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幸せの中身、ピーマンは知っている<無料公開>

新刊、なかなかかわいくできました!

文学フリマの新刊「振り返るとウキウキと孤独が並んでる」より、
短編を1つ無料公開します。出産の話です。


幸せの中身、ピーマンは知っている


妊娠中って、誰もが幸せなのだと思っていた。

「おめでとう」「おめでとう」。
 その言葉は、軽やかな風のように私を通り過ぎる。
 けれど、その風は私の中に何も残さない。
 心の奥には冬がまだ居座っている。
 静かで、冷たく、そして動かない冬が。
 妊娠、という出来事は突然にやってきた。
 「いつかはあり得る」と覚悟していたけれど、準備は整っていなかった。
 それはハイジャックのような暴力性はないけれど、
 機内食がテーブルにそっと置かれるような、
穏やかなタイミングでもなかった。

 2年間、毎日のように妊活に向き合ってきた。
 けれど、何も変わらなかった身体が、ある日突然変化を見せた。
 それは待ち望んでいたはずの知らせだったのに、私は動揺していた。
 喜びよりも、「どうしよう」のほうが心を埋め尽くしていた。
 舞台は、私にとって「自分でいられる場所」だった。セリフを覚え、役を作り上げ、観客の前で演じるたびに、私は自由を感じていた。
 でも、妊娠がわかった瞬間、その自由は一瞬で奪われた。
 マネージャーから「役を降りる」という話を告げられたとき、私は「仕方ない」と答えるしかなかった。

 その帰り道、ふと仕事のことが頭をよぎった。
 自営業という肩書きは自由そのものだと思っていたけれど、
 それが妊娠中にはプレッシャーに変わっていた。
 家に帰って開いた手帳には、びっしりと埋まったスケジュール。
 その中に赤ちゃんが加わる隙間が見つからなかった。
 「私は、本当にやれるのだろうか?」
 舞台に立つことも、仕事を続けることも、どちらも「私自身」だった。けれど、妊娠によって、それが全て揺らいでいた。
 収入のこと。家計のこと。
 夫の経済力に頼るには心もとない現実。
 結婚して、家族を作るという夢を選んだのは私だった。
 でも、その夢は「温かい家庭」と「自分だけの時間」という両極端な願望に挟まれ、私を押しつぶしていた。

 「私は家庭的なタイプじゃない」
 結婚して初めて気づいたことだった。
 それでも、家族を作りたいという願いは本物だった。
 その矛盾が、私を苦しめ続けていた。
 お腹の中の赤ちゃんは、順調だった。
 ポコン、ポコン。小さな足で軽快なリズムを刻む。
 「ここにいるよ」と合図を送ってくるみたいだった。
 私はそのたびに思う。
 「この子は強い」
 けれど、次の瞬間、心に影が落ちる。
 ——じゃあ、私はどうだろう?私、大丈夫なのだろうか?
 赤ちゃんの蹴りは小さな花火みたいだった。
 夜空に一瞬だけ咲いて、眩しく私を照らす。
 花火の直後、心は浮かれるけれど、
 その光が消えると、胸の中にぽっかりと穴が空く。
 「花火の後には、夜が長い」
 そんな言葉が頭をよぎる。
 部屋の中は静かだった。
 時計の針がカチカチと刻む音が、私の孤独をリズムに変える。
 「一人ぼっちだね」
 その囁きが、夜の空気に溶けていく。
 お腹の中で暴れる命。
 その存在だけで、周りの人を幸せにしている。
 私の価値まで爆上がりさせている。
 不思議なものだ。

 でも、私は知っている。
 その価値は私自身のものではない。
 価値があるのは、お腹の中にいるこの子だ。
 だからこそ、時折、赤ちゃんが送るエネルギーに笑ってしまう。
 ——私って、なんて暗いんだろう?
 こんなにも、私は私であることに執着している。
 誰も私が何者かであることなんて望んでいないのに。
 赤ちゃんが輝いているからこそ、私の影が濃くなる。
 でも、その影を見つめるたび、
 「なんだかおかしいな」
 と思ってしまう。
 孤独は深いけれど、どこか滑稽でもある。
 私は夜の静寂の中で、小さな笑い声を漏らした。

 私は空港だ。
 赤ちゃんは飛び立つ準備をしている。
 だけど私は、この広い空港で次の便を待つことしかできない。
 手持ち無沙汰なまま、ひたすらモーター音を聞き続けている。

 ポコン、ポコン。
 赤ちゃんがまた蹴る。
 私は、「もう少し待ってください」と返事をした。
 果たしてその言葉が届いたかどうかはわからない。
 私は10ヶ月間の入れ物。
 赤ちゃんのために、栄養を送り、守り続ける役割。
 それが終わったら、私はどうなるのだろう?
 夜中、目が覚めて冷蔵庫を開けた。
 萎びたピーマンが目に入る。
 その表面に刻まれた皺が、私の心を映しているようだった。
 「十月十日を過ぎたら、私はこのピーマンのようになるのかもしれない」
 私はそのピーマンを捨てることができなかった。
 10ヶ月が過ぎ、ついに出産の日がやってきた。
 お腹の中でじっくり準備をしていた小さな便。
 その便は、なかなか飛び立たなかった。
 離陸が38時間も遅れるなんて、どんな空港だろう。
 滑走路は狭いし、管制塔も混乱している。
 「とんでもない空港だな。これじゃあ飛び立てないぜ」
 そんな声が聞こえる気がした。
 私はベッドの上で痛みに耐えながら、心の中で言い返す。
 「うるさいな。こっちだって必死なんだよ!」
 でも、実際のところ、私も自分を信じきれていなかった。
 情けなくて、疲れ果てて、泣きたいけど涙も出ない。
 「こんな空港、他にはない」
 そう思うと、なんだか自分が滑稽に思えてきた。
 笑いたいけど、痛みがそれを許さない。

 ついにその瞬間が訪れた。
 滑走路が開き、小さな命が旅立つ準備を整えた。
 「じゃ、またどこかで」
 赤ちゃんが手を振っているような気がする。
 その声が耳元で囁いた気がして、私は少しだけ笑った。
 次の瞬間、現実に引き戻される。
 「おめでとうございます!」
 周囲が一斉に歓声を上げ、誰かが私の肩を叩いている。
 どうやら、無事に生まれたらしい。
 「良かったですね」と言われても、私はただぼんやりと天井を見上げていた。
 滑走路は無事だったのか?
 それとも、赤ちゃんが上手く離陸してくれただけなのか?
 その答えはまだわからない。

 数日後の朝、冷蔵庫を開けた。
 そこには、あのしなびたピーマンがまだいた。
 皺だらけの表面で、どこか誇らしげにこちらを見ている。
 「お前、まだいたの?」
 私がそうつぶやくと、ピーマンが返事をした気がした。
 「しなびたって、割と幸せだぜ。だって中身は緑色だろ?」
 その言葉に、私は思わず吹き出した。
 しなびていたって、まだ役割はある。きっと私も、そうなのだ。
 ピーマンの存在が、私の疲れた心に小さな火を灯した。
 滑走路を通り過ぎた飛行機の後に残る静けさの中で、
 私は冷蔵庫の扉をそっと閉じた。



短編が16編のエッセイ集になります。
&あとがきも書きました。

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チェカンノ@イラストは上中下さん
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