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デザインは幻想のためか? 幻想に抗うか? #321

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designの最初の学期には、「Transdisciplinary Design Seminar (TD Seminar)」という必修授業があります。私が入学した2021年はTransdisciplinary Designの創設者であるJamer Huntが担当し、Transdisciplinary Designとは何かを教えてくれました。

この授業では自分の学びをエッセイにまとめる課題が3回ありました。このシリーズ記事では、英語で書いたエッセイを日本語に翻訳し直して掲載します。

今回は二つ目のエッセイ『デザインは幻想のためか? 幻想に抗うか?』を取り上げます。この記事でTransdisciplinary Designについて理解できたり、私のデザインに対する姿勢が伝わったりすれば幸いです。


デザインは幻想のためか? 幻想に抗うか?

How would you know the difference between the dream world and the real world?
「どうすれば夢と現実の違いを認識できるのだろうか?」

マトリックス(1999)

デザインとは何か?

デザインと何か? その問いに明確な答えはないらしい。特に英語のネイティブではない人が「でざいん」という音だけを聞いても、より一層その意味はわからない。一説によると、デザインの語源は「disignare」という計画を記号に表すという意味のラテン語らしい。たしかに、今の英語のDesignが示すようなアイデアを形にするという意味と近い。

そんなデザインの歴史は、産業革命から始まる。産業革命以前は、一人ひとりの職人が手作りしていたが、産業革命によって機械で大量生産できるようになった。機械で作りやすい形状という制約の中で見た目の美しさや機能性を生み出す工夫が、デザイン(特に工業デザイン)の歴史である。今では、サービスデザインやUXデザインのような形のないものまでデザインの対象になっている。近年の目覚ましいテクノロジーの発展に伴って、デザインの定義も少しずつ変わっている。ただ、時代は移り変わろうと、デザインは思考を具現化する行為である。


監獄をデザインするなら? 

今のデザインを学ぶ人が始めに習うデザインのツールは「How Might We」だが、「どうすればHow might we大人数の囚人を少人数の警吏で管理できるのか」という問いへの答えが哲学の領域で考えられている。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』で、パノプティコンというベンサムが考えた監獄が紹介されている。

パノプティコンの驚くべき点は、パノプティコンの監視塔に実際に警吏がいる必要はないということだ。なぜなら、囚人からは監視塔に人がいるかいないかがわからないという構造ゆえに、囚人は勝手に心の中で「監視されている」という幻想を抱くからである。つまり、パノプティコンという刑務所の構造のデザインを通して、監視者の監視の目が囚人の心に埋め込まれるということである。

実は、この仕組みは現在の学校や会社でも採用されている。監視、制裁、試験によって人間は社会が想定する「あるべき人間像」に自ら倣うようにプログラムされていく。自己家畜化の歴史の中で生み出された最も効果的な支配の方法なのかもしれない。人々は上の立場の人間に常に「監視」されているという幻想を抱く。

刑務所であれ社会システムであれ、デザイン次第で人の頭の中にありもしない「見られているという幻想」を埋め込みことができるということだ。デザインはその具体化した物や仕組みを通して、別の人にある思考を植え付けることができる。


全ては幻想である?

「監視されている」ということが幻想であることは比較的気づきやすいかもしれない。でも、一体どこまでが本当でどこまでが幻想なのかを見分けることは可能なのか?

現実世界の存在を疑うというテーマは人類が向き合い続けているテーマである。この世界はもしかしたらコンピュータ・シミュレーションかもしれないという思考実験がある。他にも「世界5分前仮説」「水槽の中の脳」や「胡蝶の夢」、映画ではマトリックスやインセプションなどで夢と現実の境界が問われている。

これらの問いはそこまで突拍子もない考えではなく、そもそも人類を含む全ての生物は幻想を見る運命にある。感覚器官で捉えられない情報は知覚できないし、意識に上ってこない無意識を知ることもできないからだ。ユクスキュルが唱えたように、全ての生物は「環世界」に閉じ込められているのだ。

それでも、何か幻想でないものを探そうとする試みの中で、デカルトは「われ思う故にわれあり」と言った。なぜなら、世界の全てを疑った結果、それを疑っている自分自身の存在は疑えないからだ。一方、仏教はその自分でさえも幻想であるといった。たしかに、私が自分と思っている意識も神経細胞の電気信号から生じた「創発emergence」に過ぎないのかもしれない。

幻想を見る人類は、さらなる幻想を積み重ねていく。ユヴァル・ノア・ハラリ氏はサピエンス全史』で、フィクションが人類を進化させたと言っている。お金も、資本主義も、会社も国も人々の頭の中にしかない共同幻想である。さらには、人類はメタバースという新たな幻想をも生み出そうとしている。利己的な遺伝子が生物に見せたIとyouという最初の幻想が、weとtheyという幻想を生む。国という共同幻想へと繋がっていき、領地拡大を望み、植民地を広げ、二度の世界大戦、冷戦では西側と東側という対立構造という幻想にまで至った。これら全ての境界は「幻想」である。


幻想とデザインの行く先

ということは、デザインが具体化しようとするそのアイデアや思考も「幻想」に基づいているのかもしれない。もし、「全ては人間が勝手に生み出した幻想」であるならば、デザインに何の意味があるのか? 

幻想を具体化したデザインは、別の人に新たな幻想を植え付けるという負のスパイラルを発生させる。デザインを活用して行きつく先は、パノプティコンのような幻想の発生装置でいいのか? いや、この幻想から抜け出す手助けをすることにこそデザインの役割があるのではないか?

ドル紙幣には実在する歴史的な建物や大統領が描かれている一方で、ユーロ紙幣には架空の建物が描かれている。紙幣のデザイン一つとっても、愛国心を煽ることもできれば、他国との友好を促すこともできるのだ。幻想に誘うのではなく、幻想から抜け出す手助けをするのがデザインの役目になるのではないか?

デザインには、産業革命によって職人性Craftsmanshipが失われる流れへのアンチテーゼ、西洋的で伝統的な考え方からの脱却を目指すモダニズムという歴史がある。そんな歴史をもつデザインが、産業革命から始まった資本主義の中でビジネスを成功させて儲けるため、植民地時代の名残を後世にも引き継ぐために使われていいのか?

新たなデザインとして提案されているトランジションデザインやスペキュラティブデザインは、今の世界とは異なるもう一つの未来の世界をデザインする試みで、我々が囚われている幻想を浮き彫りにしてくれる。失われつつある人間性Humanshipを取り戻すためのこれらのデザインは、デザインらしさのルネサンスと言えるのかもしれない。アンソニー・ダンとフィオナ・レイビーは「私たちはspeculative designからspeculative everythingに移行する必要がある」と言う。デザインは、その時代の幻想から脱却するという精神性を失うことはないだろう。

私たちはどのように幻想と向き合えばいいのだろうか? 選択肢はたくさんある。幻想のためにデザインすることもできるし、幻想に対抗するデザインもできる。デザインによって全ての境界が幻想であることに誰もが気づき、ベルリンの壁のようにそれを壊すことができるようになることを願っている。宇宙飛行士の毛利衛氏が「宇宙からは国境線は見えなかった」と言ったように。


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