気味悪がられた一寸法師、やさしくなった鬼たち ー『一寸法師』
今年も2月が過ぎて行こうとしています。2月といえば節分豆まき。3日にはお父さんが鬼のお面をかぶり、子どもに豆をぶつけられて逃げ惑う光景が、日本中のあちらこちらで見られたことでしょう。
昔話には鬼が出てきて、最後には退治されるというお話がたくさんありますが、一寸法師もその一つ。小さな男の子が、世にも恐ろしい鬼をその小さな体でやっつけて、鬼が忘れていった「打ち出の小づち」で立派な若者に大変身。お姫様と結婚して幸せに暮らしましたとさ、という「一寸法師」のお話は、子どもにとって、とても夢のある楽しいお話であることは、今も昔も変わりません。
おとぎ話だといってしまえばそれまでなのですが、このお話もよく味わってみれば、味わい深いものがあります。
「一寸法師」というお話は、室町時代から江戸時代初期にかけて生まれた『御伽草子(おとぎぞうし)』に書かれたものですが、いま一般的に知られている『一寸法師』とは微妙に違います。
私が勤めていたラボ教育センターから出版している『一寸法師』は、『御伽草子』に題材を求めた『大岡信が語る『御伽草子』ーかたりべ草子』(平凡社)に依って制作されました。この御伽草子版「一寸法師」(ラボ版『一寸法師』)に沿って、「一寸法師」の物語を考えてみたいと思います。
『御伽草子』の「一寸法師」
・気味悪がられた一寸法師
『御伽草子』の「一寸法師」でまず最初に衝撃を受けるのは、おじいさんとおばあさんがこの一寸法師を気味悪がった、ということです。
年月を経へるほどに、はや十二、三になるまで育てぬれども背も人ならず、つくづくと思ひけるは、ただ者にてはあらざれ、ただ化物風情にてこそ候へ、我らいかなる罪の報(むくい)にて、かやうの者をば住吉より給はりたるぞや、あさましさよと、見る目もふびんなり。
夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めをいづ方ヘもやらばやと思ひける」
ー『御伽草子』原文
子どもがほしくてたまらなかったおじいさんとおばあさんが、住吉神社にお参りしてまでしてやっと授かった子ども。ところが生まれた子どもは身体が小指ほどの大きさしかなく、年齢を重ねてもいっこうに成長しない。
おじいさんとおばあさんは「一寸法師はきっとバケモノに違いない。どこかに行ってくれればいいのに」とひそひそ話をします。それを聞いてしまった一寸法師は、家を出るしかないと京へ行くことを決心するのです。
一般的には、親は子どもを「愛するものだ」という常識があるので、自分の子どもに対して「どこかに行ってほしい」なんて思う親がいたら、なんてひどい親なのかと思ってしまいます。でも。
いっこうにいうことを聞かない子ども、夜中に急に泣き出して親を眠らせない子ども、親のいうことは聞かず自分の主張だけをする子ども……。
どんなに愛していても、子どもが自分の思い通りにならない時、反射的に荒々しいことばを投げつけて後で自分を責めてしまうことはよくあります。それはもしかすると、「子どもは愛さなければならない」という常識が頭にあるから、自分を責めてしまうのではないかとも思うのです。
そういう「人間的でない」部分が自分の心に巣食っていると考えることは恐ろしいし、子どもに対して申し訳ないという気持ちもわいてくるでしょう。
感情にまかせて虐待するのは論外ですが、そういう心が自分にもあると認めることはだいじなことなのではないかと思います。そしてそれを許すことも。だいじょうぶ。普段の生活でたっぷり愛情を注いでいれば子どもは理解してくれます。
一寸法師も、打ち出の小づちの魔法で立派な若者になり、嫁をもち、大金持ちになったとき、つまり欠点を克服したとき、両親を屋敷によんでいっしょに暮らすようになりました。子どもはどんな環境にあっても、心の奥底では親との絆をたいせつに思っているのです。
・鬼とは何者?
もうひとつ、「御伽草子」ではふしぎなことが書かれています。
一寸法師は鬼に呑まれては、目より出でてとび歩きければ、鬼もおぢをののきて、「これはただ者ならず。ただ地獄に乱こそ出で来たれ。ただ逃げよ」といふままに、打出の小槌、杖、しもつ、何に至るまでうち捨てて、極楽浄土(ごくらくじょうど)の乾(いぬい)の、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり。
ー『御伽草子』原文
鬼が何度一寸法師を飲み込んでも、一寸法師はたちまち目から飛び出てきます。それで鬼は驚き、「これはただ者ではない」と打ち出の小づちと杖とムチを放り投げて逃げていきます。よく知られた展開ですが、しかし『御伽草子』では、鬼は「極楽浄土の乾(いぬい)の、いかにも暗き所」の方向へと逃げるというのです。
「乾」というのは北西の方角で、極楽浄土のある方向です。いっぽう鬼がいる地獄の方向は「艮(うしとら)」つまり北東です。鬼門といわれるこの方向は、京から見て富山県は立山連峰のある方向。平安時代には、立山は罪人が落ちる地獄とされていました。
鬼が自分のすみかである地獄(北東)に逃げていくというならわかります。そうではなくて、極楽浄土(北西)の暗いところに逃げていくのです。
極楽浄土とは、病気もなく死ぬこともなく、人びとが安楽に暮らしている世界です。古事記でいえば常世(とこよ)の国、沖縄の土着信仰でいうニライカナイ。ニライカナイは、先祖の人びとが神さまとなってそこに住まい、子孫の幸せを願っているとされています。
その「極楽浄土の暗いところ」とは何だろうと考えると、極楽浄土に住まう人びと(あるいは神)が鬼をコントロールできる場所ではないかと思いました。つまり、神々は子孫に災いをもたらす魂(鬼)を抑え込んで、外に出さないようにした、ということかもしれないと思ったのです。
また鬼というのは神さまのもつ厳しい一面だ、という考え方もあります。昔の人は雷や台風といった自然現象、山や老大木、川などにはすべて神が宿ると考えていました。神さまが穏やかな気持ちでいるときには人びとに幸せをもたらしますが、神さまが怒った場合には大変な災害が起こります。だから、神さまの逆鱗に触れないように神社を建てて神さまをまつり、参拝してたいせつに扱ってきました。その神さまの恐ろしい面を鬼とよんだのです。
鬼が神さまの怒りの面だとすると、鬼が一寸法師に敗れた後、地獄(北東)に帰っていくのではなく極楽浄土(北西)の暗いところに逃げて行くというのは、「鬼は怒りをおさめてやさしい神さまに戻り、落ち着ける静かな場所へ行く」というふうにも考えられます。
いずれにしても、一寸法師は鬼(もしくは荒ぶる神)を制圧し、鬼たちをコントロールできる極楽浄土の方へ導いたといえるでしょう。
・一寸法師にそんな力が?
自分の親から「気味悪い」といわれた一寸法師の、どこにそんな力があったのでしょう?
「一寸法師」は、高名な民俗学者の柳田国男氏が「小さ子ばなし」と名付けた昔話のひとつになります。
この小さ子のお話はたくさんあって、かぐや姫も竹のなかに入るくらい小さかったし、桃太郎も、もとは大きな桃ではなく通常の桃に入っていましたから彼も小さかったのです。これら二つのお話はふたりともすぐに大きくなりましたが、一寸法師は打ち出の小づちを手にいれるまでは小さな男の子でした。
どうも、成人しても小さい人間というのは、昔は気味が悪い存在とされたと同時に超人的な力をもっているとも思われていたようです。
小さ子伝説のもとをたどっていくと、「古事記」や「日本書紀」に登場するスクナヒコナノミコトにたどり着くという説があります。スクナヒコナノミコトは、オオクニヌシをたすけて国造りを行なった神とされ、その姿はとても小さかったそうです。スクナヒコナは古事記のいう常世(とこよ)から来た神で、仕事が成功に終わると粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて淡島(あわしま)より常世に帰っていった、と伝えられています。
常世の国! まさに極楽浄土か。強引に小さ子伝説と一寸法師を結びつけるなら、常世の国から神の子としてこの世にやって来た一寸法師が、まつろわぬ神(朝廷に従わない神がみ)をたいらげて、常世の国のコントロール下に置いた、というふうに思えてくるのですが、どうでしょう?
「桃太郎」にも同じ思いをもっている人はたくさんいて、『日本人の神さま』(戸井田道三・著、ちくま文庫)の著者の戸井田氏は、「桃太郎」のお話にある違和感について仮説を述べています。
どういう違和感かというと、桃太郎の物語には鬼が人家にやってきて悪さをしたという箇所はどこにもない。しかし桃太郎は家来を引き連れて鬼ヶ島に行き、さんざんこらしめて宝物まで奪ってくる。桃太郎こそ鬼ではないかという違和感です。じっさい戸井田氏のほかにもそのように考えている人は多いようです。
それに対して戸井田氏が出した答えは、桃太郎は常世からやってきた「小さ子」で、鬼ヶ島は常世の国。さらに鬼というのは先祖の魂の姿ではないか。その鬼(=神)たちが、子孫が困らないようと桃太郎に宝物を託したのだ、という仮説をたてました。
桃は中国では不老長寿および幸運の果物とされ、日本では邪鬼を払う果物とされていますね。「古事記」では、根の国に隠れてしまったイザナミノミコトが放った魔物に、イザナキノミコトが桃を投げつけて足止めをくわせます。
そういう霊験をもつ桃から生まれた桃太郎だから、桃太郎もやはり常世の国からやって来たのだとし、鬼ヶ島(=常世)に行き、お世話になった両親へのお礼として宝物を持って帰り、両親に安楽な生活をもたらした、という戸井田氏の仮説も成り立つわけです。
昔話は庶民の心が詰まってる
月にはかぐや姫はいない。鬼もどこかへ行ってしまった。雷は電気が起こす自然現象だ。天界は神々のおわすところではなく、想像を絶する広さを持つ宇宙で、ビッグバンによって生まれた。そんなふうに人類の科学を追究する態度は、さまざまなものを理解可能にしてきました。
でも、やはり節分の時には豆をまいて鬼を追い出し、福をよびこもうとしますし、人類がパンデミックの恐怖にさらされるとアマビエの降臨を願います。そんなふうに人智を超えるものに対しては、人間はおそれを感じ、超人的なものにむかって祈るのが人間の本能的な感情なのではないでしょうか。
どんなに時代が変わっても、その心のありようはそんなに変わらないと思います。昔話を探ることで日本人の本能的な心情を知りたいと思い、今回は「一寸法師」を題材にして考えてみました。
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