「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。「田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」もそうだけれど、わたしはきわめて表層的な即物性に惹かれる傾向がある。人々の虚を突いて、やがて「そりゃそうだ」と、あきらめたように笑みがこぼれる、そんな表現。身もふたもなさ。深さ、よりも浅さ。そこで息づく明るさ。
「見たまんま」の、ぽかーんとした物言い。ペレックが定義する「生きること」は、とてもぽかーんとしており、まさにそこには広々とした空間がひらけている。どこで生きる、誰にでもあてはまる。同時に彼にしか、わたしにしか、その場所に存在するその人にしかあてはまらない、さまざまな空間にも思いが至る。「田原俊彦を~」と同様に、一般性と特殊性の交差点を抉り出している。なにより、可笑しいのがいい。
好きな本や作家を問われても、まるで浮かばなくて困ってしまうことが多い(だいたい悩んだすえに、漫☆画太郎とこたえる)。「特になし」が正直なところ。傾向はあっても、あまりなにかを偏愛するタイプではない。行き当たりばったりの「雑さ」が自分の弱みであり強みなのかもしれない。でも、ジョルジュ・ペレックの『さまざまな空間』という本は好きだと胸を張って言えそうだから、覚えておこう。
増補版を読み直して、思い出した記事がある。むかし自分が書いたもの。最初期のnoteに上げていた。noteというSNSが始まったのは2014年の4月~だから、約10年前。「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」をもじって忍ばせている。痔に悩んでいたとき書いた。勢いがあり、若さを感じる文章……。
はい。ふりかえると、散発的にせよ長いこと書きつづけている自分に驚く。一銭にもならない、やらなくてもいいことをやりつづけている。なんの因果か。
痔については、食生活と姿勢の改善で10年前よりだいぶよくなった(それでもたまにキレる)。継続的な野菜の摂取と骨盤の矯正が効いたように思う。
あと、排便のコツも覚えた。単にひり出すだけでは怪我をする。試行錯誤のすえ、たどりついた基本のフォームは、むかしのスキージャンパーが飛ぶ構え。ジャンプ中ではなく、飛ぶ寸前の構え。できるだけ膝を畳み、できるだけ上体を低くしてバンザイ。これである程度、うんこの引っ掛かりを防げる。バンザイは気合のポーズ。しなくてもいい。スキージャンプ同様、しないほうが安定するかもしれない。排便中、肛門を器用に動かすことも重要。ひらいたり閉じたり、お伺いを立てながら。
直腸から肛門にかけての感覚を通して、うんことのコミュニケーションを図らないとダメだということに、あるとき気がついた。肛門がキレキレだった頃は、そんなことまったく考えなかった。荒々しくワイルドに「出てけオラァ!」ぐらいのノリで日々のうんことおさらばしていた。うんことわたしとの仲は険悪だった。それでは、うんこもグレてしまう。
いまは仲直りして、やわらかい物腰で心配しながら「いってらっしゃい」と送り出す。別れを惜しむように。そうするとうんこもやさしく答えて、そっと水底へ旅立つ。流れる水の音は、もはや滂沱の涙のようである。わたしはいつも、涙の洪水を背にトイレから立ち去る。ハンカチを持って。
こうした細やかな感情の図らいこそが「生きること」の基本なのだと、うんこは教えてくれた。生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することであり、かつ、なるべくうんこを漏らさないように移動することであり、かつ、なるべくうんこと肛門を傷つけないように排便することなのである。
肛門が傷つくということは、うんこも傷ついているのだ。10年前のわたしは、自分のことしか考えていなかった。ただ闇雲に、わけもなくキレたり漏らしたりしていた。若さゆえの過ちである。さよならの仕方を覚えて、すこし大人になったのだと思う。