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「せつなときずな」 第30話


「地獄への道は善意で固められている」と、刹那は聞いたことがある。

しかし、今感じているのは、それが偽りですら、微塵の善意も存在していない孤絶した道程だという惨めさだ。

世の中には、そんな自分よりも辛く悲惨な境遇の人たちが星の数ほどいて、その中の数多くの人たちが、その境遇をバネに力強く生き抜いている。
でも私は、そんなポジティブな人生を望む気持ちにはなれない。
自棄になっているのではない。
そもそも逆境に打ち勝つ必要など感じないのだ。

誰からも必要とされない人生を、愚かな選択とは思えない。
誰かに必要とされる人生に、自分の真の人生など投影できないのではないか。
いや、それ以前に、私は真の人生など持ち合わせていないのだ。

ほっといて欲しい。

それが願いのような気がするけど、その願いは叶わない。
私には、絆がいる。

子どもは、独りでは生きていけない。
その生殺与奪は親に握られている。
若かった私は迷うことなく、望まない妊娠を受け入れて、絆を産む決断をした。
後悔しないと決めて。
人生で初めて、自分の人生で腹を括った。
その初めての子を、たった一人の子を、私は愛せるのだろうか。
私は一体、何を言っているんだろう?

19歳で産んだ絆が二十歳の時、私は39だ。
絆が18なら、私は37。
私はその時、まだ女で、絆は立派な男になっている筈だ。
自らの性欲に跪いた公彦の息子は、私がまだ現役の女の頃に男に脱皮する。
それは、成長して包皮が剥けていく男性器と同じ意味を成す。

私は、この性犯罪者がもたらした繭を、私の思い通りに育成する権利がある。
公彦のようになるか、その禍々しい性欲をスポイルするのか、それは私の手にかかっている。

それなのに私は、なぜか谷崎潤一郎の「痴人の愛」を思い出すのだ。
稀代の加虐嗜好の悪女が、被虐嗜好の男の人生を奴隷に変える、あの物語を。

私はもう、絆と今までの親子関係でいることは多分できない。
私はもう自分の人生に、意味など欲していない。
生きるのだ。
間違ったままに。
絆と共に。
そこに歩む道は、最早善意ではなく妄想に固められた地獄への道程だろう。
私はもしかしたら狂っているのかもしれない。
だからサキは、私のことがわからなく仕方ないのだ。

もし私を、社会一般でいう意味で「救える」人間がいるとするなら、それはサキだけだ。
わからなくても、血の繋がりを手繰り寄せようとする強い感情が、二人を繋ぎ止めるかもしれない。

これは親子の物語なんだ。
サキと私の。
私と絆の。
その結末が平凡に着地できたら、きっと幸せなんだろう。
そして私は、そんな希望が果たされるなどと信じていない。

絆が13歳になった日に、私は父親が何を犯したのかを宣告する。
その時、その罪と恥辱にまみれた行いが理解できるように、今から私は絆を飼育する。

私の無意味な人生は、絆の存在で成り立つのだろう。
ならばそれは、どんな過ちであっても「親子」なのだ。
私は絆に依存しない。
しかし、絆を私に依存させる。
心を作るのだ。
心の生殺与奪は、絆が男になっても私のものにする。

絆を産んでから公彦を拒んだ身体に、私はもう一度火を灯す必要がある。
女になるのだ。
母親ではなく。

公彦、あんたに感謝するよ。

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