見出し画像

その「一通の手紙」。

一通の手紙がすべてを決めた。|うのじ。 @uno36bk #note https://note.com/uno36/n/n87ee4f7e7097

LINEのOCR機能ってすごい。
2001年に書いたその「一通の手紙」、読み込んでみたら綺麗にテキストになったので掲載しておきます。

手紙なので、拙い表現は気にせずに。
2001.11月平成中村座「義経千本桜」権太編、忠信編を見ての感想です。やや、国立劇場や成田屋への批判も混ざってますな…国立劇場は未だにながーい座席や殺風景さは苦手です。当時の役者名はそのまま掲載してます。

前略 中村勘九郎さま

初めてお手紙差し上げます。一介の歌舞伎ファンです。


今まで何度も勘九郎さんのお仕事は拝見して感動しても、手紙を書こうとまで思ったことはないのですが、今回の平成中村座公演を拝見して、どうしても気持ちを伝えたくなってしまいました。自分でもびっくりしております。


お忙しいかたのお時間を頂戴するのも申し訳ないのですが、このつたない手紙、もし、読んでいただければ幸いです。

私は、実は新之助さんのファンです。今月も、国立で新之助さんがご出演なので、当初の予定では国立のほうに足繁く通う予定だったのですが、結果的には三宅坂よりも浅草にいるほうが多くなってしまいました。それだけの吸引力が勘九郎さんに、中村座にあるのだと思います。


実際に中村座に足を踏み入れてみると、とてもくつろげる。歌舞伎座にも国立劇場にもない温かさ。

舞台を見ていると、小屋の四隅にまで勘九郎さんの、舞台の上の役者の息が届いているのがわかります。その勘九郎さんの手の中にすっぽり包まれているような感覚が、その心地よさが忘れられなくて、何度も足を運んでしまうのではないでしょうか。


昨日、「権太編」と「忠信編」を昼夜通して拝見しました。

「権太編」では、何度も見た「すし屋」なのに、初めて泣きました。

今まで見た権太では、どうしても権太の死に対する周囲の反応…特に惟盛の⋯に納得ができなかったり、あるいは、権太はここでこう改心したんですよ、と考えてる風な役者の動きに逆に理詰めでひっかかったりして、十分に物語そのものからカタルシスを得ることができなかったんです。

(幸四郎さん、我當さん、團十郎さん、猿之助さん、などなど⋯)

それが昨日は違いました。わぁっと涙が出てきた。

それは、もちろん小屋が小さい、舞台が近い、竹本もよく聞こえる、台詞も粒だって聞こえる、という環境的な要素も大きいとは思います(国立の2Fで見る権太の寒々しいこと)。

それ以上に私がぐっときたのは、死の間際、上手にいる惟盛を拝んだ権太の姿⋯そこに魂の浄化を見たからでした(今まで、惟盛を拝む権太を見たことがないのですが本当はある型なんでしょうか?ちょっとわからないんですが)。


あの瞬間、「いつ」改心したか、とか「どう」改心したかとかを論じることがばかばかしく思えました。結局、権太が重盛の絵姿に心打たれ、最後にまた惟盛の出家の姿に仏を見て、たとえ自分の働きそのものは徒労に終わっても、その様子に魂を救われて命を終える、そのことが大事なんだと思ったんです。心理的なプロセスはどうでもいい、権太の魂が救われること、これができてなきゃ、ブロセスもへったくれもない、と。


何度も見たすし屋で惟盛に満足したことがないのですが(弥助はまだしも「たちまち変わる御粧い」からあと、はっとさせられたことが一度もなかった)、福助さんの弥助はこの変化がありありとしていて、最後、下手から現れたときもたいていの人は弥助と惟盛が混ざったような風情で現れるんですが、福助さんは最後まで「惟盛」でした。そのこともまた、感動を大きくしてくれた理由の一つだと思います。

今まで苦手だったすし屋が好きになれました(ああ、でも勘九郎さん以外じゃだめなのかもしれませんね⋯)。


そう、小金吾討死も、国立の新之助さんの小金吾はもう一つ若さに欠けていて鮮やかさに欠けるのですが(その分、憂愁の義経は素晴らしい出来でした)、七之助さんの小金吾は、前髪の少年の精一杯がほとばしっていて、その死に様が鮮烈でした。短い時間で小金吾を鮮烈に印象づけるには、花火が燃えるように激しく、鋭くなけれはならないのだと思います。



夜の部、忠信編は桜席から鑑賞したので、ちょっと視点が普通じゃないかもしれません。

こちらは「道行」が素晴らしかったです。忠信の抑制の効いた動き、無駄に動かない分だけ身体からじわりとにじみでるような気概を感じました。ほれぼれします。

「四の切」では、桜席だとケレンが堪能できて面白いのですが、忠信の顔を正面から見られないので、ちょっと感動には至れないかな、とは思いました。(可愛いなあ、とは思うのですが)

最後、幕切れは化かされがあってもよかったかもしれません。というのは、御殿の場がずっと同じ絵面で続くので、変化が乏しいように感じるんです。最後の忠信の踊り(化かされが出れば一緒に踊りますよね)がややだれて、終わりがあっけなく感じました。

それでもこれが切だと明るい気持ちで帰れて嬉しいですね。


桜席に座ると、自分が舞台の一部になったようで楽しい。たぶん、皆さんおっしゃってると思うのですが。昨日、しみじみお客さんを眺めていたんですが、みんな好きに過ごしていて、非常にリラックスしてるのがわかりました。平気で舞台に役者がいてもおべんと食べてる人もいるし、寝てる人もよく見えるし。でもそれがそれで1枚の風景になっている、と思いました。


国立なんかだとみんな見てるしかないから、のぺーっとしてるんでしょうかね。

あんな風に外でリラックスできるってなかなかないですよね。靴を脱いでるのも大きいんだと思いますが。

桜席での鑑賞は滅多にできない経験ができて嬉しく思いました。

桜席という仕掛けに限らず、中村座で経験できるいろんなことひとつひとつに、皆さんの知恵や工夫を感じ取ることができて気持ちがいいです。

ふるまい酒も嬉しいし、柿の葉寿司も⋯まあ、みなさん、その分安くしてくれっておっしゃるんですけど、あれ、おいしいです、実に。昨日のチケットは前日にチケットホンの残席を買ったんですが、竹と松があると言われて、柿の葉寿司が食べられるから、と松を選びました。はい。余談ですが。

口上、幕間のイヤホンガイド、客を退屈させないぞ、という小屋主の気持ちが充満してると思います。

あそこで怒ったりするのもったいない。せかせかしてる人を見ると、「まあまあ」って言ってあげたくなります。せっかくのハレなんだから、と。

国立と中村座と両方行ってみてしみじみと思うのですが、この2つの上演を「競演」と言っちゃ本当はいけない気がしています。目的が全然違うし、上演された作品の志向も違うと思いました。

やはり国立は「通す」こと、千本桜という作品を俯瞰して見ることが目的になっていると思います。新之助さんの義経が実によく、タイトルロールとして一本筋が通っていることに象徴されているんですが、初めから終わりまでを見通すことに主眼があると思います。いろいろな試みはされていますが、そこにエンタテイメントとしての要素はやはり薄い。研究、実験だと思います。

対して中村座はやはり根幹がエンタテイメント⋯客をまず楽しませる、そこにある、と思います。

作品も俯瞰ではなく、接写ですね。権太という男、知盛という男、忠信という男(狐だから雄? でもまあ、男)、それぞれに対する勘九郎さんからのアプローチであり、分析です。そこに観客が必ずいる、生き物になっている。あくまでもライブなんですね。

その差は大きい。

作品研究か、人物研究か、という違いと言ってもいいかもしれません。勘九郎さんの想いとは違うかもしれませんが、結果はそうなっていると思います。

その分、鮮烈なのはやはり中村座ですし、一般の人が足繁く通うならやはり中村座だろうと思います。心惹かれるのは待乳山でございます。(実際、26日国立のチケットを持ってたんですが、手放して中村座のチケットを取ってしまいました⋯いいのか、と自分につっこみつつ⋯)


試演会も両方とも(22日は立ち見で5時間でしたが苦になりませんでした!)拝見して、つくづくと勘九郎さんの歌舞伎への想い、心を見た気がします。皆さんとても美しかった。きらきらしてました。下手かもしれません、そんなことをくさす人もいますが、そりゃ当たり前のことですもの。でも気概は誰よりも勝っていた、と思います。

クールぶって、泣いてどうなる、という人もいますけど、懸命にやって流す涙に心を動かせないのは寂しいですね。泣いたままじゃなくて、そこからまた新しいエネルギーが出ればいいと思う、勘九郎さんも、ぜひ、皆さんにこういう機会、与え続けてあげてください。弥十郎さんの知盛、亀蔵さんの権太、ともに素晴らしかったけれど、現行の体制では歌舞伎座でやれることはまずない、そのことが哀しいだけに⋯。


やっぱり長くなりました。すみません。

でも、語りだしたら言葉がつきないくらい、今回の中村座には感動してます。どこかの総理大臣みたいですけど、ほんとうに。


周囲の歌舞伎ファンみんなで勘九郎さんに惚れ直しております。どうかこれからも、私たちを感動させる試みをたくさん続けてくださいますよぅ、お願いします。私もできるだけ応援します。

(新之助さんともぜひぜひ舞台を⋯勘九郎さんと一緒に楽しそうに舞台を勤める新之助さんが見たいです、心から)


つらつらと勝手なことを書き連ねましたが、勘九郎さんが考えてらっしゃること、想いをくみ取れないで申し上げたことがあるかもしれませんが、観客としての素直な気持ちとしてお許しいただければ幸いです。


あと1日ですが、最後まで舞台を楽しくおつとめになれますように。苦しくても楽しいことってたくさんあります。役者のかたにとって、舞台ってそういうものじゃないかと思っています。


千秋楽も仕事で途中からになりますが拝見します。素晴らしい舞台になりますように。

乱文、ご容赦ください。それでは。


草々

11月25日

いいなと思ったら応援しよう!

うのじ。
いただいたサポートは私の血肉になっていずれ言葉になって還っていくと思います(いや特に「活動費」とかないから)。でも、そのサポート分をあなたの血肉にしてもらった方がきっといいと思うのでどうぞお気遣いなく。