『日常を眺めて』5通目by Χ #341
kenken(以後kenさん)からの「お手紙」が届きました。文通の良さを料理のメタファーで表現している冒頭から素敵ですね。料理のメタファーを私も使うなら、即レスが評価される時代にあえてスローペースな文通をするというのは、燻製料理にでも(共同で)挑戦しているようで楽しいです。
ちなみに、パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designで同級生だったGraceとCasがサーキュラー・エコノミーに関するニュースレターを始めるみたいです。彼女たちからの「お手紙」も受け取っていきましょう。
「デザイン」と「デザインでない」の狭間で
「相変わらずデザインをまったく語っていない」という最後の言葉にcorrespondenceすることから書き始めてみます。というのも、この表現にTransdisciplinary Designらしさが溢れていると思ったからです。
このことを予見するかのようですが、Transdisciplinary Designの授業で私が書いたエッセイの一つは「I am (not) a designer」というタイトルでした。Transdisciplinary Designを学んだ後では、「この世の全ての営みがデザインに感じられると同時に、自分の活動がデザインなのかが分からなくなる」という不思議な感覚を覚えるのではないでしょうか。
「この世の全ての営みがデザインに感じられる」というのはTransdisciplinary Designに限った話ではなく、デザインの対象がサービスや体験、コミュニティなどと抽象的になっていくこととも重なる現象だとも思います(この曖昧さがデザインの魅力だと思ってもいます)。
たとえば、『Design, When Everybody Designs』で有名なエツィオ・マンズィーニはデザインを「専門家or非専門家」「問題解決or意味形成」の二軸で分類しているのですが、非専門家&意味形成のデザインを「文化的な活動(cultural activities)」と呼び、映画フォーラムや読書会、音楽活動やラジオなどもデザインの一種としています(事例は上平崇仁『コ・デザイン』を参照)。とすると、「ささやかな日常」として取り上げる対象もデザインで、『日常を眺めて』もデザインと言える気がしてきます。
一方で、前回も触れた『読んでいない本について堂々と語る方法』における「読んだ」と「読んでいない」のあいだの境界は不確かであるという話も再び思い出されます。つまり、「デザイン」と「デザインでない」の間にも無限のグラデーションがあるのではないでしょうか? とすれば、この本の論理で考えると、語る対象の全てが「デザインでない」に分類されることになります。
というわけで、全てがデザインともいえるしデザインでないともいえる。ならば、『日常を眺めて』では「デザイン」という言葉に縛られることなく、ささやかな日常をテーマに語り合えばいいとしておきましょう(「他人に共有したい日常」を選んで書いている時点で「それは『ささやかな日常』ではなく『非日常』では?」という矛盾がある気もしますが……)。
「知る」と「書く」による背理法
「知の尖端で書く」という部分についても考えたくなりました。というのも、引用されているドゥルーズの文からTransdisciplinary Design創設者のJamer Huntがよく引用していた「unknown unknowns」を思い出したからです。
この動画で紹介されているマトリックスを拝借すると、知るから書くというのはknown unknowns(既知の未知)をリサーチした状況を、書くから知るというのはunknown knowns(未知の既知・暗黙知)をリフレクションすることを連想します。そういう意味で、知ると書くは「極限的な突端」で交わる行為同士なのかもしれません。
ただ、ここで私が気になるのはunknown unknowns(未知の未知)はどのように「発見」されるのかということ。「知る」と「書く」という言葉で表現するならば、unknown unknownsは知れもしないし書けもしない「何か」であるように思えます。つまりそれは、いわゆる科学や理性によって理解することはできない何か、とにかく「そこにある」としか示せないものです。Jamerはこのunknown unknownsに可能性を感じているはずです。
また、unknown unknownsの発見にはtransdisciplinarityが必要だとも動画内で述べていて、これがTransdisciplinary Designという学部を創設した背景の一つなのでしょう。こうしたJamerの主張が私に刺さるということは、もしかしたら自分も「言語化できない何か」が過小評価されて見逃されていることに不満を覚えているのかもしれません。私が書くことに興味があるのは、書くことを通して背理法的に書けないものを発見したいからだと思います。
仏教との絶妙な距離感を模索中
Correspondenceの「わたしがわたしとして存在しているのは、わたし以外のすべての存在のおかげである」という世界観が仏教的だと教えてくれたり、私が前回紹介した藤田一照さんの『現代坐禅講義』を読んでくれていたり、私が興味のある仏教の話に合わせてくれることに感謝しています。
ところで、『日常を眺めて』でも私は仏教をよく参照しますが、最近は「自分は仏教徒なのか?」というアイデンティティ・クライシスに陥りかけていました。結論から言えば、私は仏教を参照する世俗主義者と思うようになっていて、この危機からはひとまず脱しているのでご安心を。
なぜ「私は仏教徒である」と言い切れなくなったのかというと、「もしも『仏教徒』を自認すると仏教の教えを疑いにくくなる恐れがあるのでは?」と思ったからです。卒業制作のためにフィールドワークをしていたニューヨーク禅センターで得た学びが「倫理的な態度とは、『自分のデザインが倫理的である』と盲信しないことである」だったこともあり、仏教を盲信することを避けたい気持ちがあります。
この思いを支持してくれるかのように、「ブッダは仏教徒ではなかった」という言葉があります。ブッダ自身は当時主流だった瞑想によるメンタルコントロールと苦行によるボディコントロールのどちらを極めても幸せになれないと気づき、坐禅という第三のアプローチを見つけたとされています。ブッダが真理に辿り着いた過程も踏まえると、誰かの教えを無批判に信じるような態度は避けるべきなのでしょう。
とはいえ、仏教は2500年以上かけてアジアを中心に世界中で紡がれた世界最大級の「縄」であることは間違いない。仏教を学ぶことが先人や同時代の人々とcorrespondenceをさせてくれるのです。だから、「仏教を頼りにするけれど、仏教徒ではない」という絶妙な距離感を探していけたらと思っています。
ちなみに、『Why I Am Not a Buddhist』というエヴァン・トンプソンの邦訳本が出版されるので楽しみにしています。彼は『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』という仏教の視点から認知科学を論じる本の著者でありながら本書を書いているので、私の悩みが言語化されていることを期待しています。
Correspondenceによる精神の循環は?
「Correspondenceは同じタイミングに生きていることが条件となるのでしょうか?」という質問に答えてくれて嬉しいです。しかも、kenさんも同じような疑問を持っていたとは驚きました。私なりに要約させてもらうと、「同じ時代を生きていなくても、自分の存在が先人に負っているという感覚(感謝?)とそれを世界に対して返していくこと(慈悲?)がcorrespondenceなのだ」という説明は腑に落ちました。
当意即妙な返事に納得したのも束の間、correspondenceについて別の質問を思いつきました。それは「correspondenceは3人以上でも起きるのか?」です。というのも、私の中でcorrespondenceは二者間の往復を無意識に思い浮かべるからです。
前回は「縦の継承」という視点から「往復」が条件なのかを質問したとすれば、今回は「二者間」が条件なのかが気になっているようです。『日常を眺めて』も私とkenさんの間でだけ行ったり来たりしていますし。
もちろん3つ以上の関係性でcorrespondenceができるのは想像がつくのですが、物理学における「三体問題」のように複雑すぎて言葉で説明できなくなってしまうのでしょうか? サーキュラー・エコノミーが物質的な循環を注目しているとするならば、correspondenceによって精神的な循環も扱えるようになるのでしょうか? 現代の生きづらさの理由の一つが孤独感ならば、correspondenceは他者との交流を促す処方箋になってくれるのでしょうか?
こんな感じで浮かぶ疑問に思いを巡らせていると、「『日常を眺めて』に3人目を招いて実験してみるのはどうか?」というアイデアを思いつきました。3人目はレギュラー参加でもいいし、一回限りのゲストでもいい。そんな緩やかに開いていく「文通」にしていくのも面白いかもしれないという「想定なき予期(anticipation)」をしてみました。
この試みは『日常を眺めて』に彩りを添えることになるのでしょうか? それとも、スパイスを加えることになるのか? はたまた、隠し味を利かせることになるのか?