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再生可能な資源 -能力主義の罠-

若手起業家の実家が裕福だと知った時、周囲の無関心による好奇の目は

「どうせ親の七光りでしょ」

と言って彼らの成功を親の経済力に結び付けようとする。

私は、彼らの成功が親の経済力にあることを否定しない。創業当初から大きな規模の事業を始めるためには資金が必要になるだろうし、往々にして一般的な若者には借りることすら困難な額であることも多い。そうした時、最も距離の近い親という存在が生活に余力を持った上で資金を出してくれるパトロンになり得るならば、それ程の僥倖は無いはずだ。

経済力は、資金面だけでなく彼らが育つ環境にも重要な影響を持つ。親が直接的に指導を施す場合は勿論、家族の行動を見ているだけでも金銭感覚は彼らに自然と備わっていく。金を使い、そして増やす力を彼らは成長段階で体得していくのである。

こうした環境要因は、彼らの持つ強みである。それを持っていること自体が悪い事では決してない筈だ。しかし、彼らは好奇の目に対して、そうした背景の肯定を敬遠しつつ別の成功要因へと焦点を向けていく。少なくとも、マスメディアに露出する際には背景にある経済力の存在を強調しないようにしているか、若しくはさせられている。

それは何故か?

マスメディアがプロセスを描こうとするからだ。言い換えれば、そこで生まれる関係性やアイデア、哲学のようなソフトな存在を再現可能性と共に大衆に提示したいから、ということである。

好奇の無関心ではなくビジネスの成功について知りたがる人々は、当然知り得た情報を何がしかの形で活用としようとする。そうした人々に対して再現可能性の低いバックグラウンドの情報を掲載したところで不毛な時間を提供するばかりであろう。そうした、読み手のニーズに適合しない情報をマスメディアは徹底的に削り取っていく。

社会的圧力によって大きな成功要因が覆い隠された状態で抽出された、一見再現可能なエッセンスのようなものは、読み手に一方向の希望を与えて焚きつける。

「努力こそ善」
「やらない者は弱者」

成長意欲自体が悪という訳ではないが、これからはそう簡単に逃れることが出来ない。社会的に認められることが最上の賞賛であると目され、相対的な基準を持つ価値観で自らの成功を測ることを是とする意欲に足を掬われてしまえば、自分自身を失っても走り続けることになるだろう。

問題は、こうして走り続ける人々が「良き消費者」だということである。人々に成長意欲を半端に持たせることで儲かる人々がいる。

当然ながら、走り続ける人々が全て報われる訳ではない。彼らに半端に成長意欲を与えれば、「投資」の題目で出費をする。ある程度まで成長はしたとしても、最終的にその能力を活かせる程になるまでには至らず、また新たな成長意欲を欲することになる。彼らには成功要因となるバックグラウンドが無いので挑戦は困難を極めるが、マスメディアは決してその事を伝えない。資本主義は貴方を何度も何度も成長させて、その度に刈り取るのである。

資源となることに抵抗する手段は幾らかある。まずは、絶対的な基準において自らを定置すること。比較させ、手段に追従させることに対する抵抗は相対的では有り得ない。自らの持つ価値と、自らの求める価値を己の中で見出すことである。

そして、不可能を認めつつ見たくないものを見る覚悟をすること。得てして、我々は無力である。そして、美談はそれにつけ込む。その事実を認め、自らの置かれた状況を見つめることは、一つの相対的敗北を受け入れることである。しかし、ここでも絶対的な自己が有用である。比較をする必要のない存在に、相対的な敗北によって喚起される感情は無い。事実の全体を把握し、善悪や損得の判断を切り捨ててこそ、事実を事実として捉えることが出来る。

とはいえ、現状への満足が必要かと言えばそうではない。あくまで行うべきは事実像の把握であって、肯定でも否定でもない。必要ならば、好きなだけ成長して刈り取られよう。構造に対する判断は我々に任されている。

それでもなお、肯定の姿勢を持つべき範囲を認知しておくことは肝要であろう。無闇に成長を要求されているように感じる時は注意が必要である。

それは、本当に自分に必要な成長なのか?本当に自分が求めた努力なのか?

焦る必要はない。
まずは自分を見据えて、不足の自分を嘆かないことだ。

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