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コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」を見て-二つの視点・民衆劇と神話(再録)
初出2010.6.13:https://ameblo.jp/uno0530/entry-10561943481.html
コクーン歌舞伎第16弾「佐倉義民傳」6/3-27 渋谷シアターコクーンにて。
初日から10日経過。そろそろ自分の中でもまとまってきた感じなのでつらつらと書いてみる。
相当に自分の世界に突っ走るので、冷静な批評とか感想とかを読みたい方は読まずにお帰りください。
◎民衆劇としてのパワー
初日。平場から観劇。
とにかく圧倒された。終わってしばらく立てなかった。
「佐倉義民傳」をかけると聞いて、串田さんはきっと民衆を描こうとするに違いない、と思ったし、従来かからない前後の話、特に「祟り」のくだりについてはぜひ描いてほしいと思った。そうでないと、単に「民衆のために奔走したいい人」のちょっとうそくさい話になってしまい、なぜ彼が神として以降数百年もの間、人々に語り継がれ、崇拝され続けてきたのかがわからないと思ったから。
その思いはかなえられた上に、もっとずっと凄い形になって眼前に現れた。興奮するわ、嬉しいわ、物語そのものの悲しさで胸はいっぱいだわ。数日経ってもまだ心がまとまらないくらいだった。
一言で言えば、面白かった。それもFUNな面白さではなく、深い、深い、「考える」面白さ。
今回のコクーン版では、鈴木哲也氏を補綴ではなく、あくまでも「脚本」として迎え、従来上演される形とは異なる新しい物語を構築している。
堀田上野之介との対面、宗吾が直訴するにいたる経緯、従来の戯曲には存在しない役柄の追加、そして、メタフィクション的な戯曲構造への変化など。
そのことが、従来の佐倉義民傳が宗吾一家の悲劇にとどまっているのに比べ、群集劇として、さらには現代につながる大きなテーマを含む物語として、スケールを大きくしている、と感じた。子どもとの別れが悲しい、自分の身を挺する宗吾が悲しい、というのは従来どおりあるけれど、その外枠にもっと大きな虐げられた存在の叫びが渦巻いている。
ラストシーンでは、宗吾の物語が時代を超えて(神として祀られ、さらに物語として語られ)つながっていること、それも、「今、まさにこの瞬間」まで「道一本に」繋がっているんだ、ということが何度も何度も繰り返し客席に向かって放たれる。
いつの時代にも、どんな世界にも、どんな立場、国、言葉、人種、生き方であっても、人間の悲しみや苦しみはなくなることがなく、今も、この瞬間も「宗吾は祈り続けて」いる。宗吾の祈りは終わってはいない。
その悲しみ、苦しみをなくすために私たちの今、現代、子どもたちの未来を、どうしていくの? どう思ってるの?? と問いかけられているようだった。
宗吾のようには生きられない。宗吾のような人はそうはいまい。
いたとしても、こうやって無残に踏み潰されることはどこにでもおきている。
それでも、祈らずにいられないということ。
少しでも受け継ごうと、皆が思うこと。そうすれば未来は変わり、宗吾も祈りを止めて休むことができるかもしれない。
大きく両手を振り仰ぐ宗吾の後ろに、それまでは暗く重く雲が垂れ込めていた空に、真っ青な空が一瞬だけ、現れる。子どもがクレパスで書きなぐったような、素朴な、しかし、力強い青空。
このラストシーンを見て、未来を明るく思うか、哀しくとらえるか、は人によって異なるだろう。
だが、私は、皆のラップの力強さ-人の声、思いの圧倒的な力-と、そしてこの青空によって、明るく、とらえている。この声を、宗吾の祈りを聞いて皆が心に宿すことで、それが可能だと感じている。
初日は特に、まだ荒削りな状態でもあったせいで、ラストシーンのラップが進むにつれて、自分の意識が外に向かって解放され、客席中の心がひとつになっていくような気がした。
ラップの合間にはさまれる宗吾の祈りはその心の増幅器(アンプリファイア)。気が大きく高く上がっていく瞬間。心地よいラストシーンだった。
◎ラップの力
普段の私は、あまり日本語のラップが好きではない。
なんだかむずかゆいのである。あまりに生々しいせいか。
それが、今回の舞台では物語の中に納まっているゆえか、非常に胸に届いた。魂の言葉、と思えた。
とりわけ、一幕後半の「百姓達の春夏秋冬」。ここはレトリックも豊かで、かつ、ラップの中心となっているMCikkuとMCTOMの二人が非常に哀愁漂う語りを見せてくれていて、年貢を納めた農民たちが呆然とその様を見ながらつぶやく「まあ、しゃあねえか、生きてりゃいいか」のフレーズ。淡々としながら悲哀に満ちた短いこのフレーズに思わず涙が湧いたほど。
竹本は大好きである。
今回、ラップを使われたことで逆に、竹本の魅力に気づきもした(竹本の場合、どれほど心情を語っても、必ず役者との間に距離がある、その距離感が生む緊張や客観が心地よいのだということ)。
だが、今回の舞台では、そうした客観よりも民衆自身が心を語ること、その「生々しさ」や「荒々しさ」がどうしても必要だったんだということだと思う。
それも、集団で語るということだ重要だったんだと。
「群集の声」という、誰か特定の言葉ではない何か得体の知れない、底の知れない、でもパワーにあふれた声に、宗吾が突き動かされていく様は怖くすらあった。そういう何かを動かしていく「力」があのラップにはあった。台詞でもなく音楽でもなく、「言葉」の力、「リズムを持った言葉」がまるで呪文のように宗吾を追い立てていく。
時代が動く時の力の象徴なのだと思う。
◎もう一人の宗吾
こうした民衆劇としてとらえる視点とは別に、もうひとつ、私にとって非常に興味深い視点があった。
それは、新しく置かれた「駿河弥五右衛門」(橋之助)という役によって引き起こされた感覚なのだが、この物語が「人が神を生み出す残酷なプロセス」の物語でもある、という視点だった。
初日に特に思ったのはこれは、ジーザス・クライスト・スーパースターだ、ということだった。
序幕、はりつけにされた宗吾の人形が次第に人間に近づき、「宗吾」になる場面。
現代にまで物語となって語り継がれる宗吾の物語を初めから見せるよ、という、フィクション宣言の場面ではあるのだが、まるで民衆の祈りが宗吾という人物を生み出したようにも見えて、ちょっとぞっとする。
宗吾という人はよく考えると怖い人だ。
あまりにも使命にまっすぐ過ぎて、理解できないくらい人のためにばかり動いている。現代人から見たら嘘くさい、虚像にすら見える。(脚本かもそう思ったのだろうか、今回の脚本でも、磔の瞬間に、宗吾が人間らしい真情を叫ぶ場面が挿入されている…後述するが、私にはそれは違う意味に見えるのだが)
が、この冒頭の場面を見ていると、そのためだけに生まれ、そのためだけに生きて、そのために死ぬのが不思議でなくなってくる。なぜなら彼は「使命のために創られた」魂が「人間・木内惣五郎」の肉体に入った存在だから。
1つの肉体に両方が共存した状態に見えるのである。
ジーザスは磔になったとき、最期に「エリ、エリ、ラマ・サバクタニ」(神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか)と叫んだという。
宗吾もその瞬間、「念仏など唱えるな。恨め。魂魄この土にとどまって祟りをなさん」と絶叫する。二人のイメージがだぶって見える。あの叫びは宗吾の「エリ、エリ、ラマ・サバクタニ」。肉体の死を前にした命のほとばしり。
死して、そして、神として蘇る、絶対的なプロセス。宗吾も神となり、物語となって、永遠の命を得た。
宗吾もジーザスも、人々の苦しみや嘆きから結晶化して生まれたような純粋な存在で、最後にはその身を犠牲にして、「神」となる。神を創り出すにはどうしてもそうした肉体の犠牲が必要なのだろうか、と哀しく思う。
今回のコクーン版「佐倉義民傳」が民衆劇(私たちの物語)であると同時に、「神話」である、という考えから離れられないもうひとつの理由が「駿河弥五右衛門」。
彼はいってみればユダなのだと思う。
私たち現代人との大きな橋渡しであり、私たちの持つ宗吾への不思議を共有し、代弁してくれている存在。
私たちの生きる現実、そして、彼らの生きる劇中の現実。木内惣五郎の史実。伝説となった宗吾さまの物語。さまざまな時空を貫いて存在するただ一人の存在。
彼は私たちとともに、宗吾を、民衆を見つめている。
ユダがジーザスを神にするために不可欠な存在であったように、弥五右衛門は宗吾を神にするために不可欠な存在であった。
そして、ユダ同様、孤独である。形は違うけれども、彼もまた使命を帯びて生まれた者。
宗吾だけが彼の役目を理解している(「彼こそが不動明王の化身であったか!」)。
つまり、宗吾と弥五右衛門は実はひとつの存在なのではなかろうか。
見ているとどうしても浮かぶのが、子どもの頃の理科の実験。
混合物から純粋な成分の結晶を取り出すと、あとに「何か」が残る。その残った何か、こそ、弥五右衛門なのだと、しきりにそんなイメージが湧いて止まらなかった。
だから。
ラストシーン。
祈る宗吾をラップの洪水の中、そっと立たせて、もういいのだ、というように抱える弥五右衛門が、磔台の上でもまだ祈り続ける宗吾をやさしい哀しい目で見つめる姿を見ていると、大きな使命を終えた二人がやっと、人間に戻れる時が来たように思えて、胸苦しく、涙してしまう。
この架空の人物・弥五右衛門という存在の果たした役割は大きかったように思う。
◎より「綯い交ぜ」のコクーン歌舞伎
序幕から終幕まで見所が多くて書きつくせない今回のコクーン歌舞伎。
従来からの「甚兵衛渡し」「子別れ」の場面はもちろん、涙せずには見られない。また、新たに挿入された離村農民の悲劇としての「おぶん」(七之助)の場面も、哀しい挿話。
ラップもだが、音楽も面白い。自然な形で邦楽と洋楽が融和している。
役者たちも半数以上が歌舞伎役者ではない状態だが、それを感じさせない。チームワークがよいのだろうと思う。
音楽の融和(邦楽と洋楽)。役者の混合(歌舞伎役者とそうでないさまざまな出自の役者)。戯曲の融和(古典部分と新作部分)。これまでのコクーン歌舞伎でも、古典を現代に通じるものに、という試みがあったが、今回はさらにそれが綯い交ぜになっていて、境目や違和感がなく「あえて意識しない」融和を、目指した舞台なのではないかという印象を強く持っている。当たり前のように両方がある。
まだ中日前で、ここまで4回見たが、毎回変わっている部分がある。
ラップはより力強くスピードアップ。
笹野高史を中心としたコミカルな場面はよりコミカルに、一方で泣かせるところはさらに深く。
細かい変更点も散見。さらに変わっていくことだろう。
胸苦しく哀しく、しかし、力強いこの舞台。千穐楽までその進化・深化をしっかり見届けようと思う。
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