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I am (not) a designer #322

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designの最初の学期には、「Transdisciplinary Design Seminar (TD Seminar)」という必修授業があります。私が入学した2021年はTransdisciplinary Designの創設者であるJamer Huntが担当し、Transdisciplinary Designとは何かを教えてくれました。

この授業では自分の学びをエッセイにまとめる課題が3回ありました。このシリーズ記事では、英語で書いたエッセイを日本語に翻訳し直して掲載します。

今回は三つ目のエッセイ『I am (not) a designer』を取り上げます。この記事でTransdisciplinary Designについて理解できたり、私のデザインに対する姿勢が伝わったりすれば幸いです。


I am (not) a designer

"Whoever fights with monsters should see to it that he does not become a monster in the process. And when you gaze long into an abyss the abyss also gazes into you."
「怪物と戦う者は誰であれ、その過程で自分が怪物にならないように注意すべきである。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

TD seminarで学んだこと

TD Seminarの最終課題と位置付けられるのがこのエッセイということで、TD Seminarでこれまで学んできたことを振り返る。私が学んだことを一言表すと、「デザイナーの最重要課題は自分自身の価値観を理解すること」だ。

デザインはアイデアを具体化する作業ならば、デザイナーの価値観がアウトプットに現れる。そのため、自分がどんな価値観を抱いているのかを自覚するべきなのだ。さもなくば、偏見を持ったデザイナーは偏見を助長するデザインを生み出しかねない。

この秋学期を通して、自分の価値観(哲学)を見直す時間を過ごしてきたので、ここに記してみたい。


私にとっての存在論とは?

まずは、自分の世界観、つまり、世界がどのように存在していると考えているのかを明確にしたい。私は存在論における反基礎付け主義Anti-foundationalismに近い見方を採用していると考えている。その論拠はユクスキュルが提唱した環世界の考え方である。この世界はただの素粒子、エネルギーの海なはずだが、人間を含む生物の感覚器官を通すと意識などが浮かび上がるという考え方である。

では、この環世界はどのように形成されてきたのかという問いへの答えは、進化論から導き出すことができる。つまり、生物は進化的に適応的な捉え方をするように自然淘汰によって「デザイン」されている。こうした前提にたつと、たとえば砂糖そのものには甘いという性質はないことが分かってくる。なぜなら、人間が砂糖を甘く感じるのは糖質が生命維持に必要だからであり、快と感じるように自然淘汰によって「デザイン」されているに過ぎないからだ。

また、進化論の考え方を応用すれば、自我の存在も疑わしい。自我を報道官Interpreterと捉えるような心のモジュール仮説なども進化心理学では唱えられている。自我は進化の過程で生じ、脳の神経細胞の働きから生じる創発Emergenceであるという見方である。このように、世界には客観的な性質や本質は存在せず、意識自体も遺伝子が見せる幻想であると考えている。

ここまで説明してきた世界観は、全て仏教用語でも説明ができる。仏教では外の世界に本質がないことを「空」、自我が幻想であることを「無我」と表現する。そして、仏教はこれらを踏まえ、「もの自体に本質がある」「誰もが認める真実が存在する」「自分という存在を絶対視する」などを邪見と定義する。そして、これらに囚われていることに気づくように説く。

これはTransdisciplinar Designで学んでいる「自分のものの見方を意識せよ」という教えと似ていると感じている。もちろん、他の人もこのように考えるべきだと押し付けるつもりはないが、私にはこの世界観を採用し、一つの思想体系の構築を試みている。


デザインをSpeculateする

また、Transdisciplinary Designの授業を通して、「現在のデザインとは何か」について学んできた。私はアンチテーゼを掲げるのが好きであることを自覚しているので、自身の価値観を踏まえながら、今のデザインの常識を疑ってみたい。具体的には今のデザインに関する以下の常識にそれぞれ疑問を呈したい。

1. 参加型デザイン
大勢の意見を聞けばより良いデザインに辿り着けるという仮説を疑ってみたい。つまり、練り上げられたインサイトを得る方法はディスカッションからだけではないはずだ。たとえば、哲学者の本の知見をインサイトとして活用するデザインがあってもいいのではないか? これは(すでに他界している人も含めて)哲学者を「参加者」としてデザインに招くと解釈できる。他にも、ミラノ工科大学のロベルトベルガンディは、個人の愛からデザインを始めることをmeaningful innovationとして唱えている。みんなのためのデザインだけでなく、自分自身を唯一の参加者とみなす「私のためのデザイン」があってもいいとも思う。人を集めて話し合うだけがデザインではない。

2. デザインは世界を変える
デザインで世界を変えようとする姿勢を疑ってみたい。世界を変えることで人間の幸せを得るのではなく、人間自身の考え方を変えることで世界が変わって見えるという方向もあるのではないか。つまり、苦しみの原因は世界の側にあるのではなく、人々の認識の側にあるのだ。ドネラ・メドウズが唱えるレバレッジ・ポイントの最終目標であるTranscending paradigmsの実現を常に優先したデザインを目指す。

3. デザインは問題解決のため
問題は解決するものだという前提を疑ってみたい。世界を変えられないのならば、問題は永遠に解決できないのかというとそういうわけではない。あるべき姿は、問題と共存するデザイン。ダナ・ハラウェイがStay with the troubleと述べるように、生きることは苦しみであることからは逃れられない。ならば、そもそも問題を問題とみなす認識を変える方がいいのではないか? 世界は相互作用の中で成り立っていて、問題に思える現象はエゴが感じる錯覚かもしれないのだ。そんな知恵を授ける役割をデザインが担ってもいいのではないか?

デザインに人類学的アプローチを取り入れるという手法があることに倣って、哲学や進化論、宗教を取り入れた新たなデザインを提唱したい。たとえば、今生きている人だけでなく哲学者が残したインサイトを使うデザインがあってもいいのではないか? 進化心理学の知見を生かして人間の深層心理や無意識を理解したデザインがあってもいいのではないか? 仏教の目指す悟りへの道をガイドするデザインがあってもいいのではないか? そんな新たなデザインをSpeculateしたい。


I am (not) a designer

最後に、自分の世界観とデザイン論を統合して終わりとしたい。現時点での私の思想は、「全ては人間の解釈次第である」という考え方だ(追記:仏教の唯識論に近い?)。そして、キーワードは境界だ。

この境界という幻想が厄介だ。同じ遺伝子を共有するものが私、少し共有するのが家族、それ以外は他人やモノ。でも、これらの境界は遺伝子が我々に見せる幻想なのだ。私と世界の間に境界など本来なく、恣意的な存在でしかない。人類が直面している問題の原因がエゴの肥大化ならば、エゴに気づき、Compassion(思いやり、慈悲心)を重視する人たちが増えてほしい。

ただ、これを実現する方法は瞑想や慈悲の瞑想などで個人ごとに実践するしかないと仏教では言われている。2500年間近く経った今でも、皆がこの教えを実践するような世界は実現してこなかったので、その実現は私一人での実現は不可能であろう。それでも、デザインの力を借りてそんな価値観を理解する人が増やせれば嬉しい。

境界に対する姿勢はTransdisciplinary という単語とも共通点があると思う。似たような単語にMultidisciplinaryやInterdisciplinaryという単語もある。Multidisciplinaryが複数領域の活用、Interdisciplinary がそれら領域をまたぐことを強調しているのだとすれば、Transdisciplinary はその領域を区別すること自体を疑うという前提があると解釈できる。二元論から多元論に向かった先は、全てが融合した視点にたどり着くのだろう。経済の問題、政治の問題、教育の問題などと言われるが、そんな区分は存在しない。全てはこの世界の問題である。

私は哲学、宗教、進化論、心理学、工学、デザインなどの全てが好きだ。全ては自分を知ることであり、世界を知ることでもあるからだ。きっと境界が幻想であると悟ったからこそ世界のありのままの姿が見えるようになり、本質的なレバレッジ・ポイントを見つけられるようになるのだろう。


TD seminarを通して、デザイナーとは肩書ではなくて生き方を表す言葉であると思うようになった。ただ考えを巡らせるだけでもないし、ものづくりをするだけでもない。デザインとは理想を描き、その実現を試みるという生き方である。

プラトンは哲人政治を唱えたが、おそらくデザイナーにも同じことが言えるだろう。デザイナーが哲学をする。哲学者がデザインをする。どちらの言い方かは問題ではない。なぜなら、これらは言葉遊びでしかなく、両者に区別はないのだから。

私はデザイナーなのかもしれないし、デザイナーではないのかもしれない。しかし、こんな言葉の定義で思い悩む必要はない。私はこれまで述べてきた自分の価値観を信じて、自分自身の世界の捉え方を更新していく生き方を続けるだけだ。その結果、より良い世界の実現がおまけとしてついてくることを願いながら。


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