生命の尊厳について考えよう
生命の尊厳。
現代の日本に産まれたならば、人格が成熟するにつれ、都鄙を問わず自然と身につけている謎の感覚。
これは単なる霊感だが、生命の尊厳とは、ホモ・サピエンスが性成熟する際、現代も古代も変わらず大いなる何者かに愛されてきたように、何者かから教わるようにして身につけてきた法(システム)のようなものなのかもしれない。
この視座に立つと、決して信仰が生命の尊厳を教えてきたわけではないことが理解されてくる。
内側から、まるで血液が新しく生まれてくるように、自然と湧き出てくる「自らを愛するように他を愛せ」という絶対的な強制の声。
人間は、自分よりも優れた絶対者(譬えるなら子どもにとっての大人)に強制されなければ、およそ「まとも」にはなれないのではないか?
少なくとも、内側からこだまする強制の声に耳を傾けない者の先に待っている未来がよい景色ではありえないだろうことは、啓示を受け取るように体感している。
そんな親と子の姿を思いながら、普遍的な道徳はないという道徳律を、強制してはならないという強制を繰り返す自己矛盾の徒(それは世俗諦ですらなく、部派仏教の時代の有自性論者のようなものだ)を眺めている。
生命の尊厳とは、単なる条文でも、壊れかけの社会を存続させるための建前でもない。
すべての生命から香り高く匂い立つその尊厳の最深部に隠されている白い蓮の華は、つまるところ人類誕生以来、常に利他的行動を可能にした霊性にほかならない。
俺はあなたの生命に、これまで過ごしてきた人生に、その向こう側にいる数億数兆の生命の積層に最敬礼をする。
◆
倫理とは読みくだすと「ともがらのことわり」である。かつての檀林において、仏典に向かう前の小中学生くらいの歳のあいだに四書五経を修めたように、現代においても勇気を奮って勝義諦に向かわんとする者は、まずこの程度の世俗諦は修めておきたいところである。
南無阿彌陀佛
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