なんだよ、お前だって電車酔いでフラフラな癖に。
僕は黙って彼の手を掴む、その手は酷く冷たかった。
真夏の日差しは殺人的に僕たちに降り注ぐ。下からは殺人アスファルトの熱線攻撃。横から吹く殺人ぬるい風は余計に熱さを体感させ、この星の自然がついに自我を持ち、地球の寄生虫である人類に牙をむき始めたのではないかと思ってしまう。
「800万貰ったらどうしよっかなー!お前は何する?」
ガキみたいに両手を大げさに振りながら、防波堤の上を歩く彼がそう僕に問うた。
普通に道を歩け道を、一緒に歩いてて恥ずかしくと思ってしまうのは当たり前の事だろうか。
「貯金」
「夢がなぁい!!」
急な大声で頭からつま先から延びた一本の神経を思いっきり引っ張られたようにビクッと震えた体を落ち着かせながら、彼の顔を睨む。
「ビビりがよ」
「黙れ近所迷惑、TPO弁えた声量でしゃべれ」
「大丈夫、誰もいないから」
駅から出て、彼が夢で見たという場所を探すために海辺で徘徊を続ける僕らだったが今の所人っ子一人見ていなかった。
電車でもいつの間にか乗客は僕たちだけで、無人駅で車掌さんに切符を見せればそこからは僕たち二人だけがこの世界の住民になっていた。
「お前はなにすんの、800万で」
僕がそう聞くと、彼は絶えず浮かべていた安っぽい笑みを止め海辺に顔を向けた。
彼の歩みが止まり、それに気が付いた僕も合わせるように立ち止まる。
彼が見る景色はこれまで見えていた海辺と全く同じような景色で、何か特別な違いが僕には感じ取れなかった。
だが、彼が足を止めた。そうか、ここがそうなのか。
「800万円に意味はなく、もしかしたら俺はきっとお前と一緒に何かを成したという実感が欲しいのかもしれない」
海を見る彼の表情は僕からは見えない。僕に背を向けた彼の背中をただじっと眺める。
「別にこれまで何も成してこなかったとは思ってはいない。でも、だからこそ、第三者に証明できるだけの形に残るナニカを欲してしまったんだな」
僕は今、心の底からコイツが海を見ている事に感謝しているかもしれない。
もし神様がいるのなら僕はそいつに跪き、両手を合わせ、首を垂らして祈る。頼むからこちらに首を振らないでいて欲しい。
僕はなるべく平静を装って声を震わせないように声を出した。
「なんだよそれ、明日にでも死ぬのかよお前」
僕らしくない冗談だ、そう思いながらも口にした。何かを言わなくちゃいけないと思った。
「夢を見たんだ、海で八田與一を見る夢、それで神様が現れたんだ、ここに八田與一がいるって」
聞いたこともない低い声だった。
僕の知らない彼が僕の目の前にいた。
太陽のような人だった。
彼からは陽だまりの匂いがした。
彼の顔は僕からは見えない。
「行こうか、きっとここにいる」
くしゃりと音が鳴り砂浜に沈む両足を持ち上げ前に進む。
鼻腔を擽る潮の香りは奥にツンと突き刺すようで、思わず眉を顰めた。
キラキラと輝く水光は余りにも眩しく直視が出来ない。
海風で靡く前髪が視界の上でぱたぱたとせわしなく揺れた。
「待てよ、おい…待てって!」
一度もこちらを振り向かずに砂浜を先にある岩場を目指す彼の背中を必死で追いかける。
ただ歩いてるだけの彼に、どうしてか一向に追いつけない。
彼はただ僕に背中を向けたまま、あれほど煩く回っていた口を一度も開かずただ何かに取りつかれたように歩みを止めない。
僕は彼に置いて行かれないように必死で砂に取られる足を上げ、砂をまき散らし彼を追う。
「居ねぇだろ!普通に考えて!こんなところに八田與一なんて居ない!居るわけないんだ!」
自分の声とは思えない、粗暴で荒々しい大きな声が出た。
久しぶりに出した大声は声帯を傷つけ、燃えるように熱い喉からは風邪の引き始めのような忌まわしい痛みが沸々と湧いてきた。
「だから止まれよ!夢で見た人間が居るわけない!夢は現実じゃないんだ!分かるだろそれくらいお前でも!」
彼を追って砂浜を抜ける。眼前にあるのは突き出るような岩肌。上部には木々が生えているが彼が登り始めた岩肌には草木は何もなく捕まるところもない。
そんな場所を手慣れたようすで軽快に彼はよじ登っていく。
「…ちくしょう!」
覚悟を決め、岩肌に手をかける。足元を見ながらギザギザとした不安定な足場を進み、見失わないように彼の背中を必死で目で追った。
打ち寄せる波が岩肌に当たり、靴の中に塩水が入る。
濡れた靴は摩擦が弱まり足場が安定しない。
踵を上げ、足の振りだけで靴を脱ぐと靴下に手をかけ裸足になった。
鋭い岩肌が肌に食い込んだが痛みは気にならなかった。
どれくらい進んだか分からない。
手も足も裂傷で血を流し、額に流れる大粒の汗を拭いながら進んだ先に、少し開けた空間がありそこに彼が居た。
いや、彼と彼らが居た。
それが何だったのかは今でも分からない。
地上から30cmほどの位置にいたそれは、透明でホログラムのように背後の景色が薄っすらと透けて見えた。
金色に光る巨大な光背と袈裟を纏い、穏やかでおよそ生気を感じない無機質な微笑みを浮かべたそれはまるで阿弥陀如来のようで、そんな宙に浮かぶ透明な阿弥陀如来の両手には見知った顔の人間が抱かれていた。
特徴的な目つきにややパーマがかった癖毛をした男性は僕たちが今日の朝に散々スマホで確認した男性のそれと一致していた。
「なんで…八田與一がここに居るんだよ」
向かう先のない言葉は空を漂い波の音と共に消えた。
八田を抱いた阿弥陀如来が聖母のように優しく彼の頭を撫でると八田の体は節々から崩壊し、崩壊する八田の体が塩に変わっていく。
頭がおかしくなりそうだった。いや、もうおかしくなっていたのかもしれない気が付けば歯を食いしばっていた。指先の一つでも、微かな呼吸でも、僅かでも起こした行動で目の前の存在の琴線に触れてしまうのではないかという恐怖心が体を支配し、僕は微塵も動けずにいた。ただ目の前の存在が過ぎ去るのを震えて待つだけの矮小な弱者が僕だった。吐き気がする。全身の血液が逆流しているような寒気が襲い、皮が捲れて血と骨と臓器だけになったような不快感のみが体に残る。おぞましくて仕方が無かった。
「見ろよ、神様だ」
眼球を動かし、目線だけで声を追えばそこには相変わらず僕に背を向けた彼が居た。
そうだ、ここには彼がいる。そうだ、戻らないと。彼を連れて戻らないと。
実行をしたプログラムのように動いた体はただ無意識的に彼の腕を掴むと力の限り引っ張るが彼はその小柄な体躯からは考えられないほど重くその場から動かすことが出来ない。
「行くぞ!こんなとこからはやく!!おい!聞いてんのか!」
「夢で見たとおりだ。ほら、八田與一が居た、おい、すごいぞ。本当に夢の通りだ」
「黙れ!さっさと帰るぞ!!動けよ、動け!!」
力の限り歯を食いしばり、全体重をかけ彼の腕を引っ張るが彼はまるでその空間に固定されているように微動だにしなかった。
もう許容できる範疇なんてとっくに超えている。
気が付けば僕は涙を流して彼の腕を引っ張っていた。
エアコンのない扇風機だけが回る部屋で熱さに耐えながら世の中への不平不満を垂れる日々がずっと続くのだと思っていた。
毎日なにか嫌な事があって、周りの人からは大したことない事で傷ついてそれで帰る。
それで家に帰ったら呑気にテレビを見ている彼が居て、番組に影響された彼に何かを思いつき、嫌がる僕を引っ張って一緒に馬鹿みたいな生活を送る。そういう日々がきっとこれからも続くのだと、そう思っていた。
「帰るんだよ家に!帰るんだ、だから抵抗すんなよ!帰るんだよ家に!」
僕は欲しいものを強請る駄々っ子のように顔を鼻水や涙でぐじょぐじょにしながらそれでも喉が張り裂けるほどの声の上げ、彼を引っ張った。
そうしないと、もう二度と彼に会えない気がしたから。
彼はゆっくりと僕に方に振り向いた。
彼はいつもと変わらない陽だまりのような笑みを浮かべている。
「もしかしたら、俺はただお前と海に来たかっただけなのかもしれない」
僕の体は糸が切れたパペットのように体のコントロールを失うと、その場にゆっくりと倒れこんだ。徐々に狭まる視界の中で必死に彼の姿を追うと、彼は倒れた僕の頭を優しく抱きかかえ僕の耳元に唇を寄せると囁くように「さよなら」と言った。
僕は「そんな寂しい事は言うな」と返そうとしたは声は出なかった
そこからの記憶は僕にない。
気が付けば僕は病院のベッドにいた。
浜辺で倒れていた僕を地元の方が見つけ、警察に通報したようだった。
彼の安否を聞くと、僕以外の姿はなかったようであった。
捜索の為に彼の名前を警察に問われると、僕は彼の名前を思い出せない事に気が付いた。
あれだけ何年も一緒に暮らした男の名前を忘れるわけがない。
僕が何度自分の記憶を掘り返しても彼の名前は出てこなかった。
最初は倒れた際のショックで記憶が混濁していると思われたが、その後に彼が生きていた痕跡が一つも見つからない事が分かった。
彼の戸籍、彼の家族、彼と過ごした学校での記録からルームシェアしていた家での私物から何から何まで彼が居た証拠は一つとしてこの世界には残っていなかった。
電車に乗ったのも、そこから浜辺に向かったのも、監視カメラの映像には僕だけが映っていた。
僕は最初は記憶の混濁だと思われたが、余りにも彼の事を話すものだからしまいには精神病棟に入ることになった。
彼の存在を否定する医者、家族、警察、社会。本当に僕がおかしくなっていただけで、初めから彼が存在しないのかもしれない、そう思ってしまうこともあった。
それでも一つ分かった事は、未だに八田與一が見つかっていない事だ。
僕の目の前で塩の塊になった八田。再度同じ場所に訪問したが、そこに八田の痕跡は見つからなかった。
ただ彼が見つかっていないだけなのかもしれない、あれは僕の見た幻覚で、本物の八田は今頃、海外や日本の奥地で逃亡を続けているだけなのかもしれない。
それでも僕は信じている。
八田與一が見つからないのはあの日、あの場所で塩になったのだと。
そうじゃないと、彼が本当に実在していないみたいじゃないか。
僕は八田が見つからない事を祈っている。