【ミステリー】お可哀想に、貴方はもう加害者です

きらびやかな芸能界の光から闇へと落ちていった少女。その末路から始まりを遡っていく物語。
影で笑う女が一人。


※この作品はフィクションです。実在する特定の団体・人物との関係は一切ありません。
※殺人事件・ある種の自傷描写などセンシティブ表現が含まれます。
※ノベルアップ+でも同時投稿中。

ファーストトリガー

 息を吸う。
 その微かな音をマイクが拾って、静まり返った会場中に響き渡った。撃鉄げきてつがカチャリと起こされる音に似ている。
 引き金に触れるようにマイクをそっと握って、覚悟を決める。
 世界を撃ち抜くみたいに声を上げろ。これが私の人生を砕け散らせる最初の音色だ。その音は紛れもなく私自身の腹から放たれる。
 あ、と初めの歌声が 自身でも驚くほど軽やかに飛び出して、自由な白鳩のように会場を埋め尽くす。どよめきのような歓声が上がった。興奮の喝采が私の全身を揺らす。
 今日、山瀬宵華やませよいかはアイドルとして生まれ変わったのだ。
 ああ、と恍惚のようなため息が溢れる。
 分かってる。ここからはもう墜落するまで飛ぶだけだ。着地する場所なんて、方法なんてない事は分かっていながらも両足を揃えて飛び立つ。
 それでも飛ぶのは祈っているから。どうか、この在り方が私にとって最も幸せな人生でありますように。より多くの人に愛される人生を選びとれますように。そして最後はどうか殺して。舞台に立ったまま、美しく。
 願うのはただ、それだけだった。

調査:初動

 先輩、と駆け寄ってくる青年の声に九崎くざきは振り向いた。中野警察署刑事課の府和ふわだ。

「九崎先輩! 指紋しもん結果出ました!」

「山瀬の指紋はあったか?」

「はい。これ、鑑識かんしき結果です」

 昨晩、現場から押収された物品の鑑識結果が返ってきたらしい。やっとか、と九崎は昨晩から張り詰めっぱなしの神経を少しだけ緩ませた。
 署内を大急ぎで駆けてきたのだろう。府和の息は少し弾んでいた。左手に握っていた書類束を九崎に渡そうとした寸前で、くしゃりと歪んだ紙端に気付いて慌てて伸ばそうとする。
 律儀りちぎすぎるきらいのある青年だ。九崎の方が20歳以上年上であるものだから、過剰な遠慮をしているのだろう。階級や年数の違いはあれども、現場に出れば刑事は刑事だ。少なくとも、俺に対してはそんな遠慮はいらん。……そんな言葉で率直に伝えてやったばかりなのだが、府和の遠慮癖はまだ取れなかった。そのうち慣れて欲しいものなのだが。

「どうせコピー用紙だ、別に良い」

「すいません……」

 受け取った書類を九崎はさっそく検めた。
 ページをめくりながら、事件概要をざっくりと頭の中で整理し直す。
 昨夜23時、警察に殺人事件の通報があった。現場は中野の高級マンションの一室。被害者は人気アイドル山瀬やませ宵華よいか――本名山本麗南れな。通報者は山瀬を殺した本人であると主張する田淵鵜素たぶちうもと。職業マネージャー。山瀬と同じ芸能事務所に勤めているが、担当しているのは別の男性アイドルだ。被害者とは恋人同士であったと主張している。
 田淵はそのまま緊急逮捕。容疑者として取り調べを受けている。本人の証言によれば、昨日は山瀬の誕生日を田淵の自宅で祝う予定だったらしい。しかし田淵の浮気に気付いた山瀬とキッチンで口論になり、言い争いが激化。激高した山瀬がまず包丁をキッチンから取り出し、田淵を刺そうとした。右腕を刺された田淵は必死で山瀬から包丁を取り上げようとし、二人でもみあっている内に、気付いたら刺してしまっていたとの事だ。
 九崎が現在気にしているのはおおむね三点。
 まずは田淵と山瀬の交際関係の有無。被害者はアイドルだ。九崎達は拉致らちからの殺人の線も疑っていた。
 2つ目は田淵の浮気についての事実確認。関係者達が抱えていた人的トラブルは『予兆』にそのまま直結しやすい。
 そして3つ目は犯行当時の詳しい現場状況だ。田淵の証言通りならこの事件は一種の『事故』として扱われることになる。事故により殺してしまった場合の罪は、明確な殺意の上での殺人罪よりも遥かに軽い。後の裁判における大きなポイントだ。
 現在、緊急逮捕から6時間程経過したが、田淵本人以外からの有力な証言はまだ取れていない。山瀬のマネージャーとはコンタクトが取れたのだが、交際関係については知らなかったの一点張りだった。
 そんな状況の中、現場に残されていた物的証拠の検分報告が上がってきたのは朗報だった。
 受け取ったばかりの書類には、被害者の指紋が複数、容疑者自宅内から発見された旨が記載されていた。

「玄関のドアノブ、トイレのドア、クローゼット。……?後はキーボード、パソコンの電源スイッチに被害者の指紋あり……日常的に出入りしていたのは間違いなさそうだな。山瀬本人が自らの足で田淵の家に向かっている姿も確認が取れた。駅前の監視カメラに映っている上に、目撃情報もあり。拉致や誘拐の可能性は完全に消えたか」

「九崎先輩、クローゼットがどうかしましたか?」

「何のために触ったのか気になってな。あそこに女物の服はなかったはずだろう?」

 それどころか、押収された品々からは女性の気配も希薄だった。女物の服は一枚も見つからず、女性用の日用品、化粧品も見当たらなかった。歯ブラシも使い古された田淵の物が1つ。食器も皿類以外は一組だけ。

「そうですね……どう考えても恋人が居る男の部屋じゃあなかったですよね。綺麗好きではありそうだったけど……」
 
 府和が納得したように頷いた。彼の言う通り、几帳面に整頓された、男の一人暮らしの部屋に田淵は住んでいた。

「山瀬が日常的に出入りしていたとしても、恋人だったとはちょっと考えづらいですよね……うーん、実は姪だったとか? ありますかね?」

「家族関係は今のところ出てきてないな。田淵の家族も、山瀬の家族も二人の関係性については何も知らないと言ってただろ」

 遺族に対しての聞き込みは九崎と府和で行った。二人で中野から港区まで車を飛ばして、どうしても重くなる気を引きずりながらドアを叩いた。

「山瀬の方はデビューしてから一人暮らしをしていて、最近の様子は家族も知らなかったみたいだな……と言うよりも、あの様子だと……」

 珍しい事ではないとは言え、山瀬の遺族の態度を思い出して九崎の気持ちが沈む。
 まだ怒鳴り散らされた方がマシだった。
 玄関口に出た、山瀬の兄は面倒事を抱え込んでしまったかのような態度を隠さなかった。

「家族関係は希薄だったようだな」

 あえて九崎はきっぱりと言った。単なる事実として扱う事で憂鬱を振り落としたのだ。

「ええ。不良娘ふりょうむすめがついにやらかした、みたいな反応でしたね」

 府和はあっさりと頷いた。彼の方が気持ちの割り切りが早い。あるいは九崎のように身内を無くした経験さえなければ、そちらが普通なのかもしれない。
 九崎はできる限り感傷を忘れるように努めた。

「後は……山瀬の犯行前の行動が気になるな。田淵の家に一人で歩いて向かったのが引っかかる」

「『お忍び』だったなら一人でも変じゃあないんじゃあ……あ」

 言いかけてから、府和はすぐに同じ違和感に気付いた。

「そっか、『お忍び』の恋人を田淵は迎えに行かなかったのか……。車で迎えに行ってあげても良かったのに。変、って程じゃないけど……でも確か、その日は山瀬の誕生日だったんですよね?
 うーん……アイドルじゃなくても恋人の記念日でしょ。俺だったら別のとこで待ち合わせして、車で迎えに行きますね、やっぱり」

 九崎は静かに頷く。

「それだけじゃあない。人気沸騰中のアイドルを無防備に出歩かせるような真似を、ベテランのマネージャーがやるか、って話だ。目撃者が正体に気付かなかったから良いものの……」

「制服を着てたんですよね。しかも自分と関係ない中学校のを、わざと。それだけでバレないって踏んだのか……なかなか大胆な子ですよね」

「あるいは誰かに教えてもらったか、だな……」

 制服の魔法。
 ふと懐かしい言葉が九崎の中に蘇った。警察官ではない人間が、警官服を着る事によって無条件の信頼を得やすい現象を言い表したものだ。
 山瀬が行った事はその応用と言ったところか。中学生の制服を着ることによって、第一印象を『普通の女子高生』に塗り替えたのだろう。実際に正体に気付かれていないのだから、依然として人間の先入観に訴えかける手法は有用だ。犯罪に活用される程に、有用すぎる。

「二人が恋人だったっての、やっぱり嘘っぽく感じちゃうんですよねぇ……アイドルとマネージャーって微妙にピンと来ない、と言うか……」

「田淵の証言のウラが取れないのが痛いな。二人の交際について知っているヤツが今のところ誰も見つかっていない。怪しんでいたヤツすら出てこないのは妙にクサいんだが……物証だけは出てくる、か」

 山瀬のポケットには田淵の家の鍵が入ってきた。社名と数字が数桁刻まれており、複製された物ではない事が分かる。入居する時に管理会社から渡される2本の鍵の内の一本スペアを預かっていたようだ。

「山瀬と特に関わりが深かったアイドル三人を山瀬のマネが集めてくれるそうです。今日の午後なら時間が取れるとさっき連絡がありました」

「良し、交際関係についてはそっちで深掘りしよう。凶器からの指紋は……そうか、出たか……」

 九崎はつい失望を隠しきれなかった。府和も悔しそうに頷く。

「包丁からも二人分の指紋が。山瀬と田淵です。特に山瀬の指紋はこことここの痕……しっかり包丁を握った痕があります」

「田淵が言ってた、包丁を最初に持ち出したのは山瀬の方だって証言……疑う余地は今のところなし、か」

「関係者の誰か一人でも交際関係について知っている人が居れば良いですね。俺としては否定してくれる証言が出てくれないかって思っちゃいますけど……でも何かを『無い』と証明する方が難しいんですよね、こういう時って」

「先入観は持ちすぎるなよ。聞いた事実だけから考えろ」

「はい」

「田淵の浮気は……これか。……んん? 出会い系サイト?」

「パソコンとスマホに閲覧履歴が大量に残ってました。実際に会ったり、女性を家に呼んだりしてたみたいですね。女性と田淵がやり取りしたメッセージが残ってました。二週間くらいでメッセージは消えちゃうみたいなんで、ここにあるよりももっと多くの女性と関係を持っていたかもしれません」

「同じサイトに今月だけで数十万つぎ込んでるな……いや、先月の利用履歴はなしか。つまり、今月に入って急にハマった……?」

「山瀬とうまく行かなくなったんでしょうか?」

「どうだろうな。女性の出入り自体は随分と前から会ったようだ。夜職らしき女性が複数出入りしていたと目撃証言もある。だが、今月に入って何かあったのは間違いなさそうだな……田淵に直接聞いてみよう」

 九崎は眉間にグッとシワを寄せた。調査の流れに不穏なものを感じたのだ。根拠はない、直感的な物だ。
 何かが噛み合っていないかのような気持ち悪さが腹の中で渦巻いていた。

凶行兆候

 Yuki。
 アングラな出会い系サイトで繋がった、女か男かも分からない人物。これが今の俺のたった一つの命綱だった。
 出会いは三日前。

『死ぬしかないかも知れない』

 行き場のない想いを書きなぐった、どことも知れない掲示板で俺はYukiと出会った。人種国籍悲哀こもごものネットの海の中でも一等下流、誰しもが匿名で好き勝手な事を書いているその掲示板にたどり着いたのはたまたまだ。
 誰にも言い出せない悩みを抱えていた。身近な人間にだって、こんな事言えなかった。それなら、と手を伸ばすのは匿名の方だ。誰とも知らない、行きずりの人間の方が話しやすいものはある。
 バーなんて小洒落たとこに行くような暇はなかったし、そもそも顔が相手に割れている状態で話せることでもない。曲りなりにも芸能人のお付き人と言う職業柄、愚痴1つですら気が抜けない。
 何か悩みの解決法でもありはしないかとネットを漁って、結局見つからなくて、気付けば指先が俺の自意識よりも先に本心を探り当てていた。

 ◯殺したいやついる?

 なけなしの伏せ字。開いてみると冷やかし半分、ふざけ半分。本気に死にたそうな書き込みなんてどこにもなくて、だからこそ逆に安心できた。
 気軽に、衝動的に。だが重苦しいものを吐き出すように。
 死ぬしかないかもしれない。
 ただ一行だけの匿名の書き込みだった。一本のセブンスター。一本のストロングゼロ。どうしようもない鬱屈うっくつ感を一時的に紛らわして、次の日には忘れているような小さな過ち。そんな感じだ。
 それが行き過ぎた想いである事は分かっていた。だが焦りが俺を狂わせた。他に方法はあるはず、と自分を説得する言葉が、まるで言い訳のように聞こえてきた頃だった。
 いっそ、自分が居なくなってしまった方が早いんじゃあないか。誰かが傷つけられる前に、事が起きてしまう前に、自分が全ての責任を引き受けてこの世を去ってしまった方が、いっそ。引き金を引く最後の後ろ押しをしたのは間違いなく俺だったのだから。その責任を。取り方も分からない過ちのあの責任を。
 ……ただの悪酔いだ。
 空き缶みたいに潰してゴミ箱に放り込まれるのを待つだけだった、そんな悪酔いが俺とYukiとの出会いだった。

『助けてあげようか』

 俺の書き込みについた短い返信。後ろに付随した怪しげなURL。普段なら絶対にクリックしなかったであろうそのサイトに飛び込んだのは何故だったのだろうか。その時点で既に、魔は差していた。

【今夜22時。直接話したい。】

 犯罪とは成程、後がない者がやるのだ。

調査:取り調べ

 田淵鵜素たぶちうもとと言う男を改めて眺めてみる。
 黒縁のウェリントン眼鏡。細身の体型。穏やかな顔つき。30代半ばの正規職を持つ男性に相応しい落ち着きと自尊心。だが尊大な様子はない。
 右腕にはきつく包帯が巻かれている。逮捕されたときはきっちりと薄グレーのスーツを着こなし、その上から包丁で刺されていた。
 雰囲気だけならば、マネージャーと言うよりはシックな喫茶店の店主のようだ。確かに、子どもには好かれる類かもしれない。
――やっぱり妙だ。
九崎くざきは気を引き締めた。

「もう一度確認だ。田淵鵜素、35歳。職業は芸能事務所のマネージャー。被害者は山瀬宵華――本名山本麗南れな。職業アイドル。被害者とは交際関係にあった。昨晩22時に山瀬を自宅に呼んで、彼女の誕生日を祝う予定だった。しかし、祝いの話をする前に山瀬が浮気について詰問してきたため、口論になった。激高した山瀬がキッチンにあった包丁を持ち出したため、揉み合いになり、気付いたら彼女を刺殺していた。その後、救急で警察と救急車を両方呼んだ。だが山瀬は心臓を刺されて即死しており、助からなかった……間違いないな?」

「はい、間違いありません」

 田淵は穏やかに頷いた。

「そして浮気については事実だった、と。押収されたパソコンとスマホの両方から出会い系サイトの利用形跡が見つかった。ここ一ヶ月で数十万つぎ込んだみたいだな。実際に会う約束をした相手もいる」

「未来の約束をしたのはたった一人ですが……宵華がそれを浮気と捉えるなら、浮気なんでしょうね」

 田淵の背後で記録を取る府和ふわが顔をしかめる。『クソ野郎め』と言う感想が表情に出ていた。若くて素直な男だ。素直すぎるが、容疑者の背後での出来事なので九崎は見逃す事にした。

「今月から急に出会い系を使い始めたきっかけは?」

「そういうのも分かるんですね」

「それで、どうなんだ?」

「たまたま流れ着いたんです。ネットを漁ってた時に、ふと目に入って、たまたま」

「浮気自体はその前から続いていたのか?」

 田淵は首を縦に振った。静かな否定だった。

「その前から女性の出入りは会ったようだが」

「宵華との関係が始まる前の話です」

「浮気をしはじめたきっかけがあったんだろう」

「はい。ありました。彼女と別れたかったんです」

「別れたかった?」

「はい。やっぱり、世間にバレたら宵華のキャリアに響きますから」

「諦めさせるために浮気を始めた、って言うのか」

「部分的には、はい。きっかけはそうです。ですが、必要以上に深入りした事は……はい。否めません」

「今月、何かあったはずだ。何があった? 人間の行動パターンは意味もなく変わらない。サイトを使い始めるようになった理由は何かあるだろう」

「いいえ、大きな理由はありません。ですが強いて言うなら、今月に入って大きめなプロジェクトが動き始めた事でしょうか。それでプライベートの時間に外出する時間が減ったので……彼女としばらくは会えない約束もしていました。ええ。だから、サイトの利用が増えたんだと思います」

 やはり妙だと九崎は感じた。
 まるで用意されていたかのように返答が早い。行動のきっかけなど多くの人間は綺麗に言語化できないものだ。

「山瀬との交際について他に知っていた人間はいるか?」

「いません」

「何故?」

「彼女のキャリアのためです」

「キャリア。さっきも言ってたな。関係について誰も知らない方がお前にとって都合が良かったから、ではなくてか?」

「そう言う意図は、ありません。ありませんでした。刑事さんにもお分かりかと思います。デビューも間もない、これからの状態で、アイドルに恋人が居る、と言う情報が出回る事の恐ろしさを。ただの噂だけでも彼女の未来を閉ざしかねない」

「それなら最初から手を出さなきゃ良かったんじゃあないか」

「そうですね。僕もそう思います」

「交際のきっかけは?」

「…………」

 田淵はしばらく物思いに沈むように目を伏せた。
 逮捕されてから、田淵が初めて見せた沈黙だった。

「……詳しくは覚えていません。僕からだったかもしれないし、彼女からだったかもしれません。気付いたら、そうなっていた、としか」

 今、九崎の目に映っている男はそう短絡的な人間には見えなかった。のらりくらりと名言を避ける慎重さ。答えられる質問に対してだけは妙にキッパリと断言する揺るぎなさ。
 最後に、先程から直感で捉えている妙な違和感。九崎の中で、田淵の言動の何かが引っかかっている。

「刑事さんは二人の女を同時に愛することができますか?」

 ふと田淵が問いかけてきた。
 九崎は少し考えて、首を横に振った。

「しようと思った事もないな」

「可能性可否の話ですよ。例え話です。でも、確かに趣味の悪い質問でしたね、すみません」

「あんたは考えた事があるんだな」

 浮気をしていた男に何を、と思いながらも九崎はそう言った。言ってから、その事実を意外に思う己に気がついた。
 そうだ、実際に目にした田淵と、物的証拠から導き出されるプロファイルがうまく一致しないのだ。今まで接したことのある浮気癖のある男は一様に、どこか他人を見下していた。女性だけではない、同じ男でさえも、どこかで見下げている。掘り下げてみれば、対人関係をうまく形成できなかった背景が出てくるのも、珍しい話ではない。
 だが田淵はそう言う類の人間からは程遠い印象を受けた。どちらかと言えば感じるのは育ちの良さ。
 ふと、流し読みした田淵の略歴を九崎は思い出す。
 田淵は高知出身で、高校までは地元の学校に通っていた。大学からは都内にある国立に通うために一人暮らし。農家を営む実家はあまり裕福な家計ではなかったが、成績の良かった長男の将来性を閉ざしたくなかった。そのために多少、無理をして田淵を送り出したようだった。就学中の田淵は奨学金を維持しながら、アルバイトで幾らか家計を助けていた。そして卒業後に現在勤める芸能事務所に就職。仕事の忙しさで、実家にはもうかれこれ十年は帰っていない。しかし実家への仕送りは就職時から今まで、途切れる事なく続いていた。

「同じ女性を一度に愛すること。僕は無理だと思っていました。でも今は……」

 愛の種類が違えば、もしかしたら。もしかしたら可能なのかもしれない。
 そう言って、田淵は困ったように微笑んだ。

「……すみません。余計な例え話でしたね」

「この事件に他に関わっている人間がいるのか」

「いいえ、居ません。関係しているのは僕と、宵華だけです」

「……そうか」

 キッパリと断言する田淵の様子を見て九崎は直感的に判断する。
 Xだ。まだ見ぬ第三者が事件に関与している。
 田淵はきっと、誰かを守ろうとしている。

聞き込み調査:関係者(イチカ)

 山瀬のマネージャーが集めてくれた3人の関係者達。彼らへの聞き込みは一言で言えば熾烈しれつだった。
 芸能人って、カメラの前と裏で性格が違うもんだと思ってました。府和が疲れて切った顔で小さく呟く。

「まあ……強烈だったな……」

 案内された楽屋前に訪れた時から騒乱の気配はあったのだ。

「ホッッッッント!! せめて『トワノ』終わってから死ねつーーの!!!」

 そこまで薄いわけではないだろうドアを貫いて、キン、と甲高い少女の声が九崎の耳に刺さった。うわ、と府和が思わず声を上げて耳を抑えるのも納得の声量だった。
 別の少年が慌ててなだめているような声も聞こえてくる。
 九崎が恐る恐るドアをノックして声をかけると、急にしん、と不自然な沈黙が広がった。

「はい」

 静かで、落ち着いた女性の声がようやく返ってくる。先程の大声とも、 なだめている方の声とも異なる人物だ。集められているのは三人と聞いているから、この女性で三人目だろう。
 九崎と府和は覚悟を決めて扉を開けた。
 まず目に入っているのはポニーテールのぶすくれている少女だった。零れ落ちそうな黒目に、小さい顔。いかにも少女趣味らしい服装――確か、ゴスロリとか言うのだっただろうか?――を着ている。最もアイドルらしい格好をしたアイドルだった。
 『イチカ』の名で知られているアイドルだ。年齢は14歳。
 芸能分野に興味のない九崎でも顔くらいは見た事がある少女だ。人気沸騰中の毒舌系腹黒アイドル。その実、素直で友達思い。そんな感じの煽りで売り出されていたはずだ。
 椅子の背もたれに背中をぴったりとつけて、姿勢良く座っている姿はなるほど、行儀が良い。しかし九崎達を親のかたきのように睨みつける人相はとてもアイドルとは言い難い表情だった。キッと一度九崎達を睨みすえてから、何もかもが気に食わないかのようにそっぽを向いた。聞き込みをする前から随分とご機嫌斜めのようだ。

「イチカちゃん、刑事さんたちに当たっても仕方ないって……」

 そんなイチカを苦笑混じりになだめている若い少年。永久風とわかぜ三月みつき。こちらも大人気男性アイドルだ。あどけない顔立ちに反して芸能歴はかなり長い。未成年の少年達のみで構成された5人アイドルグループ『L』メンバーの中で年長組と呼ばれる18歳。
 田淵がマネージャーとしてついていたアイドルがこの三月だった。茶髪できらびやかな顔立ちをしているが、人柄の良さが愛嬌あいきょうとしてにじみ出ている。人懐っこそうな少年だった。
 そして最後の一人。素知らぬ顔で本を読んでいる、背の高い女性。黒田くろだミキ。昨年の大河ドラマで主演級を勤め上げた女優だ。タイトなスカートからさらけ出した足を組んでいるだけで、気品のある色香が匂い立つ。まだ27歳との話だが、大女優と呼ぶに相応しい貫禄がある。子役の頃から役者として活動していたそうで、芸歴自体は20年。それだけの長月を芸能界で生き延びてきた者の落ち着きが備わっていた。
 黒田はまるで九崎達の存在に初めて気が付いたかのように、静かに一回、瞬きをした。組んでいた足を下ろし、本をパタリと閉じて、何も言わずに微笑みかけてくる。
 それが彼女なりの会釈えしゃくだと分かり、九崎も軽く頷いた。隣の府和は恐縮そうに縮こまり、すみません、と小さく呟きながらペコリと頭を下げた。黒田の妙なオーラに当てられてしまったらしい。

「山瀬宵華さんについて、一人ずつお話を伺わせてください」

 そう言いながら、九崎は始めにイチカを呼ぶ事に決めた。あまり長く待たせて、これ以上機嫌を損ねても大変だからだ。
 そして彼女の対応は府和に任せることにした。いかんせん、九崎の風体は容疑者を威嚇することには向いているが、未成年の少女をなだめる事には向いていない。何もしていないのに泣かれた事すらある。
 気の強そうな少女だったから心配無用かもしれないが、念のためだ。
 用意してもらった別室に来たイチカは相変わらず不満そうだった。グッと顎を引いて、下から睨めつけられると流石に迫力がある。

「警察なんてどうせ形だけ捜査して終わりでしょ」

 口を開くなり、イチカはそう言った。九崎と府和が目を剥くのにも関わらず、恨めしそうに続ける。

「田淵さんが最低ヤローで、ヨイカがかわいそーな被害者。そういう方向でもうまとめる気なんでしょう。メンドーなお仕事ごくろーさま。で、あたしは何を言えば良いんです?」

「ちょ、ちょっと待ってね。まだ捜査の途中だから警察としても何も分かってなくって……」

「嘘。だってテレビも新聞も言ってたもん。『警察は田淵が犯人と見て捜査している』って。あんたらもクソプロダクションのヤツらと同じなんだ。全部田淵さんのせいにするつもりなんだ」

「犯人の線もある、と考えているだけだよ。まだ確定じゃない。だからこそ、こうして関係者にも話を聞きに来たんだ。もし、今の警察の考え方が事実とぜんぜん違うなら、是非教えてほしい。俺たちはそのために来たんだから」

「…………」

 府和が少女の座る椅子の隣にわざわざしゃがみこんで説得したのが功を成したのか、イチカは口を噤んで少し雰囲気を和らげさせた。府和はイチカの言葉を待つように、静かに片膝をついたままイチカの顔を見上げている。こういう動作を九崎は咄嗟には出来ない。やはり府和が適任だ。

「……ま、そりゃそうか。警察の人もそれぞれだよね……あたしたちも、人それぞれみたいに……。……ごめんなさい。うん、ちゃんと話します」

 イチカは全身に力を入れていたのだろう。フッと肩の力を抜いて、疲れたようにため息を吐いた。無理もない、同い年の同僚が殺害されたのだ。イチカ自身が当事者でなくとも、見えない心労は確実に溜まっているだろう。

「ごめんね、大変な時期に。でも昨日何が起きたのか、真実が知りたいんだ。そのために、普段の宵華ちゃんや、田淵さんの話が聞きたい」

「……あたし、客観的に見るの大の苦手なんですけど」

「大丈夫。みんなそうだから。だから色んな人に話を聞くんだ」

「何、話せばいいですか」

 イチカは渋々とそう言った。

「まず、宵華ちゃんとの関係を確認させてほしい。確か、同じプロジェクトの中心メンバーだったんだよね?」

「はい。あたしと、ミキさん……さっき楽屋に居た、バリバリオーラの人ね……と、ヨイカ。その三人でトリプル主演のドラマを撮ってました。『永遠のデジタル・ホライゾン』。あたしたちは『トワノ』って略して呼んでます。ウチのプロダクションの来期のイチオシになる予定だったんですよ」

「ああ、すごい話題になってたね。豪華アイドル二人のコラボに加えて……」

「アイドルじゃないです」

 イチカはキッと府和を睨みつけた。

「え?」

「あたしたちは役者です。ドラマや映画のキャスト。そういう存在になるためにこの事務所に入ったの。アイドルなんて呼ばないでください」

 府和と九崎はイチカの言葉に驚いた。その様子を見て、イチカが語気を少し弱めて説明してくれた。
 山瀬やイチカが所属している事務所は二種類の人材を抱えている。三月が所属する『L』のような歌唱アイドル。そして黒田ミキのようにドラマで活躍する役者だ。イチカと山瀬は後者だった。
 しかし近年のアイドルブームに乗っかるように、売り出したい役者をプロダクションが『アイドル』として宣伝するようになったと言う。

「それで急にバカ売れしたのがヨイカ。演技がそこそこ出来るアイドル、ってちやほやされはじめました。でもあたしたちはアイドルじゃない。クソプロダクションがあたしたちを勝手にそう呼んで、売ってるのは知ってるけど。ヨイカみたいに奴らに尻尾振って、練習もそこそこに、愛想ばっかり振りまくなんてあたしは嫌。だからアイドルなんて次呼んだら、ぶっ殺しますから」

 警察に対して中々際どい言葉を吐きつけてくる。しかし彼女を咎める前に、同情のような気持ちが九崎の中に湧き出た。14歳、14歳だ。まだ中学生の子どもが話すような内容じゃない。

「イチカちゃんはアイドルが嫌いなん……」

「違います」

 イチカをなだめる意図で喋ろうとした府和の言葉はぴしゃりと遮られた。

「あたしが嫌いのはヨイカだけです。アイツ、マジで最悪だから。ほっんと嫌い」

 あけすけのない言葉を吐きながらイチカは顔をしかめる。

「ミッくんはアイドルですよ。立派です。歌って、踊って、ステージのセンターで星みたいにキラキラして、輝くのが仕事。あたしミッくんの事は好きです。別にアイドル自体が嫌いなわけじゃない。
 ……でも、だからこそ、あたしたちがアイドルを自称するのは違うじゃないですか。役者が輝かせるのは舞台全てです。物語です。お話で、お客さんを楽しませるお仕事です。それを、『中の人』が『私が舞台の中心です!! 見て!!』とかやるのなんて違うじゃないですか。ヨイカはそれをやるから、あたしは大っ嫌い」

「それは……実際にヨイカちゃんが言ってたの?」

「いいえ。でも言わなくても分かるんですよ、そういうの。ヨイカは自分以外に興味ないんです。他の役者も、お話を作ってくれる人も、音楽を作ってくれる人も。マネージャーさん達のことだって。あんだけ媚売ってるクソプロの上層部のヤツらの事だって。ミキさんのことさえ。全員が全員、『山瀬宵華』の人気に乗っかってるからやってけてる、って本気で思い込んでる。『山瀬宵華』がいなくなったら何も成り立たないって思ってんでしょうね。最悪。ホント……最悪」

「………………」

 府和は何も言わずにイチカの言葉を待った。九崎だったとしてもそうしただろう。

「……そんなヤツなのに、ヨイカはうちの稼ぎ頭です。最盛期に比べりゃそりゃ落ち着いたらしいですけど……。ヨイカが居ないと成り立たない、って言うのは、きっと半分はホント。ミキさんも、Lもいるから、ヨイカなしじゃ壊滅って程じゃないけど……でも少なくとも、あたしはその代わりにならない。だからこそ最悪」

 ふぅ、とイチカは吐き出しきったようにため息をついた。最後の一言こそが本音だったのだろう。一番重苦しいそれを吐き出して、イチカは少し落ち着いたようだった。

「ヨイカについてはそんな感じです。後は、えっと。田淵さんですよね」

「田淵さんと宵華ちゃんが会ったきっかけとかは分かるかな」

「えー……そんなの分からない……あっ」

 イチカはなにかを思い出したように手を叩いた。

「確か、キラヨイが田淵さんだったんじゃないかな」

「キラヨイ?」

「五、六年くらい前かな。ヨイカがアイドル扱いされるようになったきっかけの番組です。ヨイカのマネが主導だったんだけど、『L』でそういうのに詳しいからって田淵さんも引っ張り出されたはず……ガッツリ関わったとしたらそこじゃないかなぁ」

「イチカちゃん自身が田淵さんに会ったことは?」

 府和の質問にイチカは首を横に振った。

「田淵さんの事は知りません。直接話したことはたぶんないと思う。でも、ミッくんがいい人って言ってたので、あたしはそれを信じます。ミッくんだって、あれでもこの歴10年です。見た目より、バカじゃないですよ」

「……実は、これは田淵さん本人が言ってる事なんだけど」

 府和は慎重に前置きをしてから話し始めた。

「宵華ちゃんと田淵さんが、その、恋人だったらしいんだけど。そう言う素振りを感じた事はあった?」

「あー……」

 イチカが言い淀んだ。何か心当たりがある様子だ。十数秒の沈黙。たっぷりと悩んでから、イチカは囁くように言った。

「彼氏が居た、って話は聞いた事あります。年上で、すっごく優しくて、いつも自分の事を優先してくれる彼氏。後なんて言ってたかな……夢すぎる話だからあたし、話半分だったから覚えてないなぁ。すごいお互いにラブラブだったけど、仕事のためにしばらく別れる事にした、って。本人が言ってただけですけどね……本当かどうかは分かりません」

 私はまったく信じていません。
 イチカは最後にきっぱりとそう言った。

聞き込み調査:関係者(三月)

 二人目に呼んだ三月みつきは、部屋に入るなり困った顔を浮かべた。

「あの、田淵たぶちさんってどうなるんですか。これから……」

 きゅう、と眉根を寄せて、深刻そうに九崎達に尋ねてくる。府和が椅子を勧めた事にも気付かずに、落ち着かない様子で指先を組んでいた。
 立ち尽くしている三月に何かを答えようとして口を開いた府和だったが、迷った様子でそのまま固まった。正直な返答しようとした所で思い止まった、と言うところだろうか。代わりに九崎が答える。

「まだ容疑を調べているだけだ。それ以上の事は何も決まっていない」

 九崎は出来るだけ優しく伝えた。三月は怯えこそしなかったが、ますます混乱したように唇を噛み締めた。

「容疑を調べる……宵華ちゃんが田淵さんの家で死んじゃったのは、やっぱり本当なんですね……あ、あの。でも田淵さんじゃないと思います。その……えっと、証拠とかはないんですけど。でも、あの。俺は……あの、えっと。信じて、もらえますか?」

「とりあえず、話を聞かせてほしいな」

府和が三月の背中をそっと押して、やんわりと座らせる。

「俺達も、昨日の夜通報を受けたばっかりでまだ良く分かってないんだ」

「はい……」

 三月を椅子に座らせ、そうだ、と少し大げさに府和は手を叩いた。

「良かったら、お茶でも飲む? マネージャーさんの話を急に聞かされて驚いたよね……温かいのが良いかな。ちょっと待っててね」

「あ……ありがとうございます……」

 やんわりと、しかし有無を言わさずに頷かせる府和。九崎はすかさず、俺が行ってくる、と呟くように言って部屋のドアに向かった。

「あ、九崎先輩……申し訳ないです」

「持ってくる間、任せたぞ」
 
 自分が居ない方が、三月も落ち着きやすいだろう。むっすりとした壮年の刑事はどうしても威圧感がある。
 府和は心得たようにしっかりと頷いた。

 九崎がペットボトルのホットティーを持って返ってきた頃には、三月も随分と落ち着いたようだった。
 こぼれ落ちた後の涙を拭って、しっかりと九崎がお茶を受け取る余裕は出来たようだ。

「ありがとうございます。ごめんなさい、急な話で、心が全然落ち着かなくって……俺、失礼なこと言っちゃったかも」

「気にしないで良い。失礼は何もなかった」

「九崎先輩は表情筋硬いけど、ホントにいい人だから。大丈夫」

「表情筋硬い、は余計だ」

 刑事達のやりとりに三月は小さく笑った。

「じゃあ、三月くん。さっきの話、もう一回してもらってもいいかな?」

「はい……あ。あの、良ければ彗太けいたって呼んでください。俺、ステージの上以外で『三月』って呼ばれるの落ち着かなくて……」

「えっと、彗太、くん?」

「はい。伊藤彗太。俺の本名です。『三月みつき』は芸名ですから。……実はキラキラしすぎてて、ちょっと気後れしちゃうんですよね。と言うか、『三月』と呼ばれるとスイッチ入っちゃいそうになると言うか……」

「じゃあ、彗太くんって呼ぶね」

「そっちの刑事さんも良ければ……」

「彗太くん、だな」

「はい」

 三月――彗太は嬉しそうにはにかんだ。
 芸名か。九崎の頭を何かがかすめた。

「芸名……この事務所に所属している子たちの芸名は、プロダクションが決めるのか?」

「はい、基本的には。本名と芸名が一致してる人はあんまりいないんじゃないかな……」

「普段はどっちで呼ばれるんだ?」

「ウチは芸名の方が多いと思います。自分からわざわざ言わないと本名なんて分からないんじゃないかな……俺も『L』のメンバーで本名知らないヤツ、二人くらい居ます。仲が悪いとかじゃなくて、聞いてないってだけですけどね。普通は『本名は?』とか聞きませんし、マナー?的に?みたいな……」

「山瀬……宵華ちゃんもか?」

「宵華ちゃん? はい。少なくとも、俺はニュースで初めて本名を知りました」

「そうか……ありがとう。それで、さっき話していた事とか言っていたか……?」

「あっ、はい。俺は宵華ちゃんの事はあんまり知らないからお役に立てるかは分からないんですけど……ええっと、だからこそ、逆に、と言うか。田淵さんとは仲良くさせてもらってると思ってるんですけど、それで、宵華ちゃんの話は聞いた事がないな、って。当たり障りない話題はもちろんありましたけど……宵華ちゃんってウチの稼ぎ頭ですからね。でも個人的に何かあったとか言う話しは全然……だから俺は二人がお付き合いしてたとかは、ちょっと信じられないです。……そういうお話を府和さんとしてました」

「そうか。彗太くんが知らないなら、事務所で他の知っている人はいなさそう、って事で良いか?」

 彗太は頷いた。
 仕事上で田淵と最も付き合いが深かったのは自分だと疑っていない様子だった。事実、仕事中の田淵は彗太に付きっきりだったようだ。彼が何も知らないなら、山瀬との交際についての情報が事務所側から出てくる事はなさそうだ。

「あ、そうだ。さっき、府和さんと話しながら思い出したんですけど。田淵さん、婚約者は確かにいました。間違いないです」

「婚約者の話を聞いた事があるの?」

 府和の問いに頷き答える彗太。

「婚約指輪をしてたんです。去年くらいかな……ある日気付いたら薬指につけてて。婚約したんですか、って聞いたら嬉しそうに頷いてて……」

 府和がはっと真剣な顔になった。ちらりと九崎の方に視線をよこしてくる。同意の意味で頷く九崎。
 婚約指輪なんて現場にはなかったはずだ。少なくとも九崎の記憶にはない。
 府和は前のめりになりながら、彗太から詳しい話を聞き出そうとする。

「それはどんな指輪だった?」

「青い石でした。俺あんまりそういうの詳しくないんですけど……サファイアなのかなぁ……うーん。でもあんまり見たことない感じの石だったような」

 青い石の指輪か、と九崎は眉間にシワを寄せる。押収された物品の中には確かなかったはずだ。その上、婚約相手が居たとなれば、尚更田淵の部屋の女っ気のなさが気にかかった。

「青い石のついた指輪か……現場では見つかっていないはずだよな?」

「はい、先輩。俺も見た覚えがないです」

「え、おかしいな。婚約者さんの事を本当に大事にしてて、肌身離さずつけてたはずなんですけど……あ。そうだ。写真ありますよ。手元はたぶん、あんまり良く見えないけど……」

 スマホで連絡先を交換するついでに、府和が写真を受け取った。何かの打ち上げの帰りに撮ったものだろう。何人かのアイドルやスタッフらしきメンバーの中に田淵が映っている。穏やかな微笑みは九崎達に見せた物とほとんど変わらない。
 左手の薬指に、確かに指輪らしき物が映っていた。シルバーリングの中央に青い石があしらってある。拡大してなんとか見える程度の物だから、何の石かまでは九崎達にも判別がつかなかった。
 写真には彗太も大きな笑顔で映っている。ブンブンと片手でピースサインを振りかざしながら、もう片方の手で田淵の腕を掴んでいる。大きな動きをして体勢がグラついたらしい。田淵もそっと彗太の背中に片手を当てて、転ばないように支えている。
 事件の事がなければ、気の利く、穏やかなマネージャーであると九崎も感じただろう。

「写真ありがとうね。ちなみに、婚約相手が誰なのか、彗太くんに心当たりはある?」

「その。俺は宵華ちゃんと田淵さんの間の事は何も分かりません。分からない、と言う前提で、なんですけど。田淵さんの婚約者さんはもしかしたら、同じ業界の人かなぁと感じた事はあります」

「同じ業界の人……それはどうして?」

「田淵さんが、全然話してくれなかったからです」

 彗太の声にははっきりとした確信があった。

「いつ会ったとか、どんな人なのか。聞いても、はぐらかされる感じで……だから、よっぽど相手は隠しておかなきゃいけない人なのかな、って。一般女性だったら、そこまで神経質に隠す必要、ないんじゃない……かなーって……」

「お揃いの指輪を嵌めている人を見たことはあるかな」

「うーん。俺は見た事ないかな……。それに、これは勝手な偏見なんですけど……田淵さんが選んだ女性だったら、そういうことも気をつける、きっちりとした人な気がするんです。だから……見えるところには身につけてないかなって。と言うか……」

「指輪をそもそもつけてない可能性がある?」

 彗太は頷いた。

「俺、気になりすぎて、婚約指輪についてその時に調べたんです。田淵さんの婚約相手が誰なのか、ちょっとでもヒントないかなって。それで、ネットで知ったんですけど、あの。婚約する時に、指輪じゃない物を贈るって選択肢もあるみたいで」

 知ってました?
 彗太の質問に九崎と府和が顔を見合わせる。府和はまったく知らない、と言う風にブンブンと首を振った。九崎も、いや、と小さく答えた。
 ですよね、と彗太は少し嬉しそうに頷いた。

「俺も知りませんでした。ネックレスとか、ピアスとか、別のアクセサリーでも良いし、面白かったのは、指輪の箱だけ贈る、とか。一緒に指輪を選ぼうって意味らしくって。良いなぁって……。あ、それは今関係なかったですね……ええっと、そうだ。婚約の証は、指輪じゃなくても良いみたいなんです。だから、もしかしたらこっそりお揃いアクセサリーを持ってる人が居るかもって。そう考えた事はあります」

 彗太はロマンチックですよね、と嬉しそうに笑った。それから直ぐに現実を思い出して、暗い色を宿した瞳で俯いた。

聞き込み調査:関係者(黒田)

 やはり、現場から婚約指輪は見つかっていない。
 九崎くざき府和ふわは顔を突き合わせて、押収品リストを眺めたが、何度見ても指輪は存在していなかった。

「物があれば、作らせた店から相手が割り出せそうなんだが……」

「ないですね……。うー。田淵自身で処分したんでしょうか?」

「可能性は高いな。部屋から婚約相手の痕跡を消した……そんな気がする」

「でも、なんのためにでしょう?」

「……わからんな。だが山瀬の部屋にこの後、行って見る価値はありそうだ」

「山瀬の部屋ですか? 資料で見た感じ、普通の女の子の部屋って感じでしたっけ……」

 ペアリングなら、もう片方の指輪が見つかるかもしれない。
 九崎はそう言いながら、本音では真逆の事を考えていた。山瀬はやはり田淵の恋人などではなかったんじゃあないだろうか。
 府和も似たような事を考えているのか、困ったような表情を浮かべた。

「指輪がないかどうかを確認するだけでも十分意味がある」

「そうですね。なかったら、それはそれでまた頭が痛いですけど……」

 会話が途切れる。
 あ、と気付いたように府和が立ち上がった。

「最後の関係者呼んでこないと……黒田さんを呼んできます」

「ああ」

 府和に伴われて現れた黒田はカツカツ、とヒールをテンポ良く鳴らしながら迷うことなく九崎の正面にある椅子に座った。そこが自分のために用意された場所だと疑う素振りすらなかった。
 黒田を見た途端、あ、と九崎は零れそうになった息を飲んだ。
 石だ。
 青い石が黒田の胸元に揺れている。チェーンの先端に金属リングの繋がりがぶら下がっており、その最下のリング中央に青い石が嵌められている。視線がそこに引き寄せられたのは、先程の彗太の話があったからだろう。
 しかし、黒田のネックレスを飾る石はサファイアのような一般的な宝石の類には見えなかった。小ぶりだが、深い群青に金箔を散りばめた豪奢な石だ。

「刑事さん方は、」

 涼し気な声が突然九崎の脳を揺さぶった。

「刑事さん方は、二ヶ月前の『ブルーフラワー』をお読みになりましたか?」

「「えっ」」

 石の方にすっかり意識を奪われていた刑事二人は慌てた声を上げた。彼らを慌てさせた本人である黒田は静かに微笑んでいる。

「『ブルーフラワー』。私たちの所属している事務所が刊行している雑誌の1つです。芸能情報を中心に掲載していまして。二ヶ月前、そこに私のインタビューも載せて頂いたんです」

「そうだったんですか。申し訳ないです、私も、九崎刑事もその手の類いには疎くて……」

「驚きませんわ。女性誌ですから。そうですね……雑誌そのものは山瀬さんのマネージャーに頼めば持ってきてもらえると思います。私が言っていたと言葉を添えてくださっても、構いません。もしご入用なら……ですけれど」

「その雑誌で、山瀬宵華に関するお話を?」

「いいえ。インタビューではただ、日常の事を。毎日の習慣、好きな食べ物。アクセサリーのこだわり。そう言うお話をさせていただきました。このネックレスが気になっているご様子でしたので、何かお役に立てるかもしれないかと」

 あっ、と府和が慌てた。

「も、申し訳ないです。女性の胸元をじろじろと見る物ではなかったですね……珍しい…………珍しい石だったので、つい。それは、なんと言う石なんですか?」

 ラピスラズリ、と黒田は答えた。
 聞き覚えのない石の名前だった。黒田は男たちの反応が分かっていたかのように目を細めた。

「手袋はお持ちですか?」

「え、ええ」

「では、どうぞ。汗や日光に弱い石なので、出来れば手袋をつけて検めて頂けると嬉しいですわ」

 黒田がネックレスを外して差し出してきた。見せてくれると言うらしい。九崎は言われた通りに手袋をつけて、慎重は手付きでそのネックレスを受け取った。

「承知いたしました。ご協力感謝いたします」

 チェーンと、台座と、ラピスラズリ。それだけのシンプルな作りのネックレスだった。台座を裏返したが、特に何も書かれていない。縁にブランド名らしき英名の羅列が刻まれているだけだった。『LIEBSTEN』。海外ブランドだろうか。

「このネックレスはどこで入手したものですか?」

「頂き物だったかと思います」

「それは誰から?」

「覚えておりませんわ。それだけではなくて……ほら。こちらも確認致ますか?」

 黒田が髪をかきあげた。うなじを見せつけるように、首元を九崎達にさらした。何を、と一瞬思った九崎だったが、すぐに気付く。
 黒田の耳元にも青い石が飾られている。同じラピスラズリで出来たピアスと言った所だろう。

「好きな石なんです。だから贈られる事も多い。あまりにも多いので、1つ1つがどこの物だったかまでは覚えていません」

「成程……妙な質問をするようですが、田淵が良く嵌めていた指輪についてはご存知でしょうか」

「さあ……良く嵌めていた指輪、と仰られても、どれのことを指しているのか……仕事で関わる事もほとんどなかった人ですから……」

 それなら、と九崎が先程貰った写真を取り出そうとする前に、黒田が続けた。ですが、と静かに九崎の動きを制する。

「ですが、同じラピスラズリの指輪を嵌めている所を見たことがあるか、と言うご質問になら……ええ。見たことがあります。左手の薬指に嵌めていた事も、良く覚えております」

「田淵と山瀬の間の関係について、何か知っている事はありますか?」

「そうですね。………どうだったかしら」

 府和に尋ねられた黒田はしばらく目を伏せて、記憶をたぐるような動作を見せた。

「聞いたかも知れないし、聞いていないかも知れません。覚えていないわ。山瀬さんと良く顔を合わせるようになったのもごくごく最近の事ですし。仕事以外の話をした覚えは然程ありません」

「共に仕事をしたのも、トワノが初めて、と言うことですね」

「ええ。方向性が違うから。事務所も私とあの娘を一緒に売り出す必要性がないと判断していたのかと思います」

「えっ。それなら、トワノで一緒に売り出す、みたいな話は……」

 府和が意外そうな声をあげると、黒田はおかしそうに微笑んだ。

「同じ方向でいつまでも走り続けられる訳ではありませんから。新しい事も時にはやらなくては。……トワノはそう言う『新しい事』の1つです」

「じゃあ新しい風のためのプロジェクトだったと」

「さあ」

「さ、さあって……」

「たった1つの事を決めるのに、どれだけの『ウラ側』があるのか。私には分かりません。トワノだって、ただ新しい事をやりたい、と言う想いだけのプロジェクトじゃあない。何かしらの意図が背後にはある。……事務所の二大看板と、三人目の看板候補を共演させる。それだけの単純な話ではないはずです。ですが……それがどんな思惑なのかまで考えるのは私の仕事ではありません」

「そういうものなんですね……」

「お金が動きますから」

 想像を絶する程の。
 そう囁いて、黒田は静かに口を閉ざした。

「黒田さんから見て、山瀬はどのような人間でしたか」

 今度は九崎が尋ねると、黒田は少し首を傾げた。ゆるく巻いた髪とピアスが揺れる。緩やかに丸くなった目つきは、どうやら驚きの表出であるようだった。

「どのような人間。そうですね。人間と見た時に、どんな娘だったかしら……。急に言われても難しいものね。同僚としか見ていなかったから……ああ、そうだ。こうしましょう」

 少しお手伝いをしてください。
 黒田はそう言った。

「ふふ、素人の知識なのですけれど。関係者に対する警察の聞き込みは、案外フランクな物と思っているのですが、どうでしょう」

 黒田の意図を測りかねたが、九崎は頷いた。

「容疑者への取り調べではありませんから。そう言う意味では、仰る通りです」

「では、私からもお訪ねしてもよろしいですか?」

「守秘義務がありますので、そちらに抵触しない限りはお答えできます」

「真面目な方ね」

 黒田は小さく笑った。

「では守秘義務に触れない程度で。刑事さん方から見た田淵さんと山瀬さんは、どんな方々でしたか?」

 答えづらい質問だった。捜査情報に触れない限りで、と言うのもそうだが、この種の問いには質問者の『期待』がついてまわる。人間には様々な側面がある。どの側面からの説明を求められているのか、それによって答え方も異なってくる。

「……そうですね」

 九崎はしばらく迷った結果、ただ正直な所感を伝える事にした。

「まず田淵に関して。非常に几帳面で、気遣いが繊細な男かと。真面目さが関係者に評価されているようです。
 次に山瀬です。彼女に関しては少なくとも、孤立しやすい傾向にあった事は間違いないと見ています」

「そう聞くと、田淵さんが犯人ではないように聞こえてきますけれど」

「詳しい捜査情報については、まだお伝えできません」

「真面目な方」

 黒田はどことなく嬉しそうに笑った。

「孤立しやすい傾向。優しい言葉ね。でも、そう……あの娘はまだ子どもだもの。そう言う優しい言葉の方が本当は良かったのかもしれない。……あら、子どもと言うのは比喩みたいなものよ」

 府和の表情に気付いて、黒田はくすりと笑った。黒田と山瀬の年齢は1つか2つ程しか変わらない。それを子どもと称するのは確かに意外かもしれないが、顔に出す事ではない。九崎が府和をたしなめる意味で睨むと、小声ですみません……と絞り出してきた。

「構いませんわ。私の見方が、そうね。きっと歪んでいるのですから。私は彼女のことをただ同僚として見ています。私から見て、彼女は共演者として申し分ない娘でしたわ。稽古に打ち込む姿勢は真面目ですし、何より必死でした。ここにしか居場所がないと、必死にしがみついていた。余裕はない娘でしたね。だから他人に対して攻撃的になりやすい。
 友人になるのは、そうね。私では難しかったでしょう。私は、彼女が守りたがっている唯一の地位を奪いかねない存在でしたから。……そう言う風に、プレッシャーをかけているが居た」

「加害者、ですか」

「ええ。加害者。安全圏から見ているだけの、静かな教唆犯きょうさはん。……今回のプロジェクトで、あの娘は尋常ではないプレッシャーを受けていた。気付いていたのに放っておいた私も、同じかもしれませんけれどね」

「山瀬は精神的に不安定な状態にあったと?」

「さあ。人の心で確定的な物なんてありません。ですが、予想がつくものはありますわ。あの娘の才能はバランス型でした。一つ一つを取り上げた時に、全てが並より少し上。バランスが良いと言うのは素晴らしい才覚です。でも……それは裏を返せば、どれをとっても、誰かから見たら劣っていると言うこと。『自分には実はなにもない』。何かがきっかけでそう思い込む可能性は十分にあります。加えて、彼女は恐らく方向性をシフトしていく地点に来ていましたから」

「方向性、ですか」

「女はいつまでも少女ではいられませんもの」

 府和はどう返していいか分からずに、口を閉じてしまった。それは、と再び何かを言おうとして、もごもごと不明瞭な言葉が続く。

「……トワノの『新しい事』の1つ、ですか?」

 ようやくはっきりと聞こえた府和の声がそんな問いかけを投げた。恐る恐る夜の海を覗き込むような緊張した声だった。

「さあ。二ヶ月前のブルーフラワーにはトワノについても掲載されておりますの。そちらを直接ご覧になった方がよろしいかと。後は刑事さん方の所感にお任せいたしますわ」

 それからふ、と黒田は表情を陰らせて呟いた。

「ヨイカの事、もう少し気にかけてあげられれば良かったのにね……同期だったのに」

 それは一瞬だけ垣間見えた、『黒田ミキ』ではない誰かの顔だった。伏せられた睫毛が震えて、涙でもこぼれ落ちるかのように九崎には見えた。
 黒田は静かな顔で俯いているだけだったから、ただの錯覚だ。
 目を閉じて、独り言のように彼女は続けた。

「もし私が今回の件で、個人的に想う事がなければもっと冷酷な感想でした。毒されていたつもりはなかったけど……気付かないうちに染みているものね」

「……冷酷な感想、ですか」

 言葉を失ったままの府和の代わりに九崎が問いかける。黒田は九崎に優しい笑みを向けた。

「トワノさえ乗り越えられれば、この世界にまだ居れたでしょうに。残念ね」

 黒田は笑っていた。
 黒田の笑みに九崎は何か末恐ろしい物を感じた。

「彼女が何を想っていて、どんな言葉を誰から受け取っていたかなんて、本人しか分からないことで、本来はここで他人が論じる物ではありませんけれどもね。……そうね。でも、無駄話ついでに1つだけ私の個人的な所感を申し上げますと……山瀬さんを安心させてくださるような人は居なかったのではないかと。そう思っていますわ」

「それはたとえば恋人のような」

「あるいは、家族のような方。親友。なんでも構いません。苦しい時に、誰にも言えない気持ちを吐き出せる相手です」

「黒田さんにもそのような相手が?」

 黒田はただ静かに微笑んだ。答える必要がありますか? とそんな声が聞こえてくる気がした。
 立ち入りすぎたか、と九崎が謝ろうとした時だった。

「ミキさん! ああ、ミキさん良かった!! ここに居たんですね!!」

 勢い良く開け放たれるドア。恰幅の良い女性が慌てた様子で黒田の元に駆け寄った。宝野さん。黒田が彼女の名前を呼んだ。九崎達が何かを言う前に、私のマネージャーです、と付け足した。
 その宝野は九崎と府和を見つけるなり、キッと睨みあげてきた。

「女性の刑事さん以外はNGだとお伝えしたじゃないですか!!」

 え、と驚く九崎と府和。そんな話を聞いた覚えはない。

「宝野さん、私は大丈夫よ。協力できることはすると、言ったでしょう?」

「大丈夫なわけないでしょう! 警察だとかなんだ言ったって、男には変わりないんですからね。ほら、ミキさん行きましょう!」

「あのー。すいません。女性の刑事ではないと、と言う話をこちらは聞いていなくって。何か、手違いがあったかと思うのですが……」

「ご存知なかったと?」

 宝野は府和を睨めつけた。値踏みするようにジロジロと府和を眺めてから、何かに納得したようにため息を吐く。

「じゃあ山瀬さんのマネージャーね。あの人、また勝手に仕切って……あの記事と良い、どうしてミキさんばっかり……」

「宝野さん」

 黒田がたしなめるように声をかけた。宝野は失言に気付いてはっと口を閉ざした。
 
「とにかく! 次があるなら絶対に女性の方でお願いしますよ! さあ、行きましょう!!」

 宝野に連れられて黒田は部屋を出ていく。さり際に、ちらりと九崎達を見て、会釈するように微笑んだ。

REPLAY

 9歳の時に運命に出会った。
 画面の向こうで見つけたキラキラとした宝石みたいなもの。テレビ越しに大きく手を振って、歓声を上げる。そうすればステージの上のあの人に自分を見つけてもらえる気がして、衝動のままに大声で飛び跳ねまわった。
 ママにめちゃくちゃ怒られた。ごめんなさい、でもだって。画面を指差すと、おざなりな相槌が返ってきた。そうね、可愛いわね、なんて。子ども騙しみたいに適当に頷かないで欲しい。こっちは真剣なのだ。
 怒られるのにも関わらず、あたしは毎日あの人の歌を歌った。キラキラした宝石の歌。
 『わたしはサファイア』『砕いて割って』『中のキラキラ見つけてみせて』。
 その時、歌詞の意味をちゃんと分かっていたわけじゃあない。ただ、綺麗だから好きだった。憧れた。
 憧れはいつの間にか夢になった。将来の夢はアイドルになりたい、だった。実はその人が役者だと知ったのはしばらく後の事。同じ芸能事務所に入りたい、と志した時に調べて驚いたのだ。そして後悔した。もっと早く知ってれば、お芝居の方も見たかったのに、と。
 真っ直ぐな目が怖いくらいで、好きだった。間違いなくあたしを見てくれている。観客一人一人を、まっすぐ射抜く目がキラキラとサファイアみたいに輝いていた。あの人は宝石なんだ。
 あたしもあの人みたいな宝石に。芸能界なんて簡単じゃない、良くないよ、なんて言う声は気にならなかった。何があってもあたしの想いはくすまないから。
宝石みたいに永遠に、何があってもキラキラし続けているはずだから。

調査:被害者宅

 関係者からの聞き込みを終えた九崎達は休む間もなく、山瀬の自宅へと向かった。件の指輪を探すためだ。
 山瀬の自宅に向かう車の中であ、と府和が声を上げる。

「ありました。見つけましたよ、九崎先輩」

 事務所を出てからずっとスマホ画面を睨みつけて、何かを探している様子だったのだが、ようやく目当ての物を見つけたらしい。

「黒田ミキ、ストーカー被害。週刊社がスッぱ抜いてます。マネージャーが記事って言った時になんか記憶に引っかかったんですけど……これですよ、これ」

「黒田にストーカーが?」

「事務所側の訴えで、記事自体は取り下げられたみたいです。内容、読み上げますね」

 短い記事だった。数ヶ月前、黒田ミキが盗難とストーカー被害で警察に届け出を出した、と言う内容だ。自宅に何者かが侵入した形跡があり、帰宅すると化粧品・衣類・装飾品の一部が破損・紛失していたらしい。ベッドサイドに残されていた脅迫文と見られるコピー用紙の写真が記事に添えられていた。

「『早く辞めろ』『殺す』。……妙だな」

「黒田の私物を盗んだストーカーが置いていくようなメッセージじゃないですよね。それに、なんと言うか……思っていたよりも稚拙、と言うか。確か、この脅迫文のコピーが気になって覚えていたんです」

「黒田のマネージャーのあの態度は、その記事が原因か」

 黒田は内密に被害届を出したのだろう。それを報道が嗅ぎつけたか、警察の誰かがうっかり漏らしたのだ。彼女たちが警察そのものに不審感を持っていたとしても、頷ける。

「被害届を受けたのはどこだ?」

「書いてませんね。でも事務所がある新宿じゃないでしょうか」

「あそこか……」

「何かあるところなんですか?」

「いや、あそこは何かと難しい地区ってだけだ」

「そうですか……うーん。黒田のストーカー被害、今回の事件と関係があるんでしょうか」

「今の時点だと何とも言えないな」

「九崎先輩の勘では?」

「ある。何か繋がっている気がする。……少し詳しく調べてみるか」
 
「今の所、田淵の件に黒田が関わっている証拠はないですよね……芸能とか政治関係って、そう言うのが面倒って聞いたことあるんですけど……証拠がないのに首突っ込んで、何も無かったらヤバイ、みたいな……」

「ああ、面倒ごとになる可能性がある。だから、こっそり調べる」

「そんなことできるんですか?」

 府和が驚いたように言った。場合によりけりだ、と九崎は答える。

「報道関連に個人的な知り合いがいる。でかい話なら、何かは聞いてるだろ……おっと。あそこが山瀬の家だな」

 事務所から車で25分程。新宿区の東南端に近い場所に山瀬の自宅はあった。
 家の前で待っていてくれた背の高い青年が部屋の鍵を開けてくれる。山本秀喜ひでき。山瀬の兄だ。

「ご協力、感謝致します」

「万が一のためにご家族も、って管理人にせっつかれて持っていただけだったんですけどね……まあ、お役に立てたのなら幸いです」

 山本は目を細めてそう言った。淡々とした表情からはどんな感情も読み取る事ができないが、どこか疲労している様子だった。無理もない。
 山瀬が住んでいた部屋は25歳の少女の一人暮らしの住まいとしては随分と広く、だが芸能界の頂点一角を担う者の部屋としては思っていたよりもこじんまりとしていた。
 2LDK、ウォークインクローゼット付き。一部屋は寝室として、もう一部屋はセカンドクローゼットとして使われていたようだ。大量の服や鞄、靴、アクセサリーが雑多に詰め込まれている。箱にしまわれたままの新品も数多く収納されていたようだ。
 ダイニングとリビングそれぞれに大きめのテーブルが設置されていて、日常的に使う化粧品やアクセサリーはそこに置いていたようだ。
 全体的に少女らしいインテリアが揃えられている部屋だった。寝室には子どもの背丈程ありそうなさめのぬいぐるみが、クイーンベッドの上で主のように鎮座している。

「女の子の部屋、って感じですね……」

「ベッドサイドの写真……これは田淵と山瀬だな」

 ハートに切り抜かれたフレーム、その中に二人の写真が収められている。九崎はフォトフレームを手に取って、背後を振り返った。山本が寝室の入口で、興味深そうに部屋中を見渡している。

「写真をフレームから取り外しても構いませんか?」

「どうぞ。私も初めて入った部屋ですので、どうぞ、と言うのもアレですけど」

 写真をフレームから取り外してみる。どこかスタジオのような所で撮られたもののようだ。フレームで隠されていた写真の縁には他の誰かの手や足が映り込んでいる。どうやら集合写真の一部を引き伸ばして、切り取ったもののようだ。

「…………?」

 九崎は写真を手に取って、しばらく考え込んだ。

「九崎先輩。青い石の指輪って、もしかしてこれですかね。写真が荒いので、同じ物かは確信しきれないんですが……」

 府和に呼びかけられて思考を中断する。
 呼び寄せられるがままに寝室すみのパソコンデスクに向かうと、確かに青い石がはめられたシルバーリングが飾ってあった。布張りの小箱を半分開けて、その中に指輪を据えている。アクリルケースで覆っているのは埃よけだろうか。まるで何かの記念品のような扱いだった。
 暗い青色の石は光にかざすとキラキラ輝いた。黒田のネックレスとは異なる石のようにも見えたが、九崎には判断がつかなかった。鑑識に回せば、何の石かは分かるだろう。
 指輪の裏面にはやはりブランド名らしき文字が彫り込まれている。『LIEBSTEN』。黒田が身につけていた指輪と同じブランドだ。
 後は、田淵の方がつけていた指輪が見つかってくれれば……。

「あの」

 小さな声が聞こえて、九崎は振り返った。府和のものではない。山瀬の兄がためらいがちに九崎を見つめていた。

「家族の証言って、重要だったりしますかね」

「それは……被害者に関する事ならば、はい。事件が起こった原因につながる証言なら、重要な物として扱われます」

「です、よね。裁判の時は証言台に立ったりとか……」

「ご協力をお願いすることはあると思います」

「……………はぁ。そうなるよなぁ……」

 憂鬱そうなため息。面倒事を嫌うような素振りだが、何か別の重たい物がまとわりついているような気配もあった。

「参考になれば……と言う話が1つ。麗奈は……妹は、あんまり人とやっていくのが上手い子じゃありませんでした。ワガママ……うん、まあ、ワガママか。人の物を欲しがる癖があって、それが手に入れられないと癇癪を起こすような子でした。五年くらいもう話していませんが……その気質は変わっていないと思います」

 山本は、先程九崎が見ていた写真を握りしめていた。写真が加工され、切り抜かれた痕跡に気付いたのだろう。
 九崎と府和の視線を察して、山本が顔を上げる。一瞬だけ目が合ったが、すぐに視線を落としてしまった。後ろめたそうな素振りだった。

「……もう自分には関係ないからと見ないようにしてたんですが。さっき、やっぱり気になって調べちゃって。テレビで見ました。田淵さん、でしたよね。その人の家族が泣いているの。泣いてくれる家族が向こうにはいるんだな、と思うとなんか……辛くなっちゃって」

 山本の表情は、今も淡泊なままだ。何の感情の現れもない。
 しかし九崎は何も声をかけることができなかった。
 山本さん、と府和が絞り出すような小声で呼びかける。呼びかけられている事に気付いていないかのように、山本はじっと地面を見つめていた。

「私は、両親のようにはなりたくないので。……一応、あれでも妹だったんですよ。麗奈の起こした事の責任は俺が取ってやらなくちゃ」

 山本は自分の妹の方に非があると信じてるようだった。

調査:目撃者

 中野署に戻った九崎は一本の電話を受け取った。
 黒田のストーカー被害について詳しい事が分かったのだ。新情報は喜ぶべきだが、電話口で情報を受け取った九崎はその中身を聞いて表情を強張らせる。

『こんな感じかしら。あたしもあんまり深入りは出来なくって』

「いや、十分だ。突然悪かったな、ありがとう」

蓮築はづき刑事の事、ちょっと思い出しちゃったわ。あれも新宿絡みだったわよね。九崎ちゃん、無茶はしちゃダメよ』

「……ああ、分かってるよ。無茶はしない。そういう歳でもないしな」

『フフ、やぁね。お互い歳取っちゃって』

 通話を切って、ため息を吐く。
 連絡をくれた記者は九崎と旧知の仲だ。心得きったもので、目立たないようにこっそりと情報を集めてきてくれた。刑事が探っていると悟らせもしなかっただろう。
 黒田が出した被害届けの内容が漏れた経緯は不明だった。しかし新宿署内部から漏洩したものではないかと、連絡をくれた記者は語った。
 記事投稿後、黒田が所属する事務所の訴えにより当該記者は解雇。記事の内容に大きな誤りと、名誉毀損があったため、と言う名目だったが、何かしらのもみ消しがあったのは明白だ。
 送付されてきた記事内容に目を落とす。記事が取り下げられる前の状態の原文だ。それは告発文だった。
『黒田ミキの被害届は受理され、ただちに警察の詳しい捜査が入った。しかし捜査は途中で強制打ち切りとなり、気付けば受理されたはずの被害届すら見当たらないと言う。何か不都合な真実が発覚したに違いない、と新宿署元刑事Aは語る。以前より当署とブーケット・プロダクションの癒着ゆちゃくは噂されていた。今回の件により癒着の可能性は一層濃厚になり……』
 解雇された一ヶ月後、記者は自宅の風呂場で手首を切った。鍵が開いている事を怪しんだアパート管理人によって事切れた状態で発見されたとの事だ。
 九崎はため息を履く。
 府和にこの話をどう伝えるべきか考えあぐねていると、当の本人が興奮した様子でやってきた。
 田淵が処分したであろう女性ものの衣類が見つかったかもしれない、と言うのだ。

「かもしれない?」

 曖昧な言い方に九崎は思わず聞き返した。府和が困ったように頷く。

「かもれない、だそうです。どういう意味かは聞いてみないと分かりませんが……」

 九崎達は案内された部屋で、一人の痩せた青年と出会った。使い古したジーンズとスニーカー。シャツだけは新品だが、何かのスポンサーロゴが背面に印字されたイベントTシャツの類いのようだ。試供品か何かを貰ってきたのだろう。木田もくた優流すぐる。杉並区に住む大学二年生。身なりからしておそらくは苦学生。

「あの……俺、たぶん悪い事してないと思うんですけど……何かやっちゃいました……?」

 木田は突然の警察からの連絡に不安そうな様子を見せていた。府和が穏やかに笑って、木田の緊張をほぐそうとする。

「急にごめんね。木田くんが数ヶ月前に引き受けたバイトの事が聞きたくって」

「数ヶ月前のバイト……どれっすかね?」

「色んなバイトをやってるの?」

「ハイ。金、ないんで。ネットで割の良いバイト見つけたらとりあえずなんでもやってます」

「なんだかんだ大変だよね、学生って。学費もあるし、上京してたら一人暮らしだし」

「そうなんですよ……俺、親からの反対押し切って大学入ったんで、学費自分で払わなきゃいけなくって。毎日カツカツです」

 自分が何かの事件の容疑者になった訳ではないと察したのだろう。木田は安堵のため息を吐いて、肩の力を緩めた。

「授業だと何やってるの?」

「政経です。そういうとこ出ないと、良い仕事にはつけないんで」

「一人で大変だね……」

「色んな人に助けてもらって、何とか、って感じッスね……。あ、あの。バイトの話ってどれですか? 色々やってるから本当に、分からないんですけど……」

「ああ、そうだった。この写真なんだけど……駅のコインロッカーでボストンバッグを受け取ってるこれ、木田くんだよね?」

 府和が一枚の写真を差し出した。駅構内の監視カメラ映像を切り抜いたものだ。コインロッカーから大きな黒いボストンバックを取り出す青年の後ろ姿が映っている。
 この数時間前には、ボストンバックをロッカーに入れる田淵の姿が映っていた。つまり木田が取り出したバックは元々田淵の物だ。

「ハイ。あー、浅草に何日に行ったか、って聞かれたの、これか。引っ越しゴミ処分のバイト、だったかなぁ……」

「どんなバイトだったの?」

「えーっと。もうあんまり覚えてないんですけど……たまたま見つけたバイトで、引っ越しゴミの処分に困ってるから、代わりに捨ててくれる人募集、みたいな感じだったと思います。捨てて欲しいものを指定の場所に持っていくので、それを拾って、捨てといてくれって。それで5000円です。それは覚えてます」

「どこで見つけたバイトかは覚えてる?」

「う、うーん。DMかなぁ……先輩の紹介とかだったかも……すみません、全然覚えてないッス」

 ダイレクトメッセージ。話についていけずに怪訝な顔をする九崎を見て、後から府和が説明してくれた。不特定多数に向けて情報発信を行うSNSだが、個人間で閉じたやり取りを行う事もできるらしい。半匿名同士で送れるメールやショートメッセージのような物、と府和は表現した。

「怪しいとは思わなかった?」

 府和はあえて優しい言葉を選んだようだった。
 木田が捨てたものが証拠品であれば、彼も事件の関与者になる。しかし、ここでわざわざ圧力をかけて、言葉をつぐませる必要性はない。任意の取り調べに応じてくれた一般学生に対する態度を府和は崩さなかった。

「思いました。けど、5000円はデカいんで。あと、何というか。DMでそういうお小遣いバイトする事多いんで、そんなもんかな、って。死体とか入ってたら流石に通報しましたけど……でも、本当に服しか入ってなかったですよ。すっごい汗くさかったんで、ちゃんとは見ないでまとめてゴミ袋に突っ込んだけど……」

「ちなみに、ロッカーの鍵はどうやって開けたの?」

「暗証番号式なんで。マロ……なんか、すっごい匿名性の高いDM?で鍵番号送ってもらった感じッス。お金はロッカーの中に入ってました」

「暗証番号? ……あ、ああー!そういうことか。確かに、最近の駅ロッカーは鍵を使わないもんな……良く考えたな……」

 近頃の駅構内ロッカーには物理鍵がついていない。代わりに電子制御で鍵をかけるのだ。荷物を預けた時に設定した四桁の暗証番号を入力する事で扉が開く仕組みになっている。暗証番号さえ伝えてしまえば、荷物を預けた本人でなくとも中身を回収できると言うことだ。

「そうッスか? あー、でも最初に考えついた人はすごいですよね。知らん人同士で物の受け渡しをしたい時に、ちょこちょこそういうやり方見るんで、びっくりとかはしませんでしたけど。言われてみりゃあ、って感じッスね」

「それで、ちなみにそのバッグの中身は……」

「捨てました」

「だよねぇ……何か覚えてる事はない? 入ってたのは服だけ?」

「うーーん。すっげぇ汗臭かった事は覚えてるんですけど……あ、一番上にLのTシャツが入ってました。彼女が好きなんで、お、と思ったのは覚えてます。ただ、流石にこれそのまま回収してあげたら怒られそうだな、って思い直して捨てましたけど……」

「Tシャツ……あれ。中に入ってたのって男物?」

「いや、ほとんどドレスとかワンピとかでしたよ。たまにTシャツとかも入ってる感じです」

「こういう指輪は見なかったかな」

 府和が田淵の手元を拡大した写真を取り出す。鑑識課に引き伸ばしてもらった物だ。スマホで拡大していた時より多少は鮮明になった。だが、この写真だけでは石の種類の断定は不可能だった。
 木田は写真を受け取って、マジマジと見つけた。

「めちゃくちゃボヤボヤっすね」

「あんまり鮮明な写真がなくってね」

「ううん……指輪は見た記憶がないなぁ。あ、でも。そうだ、思い出した。バッグの中身は全部捨てちゃったって言ったんですけど、ちょっとだけ残ってるものありました」

 本当かい、と府和が乗り出した。勢いに押されたように、木田が軽くのけぞる。のけぞりながらも、木田は何とか頷いた。

「の、残ってると言ってもぶっちゃけゴミッスよ……? 中に香水瓶が入ってて、バッグをひっくり返した時に割っちゃったんです。その時のガラス片、まだ残ってたはず……あれ捨てるの面倒くさくって」

 木田に後ほどそのガラス片を持ってきてもらう事になった。九崎達はその間に廃棄されたボストンバッグの中身を追ったが、予想通り空振りに終わった。数ヶ月も前の話だ。全て処理場で処分された後だった。

鑑定結果:ガラス片と青石の指輪

 木田もくたから回収したガラス片の鑑定結果が出た。
 本人が証言した通り、やはり香水瓶の破片だった。中に入っていた香水の種類も特定できている。

「木田以外の指紋は検出されませんでした。匂いを落とすために水洗いしたと言っていたので、無理もないですね」

「田淵が捨てた時の姿がカメラに写っている以上、奴の家にあった物だってのは間違いないだろうが……問題はやっぱり『誰のものだったか』、だな。25歳のアイドルが使う香水として適切だったか? わからないなぁ……」

「うーん……山瀬の自宅には確かに同じ香水があったんですが……。高級品として有名な香水ですから、あっても特別不思議な事はないですね。ですが重ためのホワイトムスクって、山瀬が普段遣いするにはイメージがあんまり合わない気が俺はします。少女っぽさが売りですよね。だったらジューシーな感じとか、優しいせっけんの香りだったりとか……」

「ほわいとむすく。お前、詳しいな……」

 九崎には『ホワイトムスク』と言うのがどのような香りなのか想像すらつかなかった。言われてみれば、この男、近付くとバニラのような人工香料の匂いがする。てっきり整髪剤の香りだと思っていたが、香水をたしなんでいるのかもしれない。

「い、いや。昔彼女にプレゼントするのに調べた事があるってだけですよ! そ、それよりも。一個気になることがあって……見つかった香水は高級ではあれども、珍しいものじゃあないんですけれど。黒田が好きな香水として挙げていた物なんですよね」

 府和は気を取り直すように咳払いをしてから、九崎に一冊の雑誌を差し出した。山瀬のマネージャーから送ってもらった先々月の『ブルーフラワー』だ。黒いドレスを着た黒田が表紙を飾っている。今にも何かを話し始めそうな半開きの唇を、緩い笑みの形に釣り上げながら、黒田がこちらを見つめていた。その視線の強さに批難でもされている気分になるが、不思議と目が離せない。

「二つ。……いや、伊藤彗太けいたの証言を含めれば3つだ。どれも薄く……田淵と黒田を繋げている」

 偶然と片付けるには繋がりが多すぎる。しかし、『関連性』と呼ぶにはあまりにも細い糸だった。
 同じ事を考えていたようで、府和も口惜しそうに頷いた。

「交際相手は恐らく同業者で、慎重な女性。黒田ミキは条件にぴったりですよね。ネックレスも田淵が付けていた指輪の石と良く似ている。そして田淵の家にあった黒田ミキ愛用の香水……」

「山瀬の家で見つかった指輪はラピスラズリだったか?」

「それが……」

 府和は自分自身がまだ情報を整理しきれていないような表情を見せた。首を傾けて考えつつ、ぽつりぽつりと言葉をつなげる。

「山瀬の家にあった指輪は、サファイアの石だったそうです。サファイアのシルバーリング。ラピスラズリではありませんでした」

「石の見た目が違う気がしたが、気の所為じゃなかったか」

「はい。黒田ミキが言っていた『ラピスラズリの指輪』と言うのが嘘だったか、もしくは、山瀬の持っていた指輪がただの良く似た別物だった……と言うことになります。なんですが……あの指輪、一点、変なところがあって」

 ブランド名じゃなかったんです、と府和は言った。
 九崎は眉をひそめる。

「何の話だ?」

「『LIEBSTEN』。指輪の裏に刻まれていたアルファベットですよ。あー、正確にはドイツ語らしいです」

 あれか、と九崎は記憶をたぐる。黒田のネックレスにも刻まれていた八文字のアルファベットだ。英文かと思っていたが、どうやら違ったらしい。

「『最愛の』と言う意味を持つそうです。ですが、そんな名前の指輪メーカーは存在しないそうで……つまり。あれは指輪の裏に恋人のイニシャルを彫るみたいな、そういう類のメッセージ、かと思われます。そういうのを入れるのが流行っているかどうか、メーカー何軒かにも確認してみたんですが、全然そんな事はないと言われて……。それで、たまたまだったんですが……」

 府和が問い合わせたメーカーの一つが、田淵の指輪に心当たりがあると答えそうだ。はっ、と九崎が顔を上げる。府和は神妙に頷いた。

「急遽、その時の図案を送ってもらいました。これです。で、見ての通りなんですが……」

 府和が取り出した資料には二つのアクセサリーの図案が載せられている。一つはラピスラズリを中央に飾ったシルバーリングだ。確証は抱けないが、田淵の指元に映っていた物に似ている気はする。形自体は山瀬の指輪にとても良く似ている。文言が彫られる予定の場所も一致していた。山瀬の指輪と異なる点は、飾られた石のみだ。
 もう一枚ある図案は、小ぶりなピアスを描いている。リング状の金属飾りの中央で、小粒のラピスラズリが揺れるように作られているようだ。ラピスラズリの裏には台座がつけられていおり、そこにあの文言、『LIEBSTEN』と彫ったようだ。こちらの材質はプラチナで出来ている。
 そのピアスをどこかで見た事があるような気がして、九崎は目を細める。いや、考えるまでもない。

「黒田のネックレスに良く似ているな。ここのピアスフックを取り外して、別の鎖にリングを繋げば同じネックレスになりそうだ。石のサイズ感も同じ、小指の先程。……発注主は田淵か?」

 性急に問いかける九崎。だが府和は残念そうに首を横に振った。

「逆でした。城本しろもとゆき……黒田ミキの本名でオーダーを貰っていて、交際相手の名前は分からないそうです。そもそもネットオーダーだったので、作り主の姿も見ていないと。最終的な届け先は黒田の自宅で間違いないです」

「クソッ、結局、田淵の方の指輪の行方を見つけないとダメか……!」

「でも感覚で言うなら、やっぱり田淵の交際相手は黒田ミキで間違いない気がしてきています。部屋にあった女性物を処分した理由も、それなら納得できますし……。警察が来る前に、部屋から恋人の痕跡を消、し……?」

 話している途中である事に気付いた府和が言葉を途切れさせた。徐々に顔色が青くなり、険しさを増す。
 九崎はきゅっと口元を引き結んだ。そうだ、もし田淵の恋人が黒田ミキであったとして。そしてそれを他人に知られないように、急に半月前に彼女の私物を処分したとしたら。田淵の恋人が山瀬であったと証明する物証しか残っていない現状を鑑みるに。
 今回の事件は、計画殺人だ。

調査:取り調べ2

 半月前に廃棄されたボストンバッグの中身について、九崎と府和は田淵本人を詰問することにした。揺さぶる事で何かボロでも出さないかと期待してのことだった。
 しかし、田淵は相変わらず落ち着いた様子で頷いた。

「はい。バッグを処分したのは僕で間違いありません。中身は宵華の私物です」

「何故、急に半月前に処分した?」

「真剣に、宵華と別れようとした結果です。決意を行動で示すつもりでした」

「バッグの中身は城本しろもとの物じゃあないのか?」

「いえ、まさか……」

「城本ゆきが何者か、お前は知っているんだな」

 田淵は少し驚いた顔をした。顎に手を当てて、何かを考える素振りを見せる。
 やがて納得したように一つ頷いた。

「そうか。確かに変に見えますね。全員が全員、事務所所属の方の本名を知っている訳ではありませんから。はい、そうです。僕は黒田ミキの本名を知っています」

「田淵。お前は山瀬宵華の本名を言えるか?」

「………………」

 田淵は答えなかった。大きな動揺は見せない。困ったように微笑むだけ。
 だが、答える事が出来ないのだとその態度を見れば分かった。
 思えば、始めから妙だったのだ。田淵は常に山瀬の事を『宵華』と芸名で呼び続けた。いくら慎重な性格とは言え、曲がりなりにも交際していた相手の事を仮名で呼び続けるものだろうか。
 その違和感が九崎の頭の中でずっと引っかかっていた。

「お前の交際相手は黒田だ。以前言っていた、キャリアうんぬんの話は本当だろう。だから誰にも分からないように内密に交際を続けていた。黒田のつけているラピスラズリのネックレスは婚約指輪代わりのものだ。そしてお前自身はラピスラズリの指輪をつけていた」

「………………」

「お前が処分した指輪が見つかった」

 嘘だった。
 しかし田淵は引っかからずに、静かに九崎の顔を見つめた。そして何故か笑う。
 仕様がないほどに愛しいとばかりに、嬉しそうに笑った。

「分かりました。白状はくじょうします」

「真実を話すんだな?」

 九崎は念を押した。田淵の口ぶりに妙な物を感じたからだ。

「……証言は、たった一つの角度から見える世界に過ぎません。真実とは限らない。ですから、僕が語れる事は、どこまでも事実の一側面のみです」

 田淵はそんな前置きをしてから、静かに語り始めた。

「僕が初めて彼女の家に忍び込んだのは一年前の事です」

RELLET候兆行犯

 負けたら殺される。比喩ひゆなんかじゃない。
 この世界から追い出されたら、きっと宵華は死んでしまう。今更芸能界以外の場所で生きられない。
 だからもし宵華をここから追い出そうとする動きがあるのならば、それは、間接的で、緩やかな殺人だ。
 だからそうなる前に殺すのだ。どんな手を使ってでも、自分のために誰かを殺す。
 そうやって山瀬宵華は作り上げられてきた。
 
「……でも、殺せなかったら?」

 宵華はぽつりと呟いた。
 一人きりの部屋に小声がやたら大きく響く。その反響音が怖くて、宵華は身をすくませた。怯える様子を見せてはいけない。そうなれば殺されるのは自分の方。
 分かっていながらも、震えが止まらない。足を揺すって震えを誤魔化せども、何1つ紛れやしない。側にあったクッションを掴む。投げる。壁にぶつかる。
 音1つ立たなかった。どうせなら、ガシャンと派手に割れてくれた方が少しは冷静になれただろうに。ただ不完全燃焼の衝動だけがくすぶるだけに終わった。
 唇を噛む。皮膚を噛みちぎって血がにじむ前に、宵華はベッドスプリングを跳ねさせながら勢い良く立ち上がった。デスク上に置かれたペンケースに刺さった、細長い刃物を手に取った。
 ぎちり、とカッターの刃が歯ぎしりをする。
 そこに明確な意図はなかった。
 ただ衝動が宵華にそうさせた。それをどうするつもりなのか、誰に振るうつもりなのかも分からないまま、ぎち、ぎちり、と刃を出して、そして引っ込める。
 殺さなきゃ。
 ぐさり、とクッションに突き刺さるカッター。ハート型の可愛いクッションだった。気に入っていたけど、捨てなければならないだろう。あーあ、とどこか冷静に宵華は呟く。
 突き立てられた刃の隙間から溢れる白い綿を見つめていると、不思議と少し冷静になれた。
 カッターを置く。デスクの上に放り出して、そのまま自分の体もベッドの上に投げ込む。マットレスに受け止められた体は一度小さく跳ねて、何事もなく寝台に横たわった。

「……やっぱムカつく」

 トワノが始まってから、自分が不安定になっている自覚はあった。まざまざと見せつけられる黒田ミキという才覚から目を離すことができないからだ。どうしたって、自分が平凡な人間であることを思い知らされる。取り柄なんか1つもない、事務所の売り出し方が噛み合っただけのラッキースター。
 そんな弱音を一言でも漏らせば、間違いなく殺されるのは宵華の方だけれど。
 それでも今日の黒田の言葉は宵華を毒のように蝕んだ。

『大事な人が一人居ても損はないわ』

 それは宵華に直接向けられた言葉ではなく、あの悪態吐きの少女との会話の一節だった。自分に言われている訳ではないことは分かっていた。けれど、まるで聞かせるように話す物だと苛立った。
 大事な人だなんて言ったって、振り向いてもらえるとは限らないんだぞ。ばぁか。悔し紛れなのは分かっていても、悪態が口から出てきてしまいそうになる。

『大事な人かぁ……お母さんとお父さんとかかなぁ』

『それでも良いと思うわ』

『でも親に甘えるってどうなんだろう。ちょっとダサい気も…』

『甘えることを知っている人間の方が強いわ。最終的にはね』

 そんな、続きの会話が聞こえてきてしまったからこそ、どうしようもなく神経がささくれ立つ。だけど感情を表に出すことは許されなかった。山瀬宵華はそんなことをしない。ましてや、黒田ミキ相手にそんな浅ましい真似をしてはならない。
 私はトップアイドルだから。
 それが、最後の矜持きょうじだ。
 だけど家に一度帰ってしまえば、諸々の鎧はすっかり剥がれてしまって、荒ぶる心をどうすることもできなかった。
 あまりにも頭がぐちゃぐちゃと騒々しいものだから、さっき鏡を見てきた。自分の顔が怒りに歪みきってしまっていたら、と怖くなったからだ。いつも通りの顔であることを確かめなければいけなかった。
 鏡に映る自分の顔はいつも通りの、どこかつまらなさそうな表情だった。見覚えのある自分の顔に安堵する。
 良かった。最後の矜持は折れてはいない。

 自分らしくあれば良い。
 それを宵華に教えてくれた人は憧れの人から、そのまま初恋の人へと形を変えた。
 新プロジェクトの『顔』として否応なしに選ばれて、迎えた本番日。ガヤガヤと忙しないテレビ局の片隅で宵華は立ち尽くしていた。ひょっとしたら、青ざめた顔をしていたのかもしれない。
 収録開始まであと数時間。他のアイドル達に紛れ込んで、この歌番組でパフォーマンスをすることが宵華の今日の仕事だ。パフォーマンス時間はおおよそ数分。でも、そのたったの数分が宵華をあまりにも気鬱にさせた。自分が関わる部分のリハーサルは終わり、しかし楽屋に引っ込む事も何となく出来ないまま、スタジオの端でぼんやりと立っていた。
 できるだけいつも通りでいようとしていたのだけど、そうすればそうする程気持ちが張り詰めていくようだった。そんな宵華に小声で声をかけてきたのが田淵たぶち鵜素うもとだった。
 『L』のマネージャーとして顔ぐらいは知っている相手だったから、宵華は咄嗟に笑顔で返事をした。すると、田淵は困ったような顔でうん、と頷いた。それがどこかで見たことがある気がする表情だったから、宵華の視線はつい田淵の顔に吸い寄せられた。
 何か、心の奥深くに眠っている物を揺り動かされる表情だった。

『ごめんね、こんな大変なプロジェクトに引っ張り出しちゃって。って、僕が謝る事でもないんだけど……でも、あんまり良い気はしないんじゃないかなって、ずっと気になっててさ』

 その時、宵華は自分がどう答えたのか覚えていない。しどろもどりに、当たり障りない事を答えたはずだ。
 代わりに、瞬間的に叫びそうになった言葉をグッと堪えた事は覚えている。そんな事を言うなら、そもそも引っ張り出すな、と。私に選択権はなかったのに、この選択を押し付けた側が申し訳無さそうにしている姿を見ると、心の端がカッと泣き出すように火がついた。
 
『このプロジェクトが頓挫しても、それは宵華ちゃんのせいじゃない。僕たちのプロデュースの仕方が間違ってたんだ。だから……宵華ちゃんは宵華ちゃんらしく、動いてくれれば良い。僕たちにどう合わせれば良いかなんて考えなくて大丈夫。……僕たちが宵華ちゃんに合わせるのが仕事なんだから』

 本番数時間前にそんな事を言うな。もしかしたら、こっちの文句はちょっと漏らしたかもしれない。 
 今、そんな事言われても困る。もっと早く言って欲しかった。
 それならもっと早く、宵華は安心出来たのに。

 ただの役者であった山瀬宵華が『アイドル』として送り出されたその日から、ちょうど一年経った頃だった。自分らしく。胸に刻んだルールだけを抱いて、一年間もがいてきた宵華はふと気付いてしまった。
 田淵の薬指に指輪があるのだ。
 すれ違う度にちらりと見る程度だったから、細かい模様は分からなかったけれど、たしかに薬指に光っているのを見た。ダイヤではなく、青い石であった事にほんの一筋だけの希望を見出した。
 もしかしたら、ただのアクセサリーかもしれない。
 そう自分に言い聞かせたまま、宵華は真実に気付かないフリをした。分野が異なれば、田淵と言葉を交わす事もなかった。すれ違えば会釈や、小さな挨拶くらいはするけれど、彼の姿を見ると宵華はいつも言葉をつまらせてしまう。
 結婚したんですか。
 そう、尋ねれば良いだけのたった一言が出てこなかった。いつしか宵華は尋ねようとふるう事すらやめてしまった。肯定の返事が返ってくるくらいなら、知らないままで居たかったからだった。
 けれども恐怖に限りなく近い好奇心は静かに積み重なっていって。
 ふと手にしてしまったそれを宵華はつい、凝視してしまった。マネージャーが楽屋がくやに手帳を置きっぱなしにしていたのだ。いつも手にしている、ほとんど宵華のスケジュールばかりが書き込まれた手帳。
 宵華がアイドルになってからマネージャーも急に忙しくなった。体が忙しなさについてこれていないようで、忘れ物も近頃多くなった。届けてやろうかな。そう考えながら、手に取った手帳を宵華はパラパラとめくった。
 意味も、目的もなかった。
 ただ、自分のスケジュールを検めて振り返ってみようかと、ちょっとした好奇心が疼いただけだった。
 そこでたまたまめくったページに永久風三月の名前を見つけた。田淵さんが見ている子だ。直接関わった事はない。そんな彼の名前が出てくると言うことはきっと、田淵についてのメモだと咄嗟に理解する。
 思わず、宵華はそのページをつぶさに読む。打ち合わせ時間とか、企画内容メモとかはどうでもいい。急ぎ場やにめくる手が11桁の番号の前で止まった。
 指でそっとその番号列をなぞる。真上に書いてある『田淵』の名を見れば、それが誰の電話番号であるかは明白だった。
 宵華は自分のスマホを取り出して、思わずその番号をメモに記した。確かな満足感。微かな罪悪感。感情の天秤は大きく達成感に振り切れていていた。
 やってしまった、と思う心を咎めるにはあまりにも気持ちが踊っていた。
 だって悪用するつもりなんてない。ただ、自分のために取っておくだけだ。そんな小さな収集品を、誰が咎められるだろうか。
 誰も、咎められるはずがない。

 それが良い事でない事は知っていた。だが、誰にも見つからないのなら、咎められるような物でもないと自分に言い聞かせた。
 ただの記念品アニバーサリー
 ただ、自分が家に飾って楽しむだけのもの。誰か見せる相手もいないから、本当にこっそり持っておけば良いだけだ。
 隠し撮った写真を元に作らせた、サファイアの指輪。リング状の飾りをところどころに模した、大人っぽい作りの指輪だった。サイズは宵華の薬指にぴったりだ。
 これさえあれば心穏やかでいられる。だから、一度限りの過ちだって許されるはず。
 田淵は常にあの結婚指輪を身に着けていた。だから模造するには随分と苦労した。
 当然だ、結婚指輪なのだから。だけど、結婚相手と同居はしていないらしい。彼の家には多少女性の影はあれども、一人住まいの様相だった。ベッドも枕も1つだけ。
 もしかしたら、まだ婚約指輪なのかもしれないと宵華が思い至ったのもその頃だ。もし、本当にただの婚約指輪なら。まだ結婚の前約束なら、宵華だってあの指輪を持っていても良いんじゃあないか。こっそりと写真さえ撮れれば、好きな人と婚約の約束をしたかのような夢に浸れる。
 別に奪い取ろうってわけじゃないから良いじゃないか。ただ、記念が欲しいだけなんだ。
 そうして思いついたたった1つの方法。
 寝ている間ならきっと外すはず。ならその時にちょっと借りて、写真だけ撮って帰れば良い。
 彼の家に勝手に立ち寄るのは初めてではなかったから、侵入に抵抗感はもうなかった。けれど、彼が居る間に入るとなるとまた別の挑戦で、不思議と良い意味で胸が高なる。
 見つかってもいいや。
 それならそれでいい。
 このままでは話しかける事も出来ないまま、田淵は知らない誰かと結婚してしまう。その前に、一度だけ二人きりで話せるなら。
 だって、物を取ったりとか、壊したりとか、そんな酷い事はしていない。勝手に部屋に入るのは悪いことかもしれないけれど、ものすごく悪い事はしていないのだ。
 きっとちょっと怒られるだけで済む。
 だから半ば、見つかる事を期待しながら、彼が寝ている間に寝室に入ったのだが、彼は起きてこなかった。ベッドサイドに置かれた指輪を一度取って、玄関口で電気をつけて写真を取り、元の場所に戻す。その間、彼は一度も起きてこなかった。
 拍子抜けしたような、ほっとしたような気分だったけれど、目的の物は手に入れられたから何だって良い。短い時間で撮った、数十枚の写真。指輪の外側はさながら、内側まであらゆる角度でつぶさに撮った。改めて写真を確認すると、指輪の内側に文字が彫られていた。
 『LIEBSTEN』
 調べてみたら、ドイツ語で『最愛の』と言う意味らしい。
 素敵だと宵華は思った。
 模造させた指輪を握って眠ると、一番大事な人の特別になれた気分になって、よく眠れた。

 どうしてこんなものがあるんだろう。
 開けてしまったクローゼットの前で宵華はしばらく固まった。シックなワンピース、大胆なドレス、赤いピンヒール。ピンクガラスの香水、金文字でブランド名が彫られたリップケース。アクセサリー類だけはどこを見渡してもない。そんな違和感が、より一層『特定の誰か』の気配を強く感じさせられて吐きそうになった。
 雑多に女性向けのアイテムを集めてきただけではない。一本筋の、何らかしらの嗜好を感じさられる品々だ。つまり、個性を持った、不特定多数ではない誰かが、とある女性が、この部屋を出入りしていることになる。
 今まで一度もこんなに強烈に『誰か』の気配を感じた事はなかった。しかもこんな、どうしてだか、ある誰かを彷彿させられるような、強烈な気配。
 ――また敵わないの。
 気付けば呆然と宵華は呟いていた。
 クローゼットの中に隠されていたシークレットアイテムの持ち主にはっきりと心当たりがあった訳では無い。けれども、直感的に同じ類いの女性だと分かってしまった。あの女。高嶺に腰掛けて微笑む、黒が似合うあの女と良く似ている香りがする。傲慢な程自信に満ちあふれていて、立っているだけで視線を吸い付けるような、そんな。
 そんな女が彼の婚約相手だった。
 どうして今まで気付けなかったのだろうと宵華は唇を噛む。もう何度か出入りしている家だったのに、気付くのがこんなに遅れてしまった。罪悪感めいたものが心を咎めて、クローゼットを開けるのにぐずぐずと躊躇していたからだ。
 田淵さんに特別な相手がいるかどうかは宵華にとっての最重要事項で、どんな小さな気配も見逃さないようにつぶさに見て回ったはずだった。それなのに、本当にどうして今までクローゼットに触れないままで居たのだろう。
 彼が薬指にはめた指輪のことはとうに知っていた。だから彼の部屋に立ち入る前から、特別な誰かが居ることは知っていたはずなのに。今更どうしてこんな衝撃を受けているのか、宵華自身にも分からなかった。
 確かめなきゃ。
 呆然とした頭がぐるぐるとそんな言葉で宵華に命じる。田淵の恋人が同業者である可能性は常に想定の中につきまとっていた。あそこまで相手の噂を聞かないのだから、隠しているのだと言うことははっきりと分かった。
 接点なんてあるはずがない。あの女と田淵に特別な関わりは知る限り何もなかったはずだ。
 だけど、自室の中でさえもこんなに丁寧に痕跡を隠しているところを見てしまうと、疑う心が膨らんでいく。そこまで隠すのは、もしかしてそういう事なんじゃあないか。なんて、思わずまた呟いて。
 黒田ミキの住所なら、マネージャーの手帳に書いてあるだろう。トワノで共演する事になったから抑えているはずだった。

 最近、田淵さん寝不足みたいなのよね。
 宵華のマネージャーがある日ぽつりと漏らした。マネージャー同士の繋がりで会う事があるらしいとは前から聞いていたが、田淵の事が話題に登ったのは恐らく初めてだった。もっと話してくれても良いのに、と宵華はひそかに思った。
 もっと彼の事を知りたい。
 あの女よりももっと。
 マンションの一室に住まう彼と違って、黒田は一軒家に一人で住んでいた。だから、侵入は彼の時よりも容易かった。でも彼の家に入った時よりは慎重に。黒田の家は宵華の実家をどこか思わせる造りだった。防犯カメラの位置すらもなんとなく見るだけで把握できたのは幸いだった。
 黒田の家には彼の部屋以上に恋人の気配が濃厚に残っていた。厳密に言えば、男の気配はなかった。女性物の服ばかり、化粧品だって黒田の物だけ。マグカップや食器も一揃いしかなくて、女性の一人暮らしである事がたやすく伺える。見た目通り、調和を好む人柄だったらしい。全体的に落ち着いた部屋だった。クローゼットの奥に隠された、普段の黒田なら絶対に着ないような安っぽいドレスだけが部屋全体から浮いていた。
 逆制服の魔法だ。宵華は直感した。まさか黒田ミキがホステスの格好をして街中を歩いているはずがない。そんな思い込みを利用して、田淵の所に会いに行っていたのだろう。宵華がネットで調べたり、教えてもらったのと同じ方法だ。
 そんなクローゼット奥の僅かな違和感を除けば、黒田の家はただの女性一人暮らしの家だった。だけど、よくよく探してみると彼との思い出があちこちにしっかりと保管されていた。机の奥にしたためられた田淵からの手紙。彼の家で撮ったのであろう、二人きりの写真。二人で行った海外旅行の写真のみならず、その時のチケット類や、メモ書きなども丁寧に残されていた。
 丁寧にファイリングされた様々な思い出の中で1つ、決定的な物を宵華は見つけてしまった。
 あの指輪の発注書だ。ペアになる仕立てでイヤリングも造らせたらしい。確かに、黒田の耳に青い石が揺れているのを見た事がある。そもそもあの類いの石が好きらしくて、ネックレスや指輪、いろんな所に同じ石を使っているから、今まで宵華も気付かなかった。あるいは気付こうとしていなかったのか。
 形は違えども、同じ石を割って造らせたペアアクセサリー。
 きっと二人で相談しながら発注したのだろう。 
 良いなぁ。
 ……良いなぁ。
 羨ましくすぎて、怒りで目の前が真っ赤になりそうだった。
 どうしてよりによって彼だったのだろう、と何度目か分からない問いを脳内で転がす。手のひらで弄ぶようにくるくると同じ問いを繰り返し、自分に尋ねかける。
 答えは宵華の中にあるはずなどなかった。
 出来る事と言えば、彼とあの女を何とかして別れさせる方向に持っていけないかと考える事だけで。しかし怒りでくらんだ頭ではそれすらも難しかった。
 傷つければ、あるいは。 
 あの女を立ち直れない程に傷つける事ができれば、ひょっとしたら。
 どうやったらそんな傷を付けられるのかも分からないままに暴れた。
 いっそ、あの女が死ねば。
 そうだ、あの女が死んでくれれば……。

 初めて彼からもらった手紙に宵華は自分の心臓が跳ねたのを自覚した。

【今夜22時。直接話したい。】

 ボールペンで書かれた几帳面な字。見慣れた田淵の文字だ。その下に、『鵜素』、ときちんと書かれている。うもと、とこれで読むのだ。宵華は知っている。
 ベッドサイドに置かれたままのメモに添えられた一粒のチョコレート。恋人宛の物でない事は直感的に分かった。彼が居ないときに、黒田がこの家に来る事はないとすでに確信していたから。
 だから、これは宵華にだけ宛てられたメッセージだった。それに、今日は。今日だからこそ、このメッセージが届いたのかもしれない。
 どくどくと高鳴る心臓。知られていた。知ってくれていた。私の存在を、彼が見てくれていた。
 その事実は、宵華に残っていた最後の理性を失わせるには十分すぎる程の喜びを与えてくれた。
 うん、分かった。
 子供のように呟いて、くすくすと笑う。今夜は少しだけおめかしして行こう。彼に初めてちゃんと呼ばれて、この部屋に来るのだから。

 少し早めに来てしまった。
 一人きりの部屋で宵華はそわそわと、落ち着かなさそうにソファに腰かけていた。まるで初めてこの部屋に来た気分だった。
 何が待っているのか気になって、ちょっとだけキッチンを探ってしまった。冷蔵庫の中にしまわれていたホールケーキを見つけて胸が弾む。そして台所のキッチンナイフの隣に据えられた、大きなケーキナイフ。やっぱりそうだ。今日が山瀬宵華の誕生日だと分かっていて、彼は宵華を呼んだのだ。その日付は実は、『私』の誕生日ではないのだが、それでも気持ちはどうしたって浮ついた。
 ようやく想いが通じたのだと信じて疑わなかった。
 田淵が帰宅してくると、待っていた宵華を見つけては困ったように眉尻を下げた。でも驚きはない。やっぱり、宵華を待っていのだ。
 ぎこちない中で、ぽつりぽつりと言葉を交わす。彼は、『どうして』とは一言も聞かなかった。それが宵華を更に喜ばせた。きっと彼は、宵華の苦しみを分かってくれているのに違いないと確信させた。
 ふと、宵華は一番気になっていた事を尋ねた。クローゼットの中にしまわれた、あの女性物の類いだ。勿論答えは分かっていた。恋人の物だ。でも、彼が否定してくれる僅かな可能性に賭けたかった。
 しかし事は宵華が思った方向には進まなかった。

「……盗んできたんだ。どうしても欲しくなってしまって」

 落ち着いた様子で、しかしどこか後ろめたそうに視線を落としながら田淵は言った。いつものスーツ姿だからか、どこか彼を遠い物に感じさせる佇まいだった。

「嘘」

 咄嗟に宵華は言い返した。
 だって、黒田の家を見た。私は見たんだ、二人の思い出を。そう主張しようとしたけれど、急に喉が引っかかって何も言えなくなる。ぐるぐると悪い感情が腹の奥で渦巻いた。気恥ずかしさに良く似たそれは、ひょっとしたら罪悪感だったのかもしれない。黒田の家に勝手に入った事を、田淵に知られたくないと思ってしまった。
 だから最後まで、田淵は真実を明かしてはくれなかった。

「ごめん。僕は、そういう人間だ。ずっとやめなくちゃとは思っていたけれど……ここまで来てしまった」

「田淵さんはそんな人じゃない」

「そんな人間だよ。……君まで、僕に関わるのは止めた方が良い。僕は所詮、そういう人間だから」

 カッと熱くなった視界にちらりと映った物を手に取った。違う、と叫びながら刃を振りかざす。
 手に握った包丁は全然しっくりと馴染んでこなかったけれど、刃を振り下ろす、その攻撃的な仕草を体が覚えていた。
 心臓はあそこ。胸の中心。
 いつかズタズタにしたクッションみたいに、刃を突き立てる。
 綿は出てこなかった。代わりにダクダクと、赤い血が流れ出る。自分が突き立てた刃から流れ出る血の勢いに、宵華は動転した。この血が止まるのは、田淵が死んだ後だ。そんな最悪な想像をしてしまう。
 
「わ、私……そんなつもりじゃ……」

 幸いと、包丁は田淵の胸を外して腕の方に刺さっていた。うずくまる田淵から咄嗟に距離を取る。後ずさって、崩れ落ちそうな体を壁に寄りかかって支える。
 田淵は痛みに顔をしかめながら、静かに自分の腕を見下ろしていた。

「貴方が死んだ後に、誰が彼女を守るの……か……」

 その呟きの意味を宵華が正しく理解する事はなかったけれど。田淵の言う『彼女』が誰であるかだけは分かってしまった。
 頭から血が引いて、急激に全身が冷えていく。地面を蹴って、飛びかかるみたいに田淵の腕から包丁を引き抜く。
 また、あいつだ。
 またあの女が立ちふさがる。こんな状況になっても、結局持っていくのはあの女なのだ。山瀬宵華をこの世界で生かしてくれていた人でさえ。
 今度は迷いなく、心臓の狙いを定める。殺意で澄み切った頭がどこか心地よくて、目を細める。
 包丁がもう一度振りかぶられた。
 それを見た田淵は何かの覚悟を決めるように、グッと唇を噛み締めた。
 それが宵華の見た最後の光景だった。

調査:オフテープ

 カチッ。
 テープが止まった。取調べ中の様子は録音される。田淵が今話した内容は重要な証拠として扱われる事になるだろう。
 だから、九崎はテープを止めた。録音されるのはここまでで良い。

「……責任のためにお前は動いたのか」

 誰に問いかけるだけでもなく、九崎は呟いた。勿論、それは田淵に向けられた言葉だ。しかし返答は期待していなかった。
 問いかけたところで田淵は答えないだろうし、答えたところで意味はない。一人のあどけない少女の暴走。しかし彼女の肩には普通の少女には存在しえないものが載っかっていた。
 黒田の記事を書いた記者の末路を九崎は思い出す。次に誰がああなるかの保証はないのだ。国家権力の元動く九崎ですら、迂闊うかつに手を出せないエリアと言う物がある。それを闇と呼び表すのならば、少女は肩に闇を背負っていた事になる。
 正攻法で収める事ができないのだと、業界に居る田淵自身が良く知っていただろう。だからこそ、あんな結末になった。

「もっと、なにか他に方法はなかったって思わなかったのか?」

 府和は戸惑ったような顔つきでぽつりとこぼした。
 もっと、なにか。そう言いながら府和は答えを自分の中に探し求めるように視線を彷徨わせた。九崎は口を噤んだ。田淵はただ首を横に振った。
 沈黙が落ちる。

「言葉で尽くして、それで済むのならばそれで良かったんです。でも……そうはならなかった。全て、僕の過ちですよ」

「山瀬がお前に懐き過ぎたのは、お前のせいじゃあないだろう」

 九崎はついそう言ってしまった。起こってしまった後のことに、慰めの言葉に意味などない事を知っていたのに、と僅かな後悔がよぎる。
 田淵はただ静かに微笑んでいた。

「さあ……そうかもしれません。でも、そうじゃないと僕はやはり思います。事前にもっと出来る事があったはずです。それを今更言っても遅いですけど。……でも、こうならない選択肢はきっとあったはずで、その上で僕はこの結末を選びました」

「誰かを守るために人を殺す事を、か」

「僕だけのために、ですよ」

「…………」

 田淵は誰かを守っている。
 九崎の直感は相変わらずそれを訴えていたし、守られている者が誰なのか、ぼんやりながらも確信があった。
 しかし、それ以上九崎が何かを言うことはなかった。田淵が否定を続けるなら、それで良いのだろう。これ以上、真実を探る意味は最早なくなったから。

 想像していた通り、捜査の終了に府和は不満の声を上げた。

「この件、黒田ミキが絶対噛んでいます。田淵が黒田のストーカーだった、山瀬が更にその田淵のストーカーだった。そんなへんてこな三角関係を信じるんですか」

「本人がそう自白したんだ。証拠とも矛盾はない」

「そこじゃなくって! いえ、そこもなんですけど……どうしてそれを報告した途端に捜査が打ち切りになるんですか……!」

 田淵からの二度目の証言を上に上げて直後、捜査は打ち切りとなった。その上、山瀬の侵入については伏せられる事となった。
 このまま、山瀬は田淵と恋人関係にあった少女アイドルとして処理されるだろう。どこかから圧力がかかったのだ。圧力元は容易く予想がついたが、九崎は結局、府和に何も告げない事に決めた。

「流行りのアイドルの裏の側面はストーカーだった。一回り上のマネージャーに惚れた挙げ句つきまとい、脅した挙げ句に殺傷沙汰さっしょうざたになってしまった。そんな週刊誌みたいな内容ゴシップを警察が迂闊に公表できるわけないだろ」

「でも警察として、真実から目を背けるのは納得できません」

「……そうだな」

 本来はきっとそうなのだ。府和の言うように、ただ真実だけを探り求める。それが刑事として正しいあり方なのだろう。
 だが、それに素直に頷く事はもう九崎には出来なかった。それが悪い意味でのキャリアの差だ。上にも、下にも。この組織の中で、元々地方警官上がりの九崎が出来る事は少ない。

「まっ、聞いた通りの物をひとまず上げる。後は上が良いように処理するさ」

「先輩」

「お前も分かるさ、10年後には」

 納得のいっていなさそうな後輩の額をびしっ、と弾く。いた、と顔を抑える府和はまだ若い。10年後には、こんな事を気軽にできるような相手ではなくなっているだろう。きっと、府和は良い刑事になる。

「その時までに今日の事を覚えてたなら……まあ、頑張ってみりゃいいさ」

 その時に九崎に出来る事があるのなら、喜んで動くだろう。
 だがそれは今日じゃない。今日ではない、まだ遠い未来のいつかの話だった。
 九崎が意見を翻すつもりも、上官と戦うつもりないと察したのだろう。府和はまだ不満げだったが、しばらくすると口元に手を当てて思考の奥に意識を引っ込ませてしまった。
 何か考えているのだろうとは思っていたが、あの、とぽつり漏らされた言葉に九崎は目を瞬かせた。

「……あの。前の木田もくたとのやり取りで一個引っかかる事があったんですけど」

 まだ事件の事を考えていたらしい。真摯な態度を崩さない所に、九崎は己自身に対する後ろめたさを咄嗟に覚えた。だからこそ、姿勢を直して正面から府和に向き直る。

「言ってみろ」

 打ち切った事を受け入れたのが九崎なのだから、最後まで府和に付き合ってやれるのも九崎だけだった。

「ロッカーでのボストンバッグのやり取りのとこです。ふんわりした意見なんですけど……なんか?」

「手口が若い?」

 確かにそうだ。九崎には半ば理解できていない手法だった。故にそれを『若い』と称することに異論はない。その上で、確かに、そこまでで己の思考が止まってしまっていたことを九崎は認めた。

「田淵って30代半ばですよね。それも大手企業――芸能事務所を企業って言って良いのかわからないですけど――企業の真面目な社員です。そういう人間が思いつくやり方じゃない気がして。どちらかっていうともっと若い子。木田みたいにSNSを使いこなしてるような、現代っ子とか。実際に、田淵のスマホからSNSアカウントの存在は確認できませんでしたし……何か、しっくり来ていないです」

「……………」

 府和の言葉を九崎はしばらく反芻した。

「……別人の手口、ってことか?」

「かもしれないって思ったんです。それに何か……いくら、恋人にも害が及びそうなことに追い詰められていたとは言え、山瀬を自宅に呼び出したのもなんか……。もっと、なんかやり方があったんじゃないかって。それじゃあ、最初から山瀬を殺すつもりだったのと、実質大差ない。誰かを具体的にまだ傷つけたわけじゃあないんだから、もっと優しい方法が……。勿論、そんな風に考えている間に『何かが起きてしまったら』この事件はもっと悲しい物になっていたかもしれないんですけど、でも、だからって……」

「……人間は全能じゃないからなぁ」

 同じやるせなさを共有した気がして、ため息を吐く。山瀬の様子を聞いている限りだと、犯罪行為の予兆は確かにあった。その被害者として黒田ミキが選ばれる可能性は十分にあっただろう。田淵は最後まで否定したが、彼の恋人は黒田で間違いない。

「万能じゃない……そうですね……いえ、言いたいのはそうじゃなくって。何か引っかかってると言うか……なんだろう。田淵らしくない気がするんです。あの男の事を詳しく知っている訳ではないんですが」

「それは確かにそうだな。奴のプロファイリングと実物像がうまく一致しない。人間は分からん、とは言うがパターンがないわけじゃない。ありゃ本来、臆病すぎて犯罪なんざできんタイプに見える」

「臆病すぎて、ですか」

「優しすぎて、でも良いけどな」

「……誰かが、背中を押したんでしょうか」

 九崎は肩をすくめた。

「かもな」

 あからさまな形でなくても、誰かに後押しされることはあるだろう。それはきっと、山瀬宵華と同じ。じわじわと見えない圧力に心を締め付けられていったあの少女。
 彼女を追い詰めた第三者がどこかに確かに存在していて、それに気付かないままに生きているのだ。

……END?

REWIND

 ぽたり。……ぽたり。
 刃先から滴り落ちる赤い雫がキッチンフロアに血溜まりを作る。ドス黒さを含んだその動脈血どうみゃくけつが妙にリアルで、私は呆然と立ち尽くした。
 刺してしまった。
 田淵さんは腕を抑えて蹲っている。今なら簡単にトドメも刺せるだろう。
 この家に来たことは誰にも言ってない。だから、ここで確実に息の根さえ止めてしまえば。田淵さんの口さえ永遠に封じてしまえば、私が疑われることはきっとない。
 ひと思いにあの首筋にもう一回だけ包丁を突き立てれば良いだけだ。
 出来るだろうか、と自分に問いかける。
 出来るよ、と心が朗らかに言葉を返す。
 そうだ、私は出来る。私は人を殺せる。これまで『殺して』きた人たちの数を思えば、難しい事じゃない。いつものように心臓を突き刺すだけ。
 いつも弄んでいる言葉の代わりに、刃を突き刺せばいいだけだ。自分を守るためならどんな事もしてきた。誰かを殺すくらい、今更。
 初恋の人を殺す事くらい、なんて簡単な事なんだろう。
 だけどその瞬間、私はきっと砕け散る。あの日予感した、最後の墜落ついらくを感じた。無風の夜だ。なのに、強い風を受けたかのように頬がひきつる。

「田淵……さん……」

 何を言おうとしたんだろうか。私の声はひどく頼りなくて、縋っているかのような響きを持っていた。おかしいな、そんなに弱いはずの私ではないのに。
 包丁を持って田淵さんの前に立つ。田淵さんが私を見ている。苦痛に歪んだ口端。真っ直ぐな瞳。私を見る目に恐れはない。
その理由に思い当たってしまって、私の膝はその場で崩れ落ちた。
田淵さんの目の前に座り込む。カラン、と包丁が大きな男を立ててキッチンフロアを滑っていった。

「……恋人さんの物、無くなっちゃった。それは、別れたんじゃなくて……私のため?」

 少しずつ部屋の片付けが進んでいる事は気付いていた。部屋からミキさんの痕跡が少しずつ消えていく様をつぶさに眺めていた。田淵さんの顔を見ないと良く寝れないから、なんて言い訳を重ねて何度も彼の部屋に足を運んでいたから。
片付けられた品々はクローゼット奥のボストンバッグに詰められ、ある日を境にバッグごと無くなった。ミキさんを見ていると別れた様子はなかったから、どうしてだろうと首をひねっていたのだが、ようやく得心がいった。
こうなることを田淵さんは分かっていたんだ。
あの日飛び立った私が、墜落してぐちゃぐちゃになるまで止まれない事を分かってくれていた。そして受け止めてくれようとしてくれている。

「……ミキさん、巻き込みたくないな。なかった、から……良かった……」

 田淵さんはもちろん。でも私だってそうだ。知りたくなかった、田淵さんの恋人がミキさんだったなんて。恨みたくもなかった。傷付けなくもないはずだった。
 でも気付けば刃を振り回してばかりだった。今日はついに、人間を傷付けた。それも大切に想っていたはずの人を。

「……宵華ちゃん」

「ごめんなさい」

 生涯で二度と言う事はないだろうと思っていた言葉が自然と口から滑り落ちた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。恨んで、ごめんなさい。憎くてごめんなさい。悪い子でごめんなさい。好きに……好きになって……ごめんなさい……」

「宵華ちゃん。良い。良いから」

 田淵さんはゆっくりと首を振って、囁くように言った。あの日みたいに優しい声だった。
 生まれてきて、ごめんなさい。誰に言うつもりもなかった真実が口の端から滑り落ちて。地面に叩きつけられてぐしゃぐしゃに砕けた。赤ん坊みたいな泣き声と金切り声が聞こえてきた。私の声だった。

「これで最後にしよう、宵華ちゃん。ごめんね、僕達も気付いてあげられなくて。もう、終わらせよう。全部なかったことにしよう。ね?」

「それは……イヤ……出来ないよ」

 帰る場所なんてどこにもない。

「殺して。お願い、殺して。私が山瀬宵華で居られるうちに、お願い……」

「今日起きた事を僕は誰にも……」

「そうじゃないの!!」

 泣きじゃくる目元を拭う。次から次へと溢れてくる涙で指がふやけていった。

「もう時間がないの。私には次がない。お願い、殺して……殺してよ……。田淵さんが悪いんだよ。私を最後に突き落としたのは田淵さんだったんだよ……だから、責任を取って。……殺して」

 この世界は殺すか、殺されるかだ。
 始めに私にその言葉を教えたのは誰だったっけ。冷えていく指先の体温を感じながら、私はぼんやりとそんな事を考えた。

EPILOGUE

 はい、今月の分。
 手渡された茶封筒に俺はやったーー! と大喜びで飛びついた。浅ましいと言うなかれ。年下の女の子に貢がれて、プライドが傷つく場面はとうに過ぎた。あるのは、お金がないと進学おろか、住む場所すらなくなると言う現実だけだ。

「今日で四ヶ月。これで支払いは終わりだね。今までありがとう、先輩」

「いえいえこちらこそ。いやー、マジで助かったわ。貯金が五桁あるだけでこんなに心の余裕が違うもんだな」

「悲しい現実だね、先輩。可哀想に」

 くすくすとゆきは笑った。
 こいつは同じ高校の後輩。……らしい。らしい、と言うのは人づてに紹介された少女だから、実際の素性は良く知らない。
 小柄な体格は見た目からして中学生だが、本人が高校生と言い張るのでそういう事にしている。もし中学生だとしたら、その歳の少女から俺はそれなりの金を巻き上げている事になるわけで、なけなしの良心がざわつくのだ。いや、これは決して無理やり巻き上げている金ではなく、正当な報酬なんだが。

「ところでこれ、俺が今から警察に駆け込んで本当の話をしたらどうなるの?」

 本気だったわけじゃない。ただ、ある事を確かめたくて俺はちょっと尋ねてみた。
 ゆきは動揺せずに淡々と答える。

「先輩も一緒に教唆罪――殺人犯と同等の立場として扱われる可能性があるね」

「そっかぁ」

「戦ってみるかい? 法廷で」

「あー、遠慮しときます。やぶの中の蛇は寝かしとくタイプなんで」

「それが良いんじゃないかな」

 それに、とゆきは笑った。

「これは正義のためでもあるって最初に同意してくれたじゃないか」

 ゆきは片目を瞑ってウィンクを飛ばす。
 そういう気軽な態度で話題に出来る話しじゃあないはずなんだが、こういうところだよな、と思う。

「正義ねぇ」

 正義なんて軽々しく使うヤツにろくなヤツはいない。これは俺の持論じろんだ。

「丸く収まったじゃないか。田淵は過剰防衛かじょうぼうえいが成立。無罪とはならないが、執行猶予しっこうゆうよもついた。同じ職に就くことは難しいかもしれないけど、いくらでもやり直し用はある。それに、何より恋人は無事。その恋人を傷つけかねなかった存在も、優しく排除できた。これ以上にどんな良い結末があるのかな?」

「アイドルが改心して、恋人さんと手を取り合って親友同士になる」

「ラノベか恋愛小説の読み過ぎじゃないかな」

 ゆきは真顔で即答した。
 俺も真顔で返す。

「俺が良く読むのは週刊少年です」

「敵が味方になるパターンね。胸は熱いけど、所詮はフィクションだよ」

「冷たい現実だこと……」

 人は変われないよ。現実では少なくとも、そう簡単に変わってくれない。
 ゆきはどこかつまらなさそうに呟いた。

「で? そんな風に丸く収めてあげたゆきさんは今何してんの?」

 いつもの待ち合わせはファミレスで。おごりでハンバーグを食っている俺を横目に、ドリンクバーだけを頼んだゆきはせっせと封筒に何かを詰めている。薄い手袋をつけて作業をしているから、きっとろくでもないものなんだろう。

「そろそろ預かりものを返そうと思ってさ。彼が捨てられないって言っていた指輪だよ」

「ああ、俺の頑張りの成果ラピスラズリ

「ご苦労さまでした」

 ご苦労さまの一言で済ませられるには中々危ない橋を渡った気がするのだが、まあ、その分の報酬はしっかりもらっているから何も言い返せない。ほとんどゆきの言う通りに受け答えするだけで済んだし。

「指輪だけ入ってるにしては、なんか分厚くない、その封筒」

「うん。色々紙も入れたから」

「紙」

「彼との秘密の打ち合わせ」

 掲示板のような物を使ってゆきは田淵とやりとりしていたらしい。海外サーバーを経由しているから、とかなんとか言っているゆきの言葉を話半分に聞き流す。どうせ聞いたって俺にはわからない。それより、ゆきがまさに貼ろうとしている宛名ラベルが気になった。新宿区、と書かれた文字をなんとなく読んでしまう。ふーん、黒田ミキって新宿に住んでたんだ。

「彼女にだけは知る権利があるだろうと思ってさ。彼が何を考えて、何を守りたかったのか。ただ指輪だけ送りつけるのも不親切かなって。まるで唐突にフラれたみたいで傷つきそうじゃない?」

「……そう、ねぇ」

 どうしようもない真実を突きつけられたところで、傷付く事には変わりないように思えた。特に事が終わってしまった後だ。それなら最後まで黙ってる方が優しさなんじゃあないかと俺は思う。
 けれど、難しい話はハンバーグを不味くする。
 一ヶ月ぶりにありつけたまともな肉に集中するため、俺はぐちゃぐちゃ考え始めようとした脳をさっと切り替えた。

「ところで、先輩は正義と言う言葉が嫌いみたいだけどさ」

 切り替えようとして蒸し返された。なんだよ、とややむっとしながら顔を上げる。
 ゆきは頬杖をついて、内緒話でもするかのように顔をそっと寄せてきた。黒い睫毛の長さに一瞬、目が奪われる。

「個人的には改心かいしんという言葉の方が嫌いだよ」

「その心は?」

「生き方を改めろ、なんて何も知らない他人が言うには傲慢ごうまんすぎるじゃないか」

 そう言って、ゆきはいつものようにくすくすと笑った。

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