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「せつなときずな」第37話


サキは刹那から「黒猫」でアルバイトすることを事後報告で知って、珍しく後悔をした。

パートナーの田辺裕道の意見を尊重したかった訳ではないが、そこで迷いが生じて、刹那にハートスタッフへ復帰を促すことを躊躇してしまった。
「黒猫」がどんな店かも知らなければ、美緒さゆりがどんな人間かも知らない。
いや、大体において、娘といってもすでに成人で子供もいる母親に対し、子離れしてない自分も歯痒いのだが、かといって心配させているのは娘そのものだし、どうしたものかと自分自身にわだかまっている。

なぜだかわからないのだが、なんだか不吉な予感がするのだ。
理由がわからない感情ほど、不安を掻き立てるものはない。

実は田辺に刹那の社会復帰を相談したあと、サキは住み慣れた実家の離れを出るための新居を考え出した。
大家稼業のつながりから、信頼できる不動産屋からいくつかの土地を提案してもらっていたが、刹那から話を聞いたあと、誰にも相談せず売買契約を結び、自分が憧れていた名古屋の設計士に設計依頼をした。

それは間違っているのかもしれないが、いや、きっと間違っているのだろうけど、サキは後には引けないと思ったのだ。

設計依頼を終えた日、サキは田辺を呼んでいつものように夕食を共にした。

「今日は話があるの」

そんな言葉に、何かしらの覚悟を田辺は感じ取った。

「結婚して。私からプロポーズするわ。

ここを出て、新居であなたと暮らす。

幸せにして。私を」

田辺はよくあるように、サキの目をじっと見つめた。
サキは正直、田辺がプロポーズを受けてくれるかは五分五分だと見積もっていた。
わからないのだ、この男の本意が。
わからないから、今まで一緒にいてこれたのだ。

だから、口から心臓が飛び出るほどの緊張に、サキは震えていた。

「今日も美味しいね」
田辺はほうれん草のムースがかかったサーモンのソテーを褒めたが、勿論それは彼の好物だった。

「サキさん、刹那さんのことですね。

プロポーズ、謹んでお受けします。
僕があなたを幸せにします。

ただ、刹那さんのことであれば、僕にはサキさんを幸せにできるかはわからない。
でも、サキさんの覚悟をすべて受け入れます。

ありがとうございます」

田辺はそう言うと立ち上がり、驚くサキを抱きしめてキスをした。
そんなことは、付き合ってから一度としてなかった。

きっと間違ってるんだ。刹那のために家族を作り直すなんて、きっとどうかしているんだ。
全部間違ってる。何もかも間違ってる。
でも、今の私に一体何ができるの?

この男はそれを知っていながら、私のすべてを受け入れると言う。
私には彼がいてくれているけど、刹那には誰もいない。
4歳の絆には、孤独な母親を支えることはできない。
絆自身が、孤独になりかねない。

私は、一体何を考えているのだ?
どうしたらいいのか…

おそらく初めて全身を田辺に委ねながら、幸せと不安が光の速さで蹂躙する様に、サキは我を忘れた。

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