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残酷な昔話って残酷なの?

子どもに与える昔話のなかには残酷にみえるお話があります。それでずいぶん前から、子どもに与えるものとしてはもっと残酷性を抑えたお話にした方がいいのではないか、という議論がされてきました。たとえば、「三匹の子ブタ」。

もともとのお話は、最後にオオカミは三番目の子ブタに食べられてしまう、というものです。これが残酷だというので、修正したほうがいいのではないかと考えた作家や編集者が改変を加えたものも出版されています。そこで世の中に出ている「三匹の子ブタ」には3つのパターンがあります。

・最後にオオカミは改心して、子ブタと仲直りするというもの

・オオカミが大やけどして逃げてしまうもの

・オオカミが死んでしまうもの

私が現役時代に勤めていたラボ教育センターが出版した本では、三番目の子ブタが暖炉の火で鍋のお湯を沸騰させ、煙突から落ちてきたオオカミを中へ落とし、オオカミ鍋にして食べてしまうというものでした。

つまり原作に一番近い形です。

文章にしてしまうととても残酷なのですが、これを感受性の豊かな子どもに与えていいものだろうか、と思われる親御さんも多いのではないかと思います。今回はそんな昔話について考えてみたいと思います。

昔話は語りつがれて

当然のことですが、多くの人が文字を読めるようになったのはごく最近のことで、昔は文字はあったとしても特権階級の人びとのものでした。世界を見渡せば、今も文字を読めない人は大勢いますし、まれに文字をもたない民族もあります。

昔話は、そういった庶民のエンターテインメントでした。日本であれば、いろりを囲んで炎を見つめながら年寄りが語って聞かせることも多かったでしょう。夜の雰囲気に包まれながら語られるお話は、大笑いしたり、怖いな、などといいながら、きょうだいで寄り添って聴いたりしたのではないでしょうか。

昔話のかたち

こんなふうに、昔話はことばで語られるお話だからこその特徴があります。

たとえば、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがいました」というような、決まった形の語り出し。このことばによって「これからお話がはじまるぞ」という期待がつのります。お話の終わりには、おまじないのようなことばがくっつくことがよくあります。たとえば「とっぴんぱらりのぷ」とか「ちょきん、ぱちん、すとん。はなしはおしまい」といった。

お話の内容は短く、わかりやすく、すぐに本題に入ったのち、あっさりと解決します。詳しい状況描写などは語りません。長くて複雑だと、最初のほうのことなんか、忘れてしまいますからね。

多くの昔話は、3回同じようなできごとが繰り返されます。それぞれのできごとは少しずつ変わり、3番目で主人公が勝利します。同じようなできごとが繰り返されることによって、クライマックスにむかって気持ちが高まっていきます。お話の流れもわかりやすく、心に残ります。

子どもたちは3番目で主人公が問題を解決することを知っていますから、安心してお話についていくことができ、最後のところで期待通りにことが運んでほっとする、つまりカタルシスを得ることができるのです。

・昔話のかたちが与えてくれるもの

昔話がことばで語られることから、以上のような特徴を持つようになりましたが、それは思わぬ効果を生みました。

お話の始まりと終わりに決まった文句があると、当然のことながら「ここからがお話の始まりで、ここまでがお話の終わり」ということをくっきりと聞き手に印象づけることができます。「ここからがお話の世界」、「ここまでがお話で、この後は現実の世界」ということを明確に区切ることは、じつはとてもたいせつなことなのです。

もし始まりの決まり文句がなかったら、と想像してみてください。いろりを囲んで、今日あったことを話している流れから、「ある村のじいさんが鬼に出会って踊りを踊ったら、鬼にほめられてほっぺたにあったコブをとってくれた」などといったら、これは本当にあったことと思われかねません。お話の終わりのほうは、終わりのことばはなくても声のトーンが変わるので終わったという感じはすると思いますが、それでも終わりの決まり文句はあったほうが、きちんと現実世界に帰ってこれます。

ここからここまでがお話の世界だ、ということがはっきりわかっていれば、そこで起こることは全部架空のことだと思っていられます。どんなに不思議なことが起ころうと残酷なことが起ころうと、それはお話の世界のなかだけのこと。

人間の心理には、どうしても人にいえない暗い部分が大なり小なりあるものですが、それは抑えつけると肥大化して精神に影響を及ぼすこともあります。「これはお話の世界だ」とはっきりと認識し、心の暗い部分をお話のなかで解消してあげれば現実世界を健全に生きられるのです。

また、昔話は残酷な部分はあっさり語られます。桃太郎の鬼ヶ島での戦いでは、鬼の首をはねて血が飛び散るようすを描いたり、キジが鬼の目玉をつつきだしたりはしないのです。

また登場人物も詳細な性格設定、性格描写はしません。桃太郎はたんに桃から生まれた子どもということと、すぐに大きくなって鬼ヶ島に鬼退治に行く、ということしかありません。つまり感情移入をする余地がないのです。

聴いているほうは桃太郎に感情移入できないのですから、桃太郎に憧れたり、自分の仲間だなどという思いは生まれません。鬼を殺すというような残酷なことも、現実感はありません。

それより鬼ヶ島に行く途中で仲間に出会いみんなで協力して悪い鬼をやっつけた、というできごとだけが残ります。登場人物はストーリーを動かす道具でしかないのですから、彼らが起こす残酷な行動も、ことばとしての音が流れて消えていくとともに、残酷性も流れていきます。

昔話の残酷性は残酷か?

「三匹の子ブタ」に話を戻しましょう。もしも最後の場面で、自分が食べられるかもしれないと思いながら焦ってお湯を沸かす子ブタのようすや、舌なめずりをしながら煙突を降りていくオオカミ、沸騰するお湯の中に落ち込んでしまったオオカミの断末魔の叫びといった細かい描写をしたとしたら、感情移入しすぎて怖ろしさが勝ってしまうかもしれません。

同時に、そんな短時間でお湯が沸くはずがない、とか、オオカミも降りていく間に熱風が上がってきて、下で何かやっていることに気づくはずだなどといういらぬ理性が働いて、このお話は矛盾だらけのつまらないお話ということになってしまうでしょう。

しかし、オオカミが沸騰したお湯の中にドボンと落ちて、3番目の子ブタはすぐにフタをし、オオカミを食べてしまった、とあっさり書かれてしまうとどうでしょう。

いつもオオカミに食べられてしまう子ブタが、逆にオオカミをオオカミ鍋にして食べてしまう。そういう逆転のおかしみが、残酷性が薄れたなかで浮かびあがってきませんか。

オオカミが改心して子ブタと仲良しになったり逃げだしたりしては、このおかしみは出てきません。

昔話は、最初に語られた当時は真に迫る残酷なことやエロティックなことも盛り込まれていたかもしれませんが、時の流れにもまれて、子どもがおもしろいと思う部分だけが生き残ったお話です。それを改変しては、そのおもしろい部分がなくなって、あたりさわりのないお話になってしまいます。

私はそう考えますが、みなさんはどう思われますか?

残酷タイトル画像の絵本





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