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コンカフェヲタとかいうやつwww(後編)

「※前回の続き」

五、「コンカフェおたく」と社会性

1、「おたく」の社会性

 前回の記事では、辞書の理解を基に「おたく」乃至「オタク」について触れた。広辞苑では前段と後段部分に分かれており、前段部分は「世間との付合いに疎い人」という「おたく」の「社会性」(他者との関係)とも言える記述が見られた。そして、大塚英志の著書を参考に前段部分が「おたく」、後段部分が「オタク」に対応しているとの検討を加えた。
 かかる理解を前提とすると、後段部分の「オタク」ではその意味が抽象的に過ぎ、コンカフェに足繁く通っていれば、つまり、それなりに好きな人であれば「コンカフェオタク」となってしまい広きに失する。やはり、我々が本来呼称すべきは「オタク」ではなく「おたく」であろう。
 ここからはいくつかの批評から「おたく」なる者の特徴の一つ、「社会性」について取り上げてみたい。広辞苑が記載する「世間との付合いに疎い人」とは具体的にどういう人間を指すのであろうか。
 まず、「社会性」について触れている唐沢俊一と岡田斗司夫は、「おたく」(13)を以下のように定義する。
 唐沢は「社会と付き合っていくということを欲しないまでに何かにハマっている人たち」(14)、岡田は「趣味だけで社会や他者とコンタクトしようとしている人」(15)とする。
 両者は「おたく」の「社会性」を通常一般のそれとは異なる特殊な関係と捉えているが、これをより具体的に分析しているのが大澤真幸である。
 大澤は「おたく」の「社会性」を、他者を否定しつつも他者を求めるという逆説的態度に求める。即ち、一見矛盾するようにも見えるが、否定する他者とは自己と「差異化」された完全な他者であり、求める他者は自己との「差異」が希薄化した自己と類似的な他者であるとする(16)。
 理解のため極端な例を示すと、スクールカースト下位の「陰キャおたく」が完全に「差異化」された他者である上位の「ウェイ系リア充」との接触を避けつつも、コミケで自己と類似的な同士と交流する等であろうか。つまり、自己との「差異」が希薄化した内輪のみで連帯する態度である。
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唐沢俊一✖️岡田斗司夫『オタク論!』 創出版 2007及び後述する文献は「オタク」と表記するが、広辞苑の理解では後段の「おたく」であるので「おたく」と表記する。

(14)(15)
唐沢俊一✖️岡田斗司夫・前掲書 p126

(16)
大澤真幸「不可能性の時代」岩波新書 2008 p111〜114
 大澤はこのような逆説的態度のメカニズムを「マスコミ・ギョーカイ」からの転態とみる。大澤は北田暁大の著書「嗤う日本の『ナショナリズム』」を援用し、以下のように主張する。
 80年代のテレビのバラエティ番組のように「シロウト」を上から見下ろすような普遍的で超越的な視点をかつて「ギョーカイ」は有していたが、その信頼も今や失墜し、内輪ネタで盛り上がるだけの存在に成り果てている。その構造は2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)のように排他性のある内輪空間にも認められ、2ちゃんねるの過度とも言えるマスコミ批判は、社会全体を見渡す普遍的で超越的な視点を求める態度の逆転現象であるとする。
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2、眼差しの主体

 以上の大澤の「おたく」の社会性への理解を基にここからは「コンカフェ」と「おたく」を接続し、「コンカフェオタク」ではない「コンカフェおたく」なる概念が成立するのか考察する。
 そのためには、コンカフェ以前に存在していたメイドカフェ及びメイドさんが「おたく」にとっていかなる存在であるのか、つまり「おたく的要素」を分析する必要がある。これを検討することで「コンカフェ」と「おたく」との関係を把握する手掛かりになるだろう。
 社会化された領域において、一個人が完全に「差異化」された他者と出会うとき、対等な関係として、個人は「眼差す主体」であると同時に相手から「眼差される主体」でもある。
 ところが、美少女アニメやゲームに夢中になる男性のように、自らの世界に没入している「おたく」は「差異化」された他者を否認するため「眼差される主体」であるという事実をしばしば失念する。
 専ら男性に顕著であるが、この「眼差される」意識の欠如が「コミュニケーション不全」と自己の「外見無頓着」として表れ、非「おたく」の一般人との分断を生む契機ともなる。

3、おたくとメイドカフェ

 しかし、メイドカフェにおいては「ご主人様」はメイドさんを「眼差す」が、お給仕に勤しむメイドさんから「眼差され」ることは回避される。実際、メイドさんから「眼差され」ているとしてもメイドさんはそのことを「ご主人様」に感じさせないだろう。
 では何故メイドさんからの「眼差し」は回避される(回避されていると思っている)のだろうか。それは、メイドという設定や源氏名、衣装、内装、オムライスが美味しくなるおまじないのような約束事など店内の「記号化」が「差異化」の緩衝材として機能しているからであろう。
 男性「おたく」は「差異化」された他者である一般女性ーーー特に、若い女性ーーーからの突き刺さる視線をまともに受け取ることができないが、メイドさんであれば「差異化」された他者に対する社会性を発揮せずとも「眼差される主体」の回避によって心理的不安を感ずることなく「眼差す」ことができる。
 目を合わせて喋れない、黙ったままで会話のキャッチボールが成立しない、自分の好きなことばかり早口で捲し立てる等の「コミュニケーション不全」でもーーーそれが仕事であったとしてもーーーメイドさんは受け入れてくれるのである(17)。
 このように黎明期のメイドカフェは「おたく」が来訪しやすい空間であった。そのため、メイドカフェでは「おたく」がコミケ帰りに「戦利品」を持ち寄って同士で語り合うとき等に利用され、サロンのように自己に類似する者たちの憩いの場として機能していた。メイドさん自身も「おたく」である方が多く、男性「おたく」に理解を示していた。メイドさんはそうしたオタク同士のコミュニケーションを媒介する存在であった。
 メイドカフェは、かつて、「おたく」に配慮した「おたく的要素」を持つ営業形態であったと評価できるだろう。
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メイドさんとの他愛のない会話がコミュニケーション不全のご主人様にとってセラピーやリハビリのような機能を果たしているとしばしば指摘されるのもこうした理由によるだろう。
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4、まとめ

 しかし、かつてのメイドカフェのような店舗は昨今のコンカフェには無い。
 キャストとの対面でのコミュニケーションが集客のため重視される「キラキラ☆シャンパンタワー」的なコンカフェでは、ほぼガールズバー化しており、コンセプトも形骸化している。そのため、「記号」化による緩衝材機能やサロン的機能は後退し、キャストではなく「差異化」された他者、つまり、「中の人」が前傾化・先鋭化する。コンセプトすらないコンカフェが近年登場したのもその証左であろう(18)。
 このような店舗では、たとえキャストや他の客との間で「おたく的」な会話を行うとしても、客は「差異化」された他者に対する「社会性」を持った当事者として登場する必要がある。店側もなるべく多くの「おたく」に来店してもらおうととは考えていない。
 大澤の言う「差異化」の程度で他者を希求するのか否かを決める「おたく」の「社会性」を前提とすれば、「おたく」側にとっても来店する理由は乏しいであろう。
 それどころか、コンカフェのみならずメイドカフェも近年はコミュニケーションが重視され、緩衝材機能やサロン的要素は衰退の傾向にある(19)。「コミュニケーション不全」と「外見無頓着」という「おたく」の典型的な特徴は今のコンカフェやメイドカフェの客層にはあまり見られない。多くがまっとうな「社会性」を持ち、爽やかで小綺麗である。
 コンカフェでも客同士がおたく的な会話で連帯することがあり得るだろうが、これはコンセプトを介在しない客同士のコミュニケーション能力の高さによるものであって、緩衝材機能とは無関係である。
 ご主人同士が好きなことを語り合い、メイドはその手助けをするというサロン的メイドカフェの代表格のようなシャッツキステがコロナ禍の影響により惜しまれつつ閉店したことに象徴されるように「おたく的要素」を持つメイドカフェはもはや絶滅危惧種だろう。
 それでも、上述の緩衝材機能及びサロン的要素がある限り「メイドカフェおたく」が成立する余地がある。しかし、「社会性」という点だけを見れば、ガールズバーのようなコンカフェに通う客は「コンカフェオタク」であっても、「コンカフェおたく」ではないと結論づけることができるだろう。
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(18)
 ではなぜ、ガールズバー的なコンカフェが増えたのであろうか、実存的不安を要因とする承認欲求の高まり、人を「推す」ことによるアイデンティティの確保等理由はいくつもあるだろう。この点については別稿で論じたい。

(19)
森川嘉一郎「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ 増補版」 幻冬社文庫 2008 p266〜
 森川は、2000年中頃からメディアによって秋葉原及びその象徴であるメイドカフェがオタクの街として頻繁に取り上げられたことにより、メイドカフェに非オタクが出入りするようになったと言及している。
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六、「コンカフェおたく」と志向性

1、「おたく」と志向性

 ここまでおたくの「社会性」(他者との関係)について触れてきた。ここからは、「志向性」(自己との関係)から「コンカフェおたく」が観念できるか、検討したい。
 ここでも大澤の議論が参考になる。大澤は原初的な「おたく」について、部分的で特殊な領域に関心を寄せることで普遍的な世界の全体を写像している、とする。つまり、普遍性への志向が特殊性への志向として反転する(20)。
 この「志向性」とはどういうことか、「機動戦士ガンダム」の「宇宙世紀シリーズ」を例に分析してみよう。「宇宙世紀シリーズ」はそれぞれ固有の時代設定がある「アナザーガンダム」とは異なり、宇宙世紀という永続する歴史の中での物語である。
 通時的には時系列順にオリジン、ファースト、Z、ZZ、逆襲のシャア、UC、閃光のハサウェイ、F91等であり、共時的にはこれらと時間軸を共にする外伝等である。
 これらは全て同じ宇宙世紀内での物語という点で共通する。「おたく」は各シリーズ(特殊性)を視聴しながら広大かつ深遠な宇宙とその人類の歴史という普遍的な全体像を志向する(21)。
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大澤・前掲書 p92〜101
大塚英志の「物語消費」、東浩紀の「データベース消費」等のおたくの消費の在り方から着想を得ている。

(21)
 ガンダム以外にも、スターウォーズシリーズやウルトラマン、エヴァンゲリオン等普遍的な世界の物語は多数存在する。そもそも、大抵のマンガやアニメ、SFにはストーリーの背後にこのような普遍的な世界観が存するのであり、マンガ・アニメ・SFファンに「おたく」が多く認められるのもそうした理由からであろう。
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2、コンセプトにおける志向性

 宇宙や魔法の国、夢の国、近未来、メイドとお屋敷等コンセプトに応じた内装、衣装、店内ルール、これら「記号」による情報の断片は、その背後に普遍的な世界を写像できるような構造となっている。
 しかし、前述の通りコミュニケーション重視のコンカフェでは客はキャストに会うために通っているのであり、背後にある世界には関心がない。経営側もそのことは知悉しており、コンセプトで集客をしようとは考えていない。
 また、飲食重視のメイドカフェであってもわが国におけるメイドカフェはフリフリミニスカートに代表されるような「日本のメイドらしいメイドカフェ」が多数派であり、コンセプト自体が必然的に曖昧となる。そこから普遍性を志向することは困難であろう。
 とすれば、例外としてワンダーパーラーカフェのようにクラシカルの極北と称賛される店舗であれば普遍性への志向が可能ではないか。
 同店のメイドさんとのコミュニケーションは、彼女らの手が空いた時など僅かな間の外、入店時、オーダー時、飲食物提供時、会計時などの業務上必要な場合に限られている。そのため、ご主人様は必然的に内装などの要素に関心が行く。
 紅茶を飲む間、周囲に目を向けると、同店の内装やメイドさんのお給仕姿が見られる。その光景は歴史上実在したヴィクトリア朝時代におけるメイドとお屋敷を彷彿とさせる程見事なものである。さらに、「お出かけ」(退店)時にはメイドさんも外に出て、ご主人様の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けるというコンセプトの徹底ぶりである。
 こうした過剰とも言える徹底さは、当然「おたく」の興味を引きやすく、行ってみたいという欲望を喚起させる。「おたく」はコンセプトからかつてのヴィクトリア王朝時代の普遍的なお屋敷の日常世界を写像するだろう。他方、キャストとのコミュニケーション重視のオタクはこうした店舗は楽しめないであろう。
 同店はおたくの志向性を把握した営業形態となっており、「おたく的要素」の強いメイドカフェであると言えよう。ワンダーパーラーカフェという一例を挙げたが、このように明確なコンセプトを徹底している店舗であれば「おたく的要素」が認められよう。

3、アイロニカルな没入

 大澤はさらに議論を進める。このような「おたく」の強い普遍性への意欲が虚構と現実を等価なものと境位する。普遍性のある世界に外部があればもはや普遍性があるとは言えない。それゆえ、「おたく」は現実も様々な可能世界の一つに過ぎないと見做す。結果、本来優位なはずの現実と本来劣後するはずの虚構が等価値と認識する。
 このような認識のために「おたく」は現実に対して冷笑的(アイロニカル)になるという。
 他方、アイロニカルな意識に対して行動のレベルでは虚構に徹底して没入してもいる(アイロニカルな没入)。先述の「社会性」に見られた反転が「おたく」の意識と行動にも妥当する(22)。 
 このような「おたく」の「志向性」について大澤は、アイロニカルな意識に反して行動の面では虚構に没入する、つまり、「どうしてもやってしまう」と解いたが、これは無意味な現実よりもまだ虚構の方がマシだとする「おたく」の精神性に因る。
 これに対し、宮台真司はアイロニカルになることと没入する(どうしてもやってしまう=「脅迫」)こととは別物であると大澤の見解を批判する。宮台は虚構と現実が等価値になり、アイロニカルになることは大澤と同旨であるが(23)、どうしてもやってしまう(=「脅迫」)のは「自己のホメオスタシス」のためである。
 宮台によれば「アイロニカルな没入」とは、虚構であるとわかっていて敢えてやっているんだとしながらも脆弱した「自己のホメオスタシス」(自己の恒常性維持ないし自意識防衛)のために汗だくになっている姿であると言う(24)。
 例えば、アニメやゲームの美少女(虚構)に熱心になっている(没入している)非モテ男性が「やれやれ、これだから『現実』の女は」と呆れるような姿であろうか。恋愛に興味がない振りをし、余裕ぶってはいるものの、目が泳ぎ、汗だくになっている。そのような男性が現実の女は大したことないから美少女アニメの方が良い、「どうせあのブドウは酸っぱいに決まっている」と敢えて考える(ホメオスタシス)、そのようなイメージであろうか(25)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(22)
大澤・前掲書 p102〜103

(23)
宮台真司「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」幻冬社文庫 kindle版 2014
位置No.1451〜1491
 現実と虚構が機能的に等価となった背景には「ポストモダン」の影響がある。
 宮台は、マックス・ウェーバーやユルゲン・ハーバーマスの定義に倣い、近代化(モダン)を「計算可能性を与える手続きの一般化」とし、このような手続きによって支配された領域を「システム」、支配されない領域を「生活世界」と規定する。その上で、「生活世界を生きる我々が、便宜の為にシステムを利用している」という自己理解が、汎システム化によって、不可能になる社会をポストモダンであるとする。
 ポストモダンの下では、「汎システム化によって生活世界も生活世界を生きる我々も、結局のところシステムの生成物に過ぎないものとして意識されるようになる」。つまり、「選択前提も選択されたものに過ぎ」ない。「自由や主体性もシステムの生成物」であり、このことが現実に対してアイロニカルになり、虚構と機能的に等価となることに影響している。

(24)
宮台・前掲書 位置No.1437

(25)
宮台・前掲書 位置No.1428〜1436
宮台は、コミュニケーションの観点から「2ちゃんねる」(現5ちゃんねる)の「オマエモナー」という書き込みがまさに「自己のホメオスタシス」のために汗だくにっている姿であるという。
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4、メイドカフェ・コンカフェにおける没入

 先ほど、「おたく」が現実に対してアイロニカルになるのは普遍性への意欲が虚構と現実を等価なものと認識するためである旨述べた。
 コンセプトに没入しようとする場合、先ほど見たワンダーパーラーカフェのように普遍性を志向できるような徹底したコンセプト(虚構)があればこれに没入できることとなる。「おたく」は「所詮遊びだ」、「敢えてやっているんだ」と言いながらも、「この店はそこらのコンカフェ等とは違うのだ」と自己弁護(ホメオスタシス)しながら常連となるだろう。
 他方、キャストとのコミュニケーション重視のコンカフェでは客も経営サイドもコンセプトという虚構性に関心がないため、つまり、空間に現実しかないため、アイロニカルに没入することも無いだろう。
 では、「おたく」はコンセプトではなく、メイドさんやキャスト、つまり「人」に対してアイロニカルに没入するのであろうか。近年では「推し」という言葉が流行しているが、没入する前提として「推」される個人をもって普遍性を志向し得るのだろうか。
 「推し」と言う言葉はもともとはアイドルグループのメンバーに対して使用されていたようである(26)。アイドル=偶像と解されるようにかつてのアイドルはたいへん遠い存在であった。「推し」とは、文字通り他者に推薦できる人間であり、自己よりも上位に、つまりは通常人よりも「超越」した存在である。しばしば応援したくなる存在と呼ばれるのもそのためだ。その遠さゆえに、ファンはアイドルでない時の自然な姿を知ることはできない。そのため、「アイドルおたく」は限られた情報から勝手にアイドルの本来的な姿(例えば、清純な性格に違いない等)を想像し、これを内面化する。
 つまり、「アイドルおたく」はアイドルを対等な当事者と見做さず、「神格化」(虚構化)している。その上で、自己とアイドルとの普遍的な物語(神話)を措定する。
 メイドカフェ及びコンカフェにおいても、近頃は「推し」文化が広く浸透しているようである。
 アイドルと同列に論じられるのであれば、メイドカフェないしコンカフェ「おたく」は自ら神格化させた「推し」の情報の断片を通じて自己と「推し」との間の普遍的な世界の物語を写像していることとなる。
 管見の限り、店舗内という狭い空間と短時間に済まされるメイドやキャストとのコミュニケーション、SNSでの情報の受領等の特殊かつ部分的な体験及びその反復継続から、「推し」が持つ普遍的な世界ーーー日常、人格、趣味嗜好、価値観、主義主張、自己(私)との関係等ーーーを写像しているのではないか(そこが「おたく」が「キモイ」と言われる所以である。)(27)。
 以上、「おたく」は「人」ーーーメイドやキャストーーーに対して普遍性を志向しているとしよう。では、アイロニカルに没入することはできるか。コンセプトに没入するケースと異なりここにはより難解な問題がある。
 アニメやゲームの美少女は完全なる虚構なので分かりやすいが、メイドやキャストは現実の人間であるため虚構と現実の区別は曖昧になる。彼女らの存在がしばしば2.5次元と呼ばれるのはこうした理由に因る(28)。
 その曖昧な性質のため、現実の「中の人」はメイド、キャストという役を「演じて」いるのか、あるいはそれらで「遊んで」いるのかという難問が生じる(29)。
 いずれにしろ、客は何らかの役を演じていると意識してはいないだろう。服装からしてごく普通の私服か仕事帰りであればスーツや作業着等の客が殆どである。役を演じているわけではなく、コンセプトに応じたメイドやキャストと遊んでいると考えるのが自然であろう。
 身も蓋もないが、メイドやキャストが良くお給仕してくれるのはそれが労働だからである。しかし、当然「中の人」がいる。お給仕を終え、衣装を換えれば生身の女性(現実)である。「おたく」もそのことを知悉している。
 その上で、「おたく」は「自己のホメオスタシス」のために弁明する。「酸っぱいブドウ」のように正当化できる特別な理由が必要なのだ。「おたく」が拗らせていると言われる所以はここにある。
 メイドやキャストを現実の当事者とすれば自らも当事者として登場する必要がある。従って、心理的抵抗も強く、当然傷つく可能性が出てくる。そこで、これを回避するため「『遊び』であって本気ではない」とエクスキューズする必要があるという「おたく」のロジックが成立する。
 このようにして所詮遊びだ、あえてやってるんだと言いながら汗だくになっている「おたく」の姿が浮かび上がるのである。
 結論としては、メイドカフェやコンカフェにおいて、「おたく」は「推し」のメイドやキャストに対してアイロニカルに没入していると言えるだろう。
 もっとも、昨今のコミュニケーション重視のコンカフェでは、キャストが極めて3次元寄りであるため、客は対等な一当事者として現実の「中の人」と向き合っており、アイロニカルに没入しているのかという疑義も生じる(30)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(26)
wikipedia 「 推し」より。

(27)
私などは、行きつけのメイドカフェのメイドさんのキャラクターからありもしないメイドさん同士の百合展開などを想像してしまう。

(28)
本田透 「萌える男」 ちくま書房 2005   p18〜19
 本田はメイドカフェのような虚構(二次元)と現実(三次元)が入り混じった空間を「2.5次元空間」と呼んでいる。

(29)
やん・柴田紗弥佳・久我真樹・岸井大輔・たかとら・川原繁人・梅本克・生天目あかり・N橋ワタル 「メイドカフェ批評」
たかとら『二・五次元性をめぐって』 メイド喫茶データバンク 2013    p102〜105 
 たかとらは、本人が全面化するごっこ遊びと労働等の日常的なふるまいを区別し、前者を「振り・で遊ぶ」、後者を「振り・を企てる」としつつ、他方で、本人ではなく役が全面化する演技を「振り・を造形する」ことであるという西村清和の「遊びの現象学」(勁草書房 1989)の分類を援用し、メイドカフェにおいては、メイドの行為態様や店舗の性質からいずれが妥当するかを論じる。
 ここでは、メイドさんのチラシ配りやおまじないの場面では「メイド喫茶で働いていそうなメイド」の「振り・を造形し」(演技)ており、お給仕(調理や片付け、客との会話)中は日常の労働として「振り・を企て」ているとする。
 もっとも、メイドカフェでは店舗やメイド自身が設定したメイドキャラを演じながらお給仕していることが多々あり、この場合、「振り・を造形し」ている最中に「振り・を企て」ているという二重性が表出する。「振り・を企て」ることは「中の人」(本人)が全面化することであるから、この二重性はつまり、「振り・を造形して・遊んで」いることであると精緻に分析している。

(30)
 メイドやキャストはアニメよりも虚構性が希薄化しているため、アニメには起こらない「ガチ恋」(本気)という現象が生まれる。
 「ガチ恋」勢は、対象を2.5次元とは見ずに完全に三次元(現実)の女性と看做している。性愛は多分に社会性のある活動、即ち、極めて「現実」的な行為だからである。このとき、遊びであるがあえてやっている(虚構と現実の区別がついている)というアイロニーとこれを前提とするホメオスタシスは失われる。メイドカフェでもコンカフェでもアイドルでも当然禁止されている「本気」が叶わず傷つき、キレ散らかして出禁になるケースが稀にあるがこうした理由に因るところが大きい。
 他方で、2.5次元であると認識したまま対象に特別な関心を持ち続けるのであれば、それは「推し」と解釈できるだろう。
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七、おわりに

1、総括

 以上、メイドカフェ・コンカフェを通じて「おたく」や「オタク」について考察してきた。
 同志のような他者は求めるが完全なる他者(差異化された他者)を避けるという「おたく」の社会性からすれば、かつての黎明期に存在したメイドカフェやシャッツキステのように「おたく」にとって居心地の良いメイドカフェは現在ではほぼ消滅している。
 もし、このようなメイドカフェが復活すれば「おたく」は遊びであると認識しつつも何かと正当化する理由(ホメオスタシス)をつけて再び通うであろう。
 しかし、コンカフェに至ってはそもそも「おたく」が集まりやすい「おたく的要素」な営業は想定していない。
 また、「おたく」の特徴としてガンダムを例にしたように普遍性への志向が特殊性への志向として反転するという大澤の理解を「おたく」の特徴とすれば、先述のワンダーパーラーカフェのようなごく僅かな例外を除き、それを可能ならしめるメイドカフェ及びコンカフェは存在しないという現状である。
 もっとも、メイドやキャスト、即ち「人」に対しては普遍性への志向を想定できるのであり、「推し」のためにアイロニカルに没入している者は「おたく」と言ってよいかもしれない。
 以上を勘案すると、ただ足繁く通う人という程度の意味であれば「メイドカフェオタク」や「コンカフェオタク」を使用出来るだろう。また、これが世間的な理解である。
 他方、「推し」に没入していれば「コンカフェおたく」と言えるが、「ガチ恋」や「繋がり厨」はメイド・キャストを3次元と見做すためもはやそこに虚構性はなく、現実があるのみであって、アイロニカルに没入しているとは言い難い。

2、雑感

 岡田斗司夫は教養主義・知性主義的見地から
創作することを「おたく」の特徴ととらえている(31)。岡田によれば、かつての「おたく」は同人誌の作成やコンテンツの批評などの表現や自ら発起人となって声優を呼んでのイベントを主催する等の創作活動を積極的に行ってきたが、最近の「オタク」はグッズを集める等の消費行動のみであると憂慮する。
 初めに述べたように創作活動も「おたく」の特徴の一つなので「おたく」の必要条件ではない。しかし、あくまで個人的感覚だが、やはり何らかの表現をしてこそ「おたく」だろう。ただ消費するだけでは「おたく」ではない。何らかの創作活動をしてこそ「おたく」という岡田の見解に賛同したい。
 ただ、メイドカフェ・コンカフェではコミュニケーションと飲食という消費がメインである。そこでは何をどう表現すればよいのだろうか。メイドカフェに関する批評を書くというのも一つの手段であろうが、勿論それだけではないだろう。
 前記のように、確かにメイドカフェは、特に客にとってはごっこ遊びかもしれない。しかし、我々はメイドカフェの客として遊びながらも「粋でカッコいい」ご主人様という人格を演じること、これを表現とすることはできるのではないか。
 マンガやアニメの主人公になって空想するように「おたく」は空白の自我への仮想の自我への代入を得意とする。同じように各自の解釈で架空のご主人様を自ら設定することができるはずだ。「日本のメイドらしいメイド」があるなら「日本のご主人様らしいご主人様」を観念しても不自然ではなかろう。
 それゆえ、メイドカフェはただの遊びではなく、メイドさんと一緒にご主人様(客)も2・5次元の存在となり、理想の「ご主人様」の「振り・を造形して・遊」ぶ場所なのかも知れない。
 もし、そうであるならメイドさんと共に自らの役割を引き受け、お屋敷から「『誤』主人様」や入店について「『断』那様」と呼ばれないように粋なご主人様・旦那様を演じるというドラマツルギーがーーー新たな創造としてーーー可能となるだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(31)
唐沢俊一✖️岡田斗司夫・前掲書 p122〜123
岡田斗司夫 「オタク学入門」 太田出版 1996 p33〜49
等を参照した。
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