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日記705 信じることのはじまりにむかって

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9月18日(水)

菊地成孔さんと名越康文さんの対談をみる。かれこれ「vol.13」らしい。twitterで告知にふれて反射的にチケットを買った。過去にいちどだけ、ずいぶん前に参加した記憶がよみがえる。初期のころ。「そんなにやってるんだ」と、すこし驚く。好評なのだろう。なにしろおもしろい。

拡散的で開放的なおしゃべり。頭の中に広い空間をつくってくれる。芝刈り機でブンブン掃除してもらえるようなイメージ。視界がクリアになった。内容についてはふれない。なんとなくの印象だけを残しておきたい。

名越さんは最初から最後までひとりでたのしそう。「自分のたのしさに他人は関係ないね!」といわんばかりのストロングスタイル。安定してテンションが高い。高め安定。でも、ちゃんと会場の反応を気にするそぶりも忘れない。散逸しがちな話の流れも要所要所でもとにもどす。

たびたび足をバタつかせて大笑いする、そのお姿がとても印象的。こどもみたい。きっと、どんなシチュエーションでもいかなる関係であっても態度がさほど変わらないタイプのように思う(そうだといい)。

なんでもたのしめる。それが「こどもみたい」の個人的な定義。「こども」といっても、危うさはぜんぜんない。むしろ安心できる懐の深さ。こども心をおおきめの懐でぴょんぴょんあそばせているおとなだ。そんな精神性につられて、しぜんとこちらもたのしくなる。

菊地さんは、秋のよそおいだった。

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人混みで傘はささない。身動きがとれなくなるし、傘同士がなるべく接触せぬよう気をつかって神経がすりへる。濡れたほうがよほどラクだ。どしゃ降りだってかまわない。傘を閉じて早歩きで人混みをさっと抜ける。すると妙な爽快感をおぼえる。これはエスカレーターの行列を尻目に階段を軽快にのぼっていくときの感覚と似ている。

幼いころから、エスカレーターに乗らなかった。階段を選びたがる。物心ついてから現在までそう。親に奨励された記憶もない。生得的なのかな。この気質はなんだろう。みずからの足で移動できないと直感的に気持ちが悪いのだと思う。ムズムズする。

どこか「いち抜けたい」みたいな気分もある。抜け駆けしたい。エスカレーターより早く上に到着して、ひとりで待つ。そのほんのすこしのなんでもない時に息をつく。だれかと歩調をあわせることが苦手なのだろう。名前のあるなにかであらねばならない。協調性がないわけではないけれど……。性根がワンウェイにできている。

対談の帰り道、電車の中で父と鉢合わせた。まったくの偶然。わたしはよく端っこの車両に乗る。ホームに出たら、とりあえず遠いほうまでずんずん歩く癖がある。この日も端の、先頭車両。そこへ父も乗っていた。遺伝なのかもしれない。端の車両を好む血族。あまりに無益な遺伝情報。もしくは幼少期の刷り込みか。

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さいきん、ワイヤレスイヤホンをしている人が増えた。わたしはまだ線をブラブラさせている。ワイヤレスの登場により、イヤホンを装着する意識に段差が生まれた。いまはそれほどでもないが、徐々に線をぶら下げている人間は「古い」とされゆくのだろう。淘汰圧がかかる。

迫害を受けた古い人間の一部は依怙地になる。やがて過激派と化す者もあらわれ、スマートでいけ好かないワイヤレス勢へのカウンターとして、からだじゅうに線を巻きつける運動が始まる。しまいには亀甲縛りで街を練り歩くようになる。こちとら、がんじがらめじゃ。なにひとつスマートになんていかないんだよクソが。

たぶん、そんなところからあたらしい文化は派生する。カウンター・カルチャー。なにかをぐるぐる巻きつけるファッションが局所的に流行るのだ。T.M.Revolutionの「HOT LIMIT」みたいなイメージ。亀甲縛りブームがくるかもしれない。他にも「縛り」のバリエーションは古くから豊富にある。いわゆるひとつのクールジャパンである。自縄自縛ブーム。

何度も目にしたはずだが、「HOT LIMIT」のこの映像はいつ見てもあたらしい……。見るたびに自分の中でなにかが生まれる。新たな衝動が発生する。「ダイスケ的にもオールオッケー!」かつ「ほんものの恋をしま鮮花?」である。ノリ以外なんにもない。

死ぬ前に、たったいちどだけでいい。このくらいはっちゃけてみたい。海の上に星型のセットを組んで、あらんかぎりの風を身に受けるんだ。もちろんあの変な格好で。出すとこ出して。たわわに。友よ、答えは風に吹かれている。そう、ボブ・ディランのメッセージを真に受けた結果として「HOT LIMIT」はつくられたんだ。そうにちがいない。

「真に受ける」が重要に思う。自分は、なんでもまず対象との距離をつくろうとする癖があるから。間合いをはかることも忘れてはいけないが、ときには真に受けないといけない。打ちのめされないといけない。見る前に飛べ。

大真面目に「HOT LIMIT」を歌うんだ。ふざけたらしらけるだろう。どこまでもマジでガチだ。全員ぶっ殺すつもりの。ふざけてはいけない。真夏は不祥事もキミ次第である。お笑いぐさではない。サブいギャグなんかで涼みたくない。本気だ。本気の遊びだ。つまり、ほんものの恋だ。ひとりきりでも信じ切る。キミが泣くまで歌うのをやめない。いや泣いたってやめない。殴られてもやめない。なにがあってもやめない。気が済むまで、わからせてやるだけ。これがすなわち「やれ爽快っ」の意味内容である。わかったらとっとと「しま鮮花?」だ。むろん、奥のほうまで。乾く間もないほど。

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思考するためのコツは、複雑さを厭わないことかもしれない。行動するためのコツは逆に、単純さを厭わないこと。「真に受ける」とは、後者の「単純さを厭わないこと」にあたる。複雑性と単純性の両輪を感受し、発信できるといい。

いかに複雑な背景があろうと、いまここにあらわれている身体はありきたりな意識の断片に還元される。平たく見られる。事前のこころづもりはあまり用をなさない。しがみつけば筋肉の力みにつながるだけ。いいあんばいの「委ね方」を身につけたい。

自分しかいない、この身体の配置に身を委ねてみる。ほんとうに「自分しかいない」と、これを真芯で受け止める。個人的にそれは、死への思いに通じる。自分しかいない。そこからたぶん、信じるということがはじまるのだと思う。

日々に目を閉じ、ただ身体をあずける。
ひとりの人生を真に受ける。
たまには。
信じることのはじまりにむかって。







にゃん