神はそんなに簡単に現れない
神イベントとか神対応って言葉が好きじゃない。割と頻繁に使ってる人いるんだけどさ、神はそんなに簡単に現れないから神なんであってさ。
すごく楽しい
とか
すごく嬉しかった
とか
それでよくね?と思ってしまう。
そんなこと言って自分で使ってたりして~と思って自分のTwilog見てみたけど、ツイッター歴9年、それぞれ一度しか使っていなかった。馴染まないんだな、自分の中で、何かが。
神はそんなに簡単に現れないし、神はそんなに優しくない、と思う。
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なぜか人は神様は救ってくれると思っているけれど、無慈悲なのが神だと思う。
祈っても祈っても祈っても助けてくれはしない。
人事を尽くして天命を待つ、という言葉があるけれどやるだけのことやったらその結果は神様しか知らないんだからヤキモキすんな、ってことだろうと思う。どっちに転んでも天命、変えようがないんだ、と。
そう思ったきっかけは、2012年12月5日、十八代目中村勘三郎の逝去だ。
詳しいことは省くけれど、30代頭から40代半ばにかけて亡くなられるまでの12年を勘三郎さんのファンとして過ごしてきた。まあ、多少の自負をもって、可愛がられていた、と言っていいと思っている。何か個人的な付き合いがあったわけではない。中村屋ファンとして演劇ファンとして、私の言葉をとてもとても、それは大切に聴いてくださっていた、そういうことだ。
2012年夏の食道がんの報道のあとで放射線治療の隙間を縫って勘九郎さん、七之助さんが初主演した「天日坊」を見にお忍びでシアターコクーンにいらしていた勘三郎さんとばったりと遭ったときは人間、本当に驚いて腰を抜かすことってあるんだと知った。
すとん、と知らないうちに床に座り込んでいて、それを見て大きな大きな声で中村屋は大笑いした。
いつものあのカラカラと陽気な声だ。
その声を聴いて、あ、大丈夫だ、この人は癌には負けない、と思った。信じられた。
だから、術後きっと1ヶ月もすれば番頭さんかマネージャーさんから、元気だよ、とか、貴女の手紙読んでたよ、とかそんな知らせが入ると思ってた。
だが、入らない。こればかりは根掘り葉掘りも聴けないことなので、手紙を…Twitterで募ったファンの皆様からのメッセージや、歌舞伎のことや見た面白い舞台の話や、中村屋の舞台が恋しいというようなことを定期的に書いて渡していた…そっと渡すに留めていた。手紙に祈りを込めた。
出かけた先ではとにかく見かけた神社仏閣に寄っては祈った。
助けてください、と。
秋に週刊誌の重篤報道が出たあとも、毎日、毎日、誰でもない空の上の高次の誰かに祈った。
毎晩、風呂に入ってひとりきりになると止めようもなく泣けてくる。泣いてはいけないと思うのだが、11月半ばくらいにはもう恐らく、100%の復帰は無理だと頭でわかっていた。心は納得していなかったが、わかっていた。それでも、祈った。
神様、私の寿命でよければあげるから中村屋は戻してください。世界に必要なんです。まだ行ったら駄目なんです。
11/23、部屋の鴨居にかけてあった、十七代目の隈取が風もないのに落ちて、ガラスの額が割れた。
そのころ、夢を見た。真っ白なシャツを着た中村屋が、強い光の中、階段を登っていく夢。武道館で復帰公演をするんだよ、まだまだだけどさ、とはにかんだ笑顔に吉兆だとその時は信じたけれど、今、思うとあれはお別れだったような気がする。
12/4 、未明にたった一度、電話のベルがなった。
12/5、朝、ガラリと襖が開いて、母が「勘三郎、死んだってよ」と言ったとき、驚きより、あぁ、とうとうこの日が来たか、という気持ちのほうが大きかった。
神様は助けてはくれなかった。
日本中に何千といる中村屋ファンが、もっと多くの歌舞伎ファンがきっと半年間、神に仏に祈り続けたはずだ。
でも、神様は現れなかった。
むしろ自分のところへ連れて行ってしまった。
このあと、團十郎さんまで連れて行き、さらに三津五郎さんまで連れて行ってしまった。無慈悲この上ないな、神よ!
このときから、神を救い手として信じることをやめた。
土地を見守り、人を見守りはしてくれているかもしれないが、何か具体的に誰かを救うことはないのだ。
それでもやっぱり時折、辛いときには神様!と心に浮かんでしまうが、そこで思う「神」とは私達生きる人間が自分の力で乗り越えねばならないときに、心の支柱になるもの、自身の力を呼び起こすためのものに過ぎないのだと思う。
呪文のようなものだ。
今でもその土地々々の神様にはご挨拶はする。が、そこには願いや祈りはない。
長い年月、人々が信仰してきたもの、何か「想い」のようなものへの敬意に近いと思う。
そして、平穏に過ごせる感謝、自分自身へのより良く生きようという誓い。
今はそんな風に思っている。
神様というものを信じていないわけではない。神のような何か高次のものはいるようには感じている。こんなことってあるのか、というような出来事が世の中に時々起きることも知っている。
ただ、そんなに簡単には現れないし、思うようにはしてもくれない。無慈悲な存在だと知っているだけだ。
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そんなわけで、神対応だの神イベントだの、ずいぶん気楽に現れちゃってるけど、それってほんとに神かしらね、と割にシニカルに眺めている昨今である。便利な言い方だけどね。