「imtelsat」から「Hyde Park」まで
これは1年前の今日、Facebookに書いたものですが、この後コロナ禍で変貌する世界、アメリカ大統領選での社会の分断を見せつけられる以前の認識です。
以下、ご精読ください。
今日作業していた現場は、偶然、吉良町にあるジャズ・クラブ「intelsat」のはす向かいでした。
名古屋からは50キロ以上あり、西尾の都心からも離れたこの場所で、三河地方を代表するジャズ・クラブとして孤軍奮闘しています。
僕は数年前、友人のジャズシンガーのレコ発ツアーを観に、ここを訪れました。
名古屋では「LOVELY」や「Star Eyes」などが全国にも名が知れたハコですが、僕には「intelsat」の方がずっといい雰囲気に思えました。
名古屋のこれらのライブハウスや、「Blue Note」に共通する、客席のど真ん中に柱があること、工夫もない料理で高い料金を設定していること、何より、全体に溢れるコンサバティブな空気が、とても居心地の悪い、もっといえば気持ち悪く、観客もアーティストも何も言わずに名店扱いしていることが、昔から不思議でした。
つまり、提供者も、アーティストも、観客も、共犯関係にあることで、何も進歩しない環境に拘泥していることに気がついていない訳です。
普通に音楽をプレイし、聴き、楽しむことに先鋭的である必要はありませんが、クリエイティブな行為なのに、自身の立ち位置がクリエイティブでないことは、自覚してもいいとは思います。
要は、何も考えていませんということです。
こんなことを思っていたら、いろんなことが頭の中を巡ってきました。
最早音楽は、実演とサブスクリプションの二大潮流の中にあります。
コンテンツを実物所有する「フィジカル」と呼ばれる選択は、ある意味、上客となっています。
音楽は、所有するのでなく、共有されるコンテンツに変貌したのです。
にもかかわらず、日本の大手レーベルは、権利を持っている曲や動画の無料公開に後ろ向きです。
ソニーグループは、傘下にあるエピック、キューン、ビクターのスピードスターなどの大手レーベルは、所属アーティストのPVをフル公開しないばかりか、今では契約してないアーティストの過去作品すら公開しません。
のみならず、違法投稿は速攻で削除します。
違法投稿はよくありませんが、再発も公開もしないなら、アーティストに失礼でしょう。
最近エイベックスが、やっとサブスクリプションの効果を理解したのか、大々的に(期間限定ですが)過去作品をアップしていますが、他の大手はそんな時代遅れのことをやっているから、売上が下がることすら理解できないのです。
先日、ブルース・スプリングスティーンが、自身のYouTubeチャンネルで、2009年のハイドパークのコンサートを全曲フル公開しました。
ブルースはこの数年、過去のアーカイブを、このように定期的に無料公開しています。
しかもこれらは、一曲ごとに分割されていて、ファンには、思い入れの強い曲にアピールできるようになっています。
彼は自身のサイトで、これらYouTubeの公開とは別の未公開アーカイブを、大量に直販しています。
それは、MP3、FLAC、CD、アナログと選択できる、フィジカルにも手の行き届いたサービスです。
無料公開はフィジカルの販売と、コンサートの動員を更に上げる相乗効果をもたらします。
曲の権利を主張するのは、レーベルではなくアーティストであるべきことを、ブルースは実践しているのです。
これはビジネス的な判断以上に、キャリアの初期から、自分の公演をずっと記録に残してきた、彼の揺るぎない確信が時代とリンクしたということです。
共有とフィジカル、どちらがいいかではなく、リスナーに自分の強みをどう届けるのか?
「所有」ではなく「共有」の時代に、アーティストは自身の立ち位置を問われています。
そして、「共有」の時代とは、グローバリズムのたどり着いた一つの地点です。
グローバリズムの本質は「流動性」です。
あらゆる情報と共に、価値観も、地域性を越えて世界を覆っていきます。
流動性の中では、一つの価値観に自分を位置付けるのではなく、様々な価値観を組み合わせることで変革を促すことが可能となります。
それは同時に、今までの「自明の理」は、過去の遺物に成り下がる恐怖と隣り合わせに生きていくことを意味します。
保守だとかリベラルだとか、二項対立で語られる世界は、早晩終わりを迎えます。
そのあとに何があるのか、今、我々は問われているのです。