融通が利かない人
むかしむかし、ある村に、一直(いちなお)という潔癖な若者が住んでいました。一直は、物事はすべて決まった通りにすべきだと信じ、少しの変更も受け入れられませんでした。
毎日、同じ時間に起き、
同じ道を通り、
同じ順序で仕事をし、
同じ場所で食事をしました。
村人たちは最初、一直のことを窮屈に感じていましたが、やがて彼の中にある「確かなもの」を見出すようになっていきました。
一直が守る道は曲がっていないからこそ、
迷子の子どもが帰り道を見つけられ、
一直の時間は狂わないからこそ、
村人たちは約束の時を守れるようになり、
一直の几帳面な仕事は、
村の暮らしの確かな基準となっていったのです。
ある日、村の賢者が一直に言いました。
「融通が利かないことは、時として大切な信念となる。ただし、その信念が誰かの助けになるときに、本当の価値が生まれるのだよ」
後に一直はこう語りました。
「私の道は曲がりません。でも、その真っすぐな道が、誰かの道しるべになれるのなら、それは幸せなことです」
そして「真っすぐな道も、人を導く光となる」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2025年1月6日10時25分に書く無名人インタビュー986回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】
今回ご参加いただいたのは ダニエル さんです!
年齢:20代後半
性別:男
職業:元高校教員
現在:なので一言で言うと、自分の好き嫌いと自分の体の機能があんまり合っていないのかなと思います。
ミミハムココロ:
ダニエルさんは今、何をされている方でしょうか?
ダニエル:
今、直近で言うと実は職に就けていない状態でして。5月にちょっと体調崩してしまって、教員を失業状態になって。療養中という形になります。
ミミハムココロ:
5月に教員を辞めることになったきっかけというのは何なんでしょうか?
ダニエル:
感覚過敏のような症状が激しく出てしまって、往復の通勤の電車に乗っていても周りの乗客の声とか会話がすごく聞こえてきてしまうようになって。そういった1つ1つの感覚過敏でまともに通勤することも難しくなったので、退職という形になりました。
ミミハムココロ:
それは突然そうなったんですかね。
ダニエル:
もともと生まれつきそういう体質ではあるんですけども。元気な時は全然そういう面はなくて平気なんですけども、しんどくなってきてしまうと感覚過敏になって。そこからパニック障害のような形で動悸やめまいにも繋がってしまうことがあったので、通うことが難しくなりました。
ミミハムココロ:
その感覚過敏っていうのは、通勤する場面以外でも感じたんですかね。
ダニエル:
はい、ありました。職員室で勤務してたんですけど、職員室にいても他の先生方の物音であったり、他の先生がヒソヒソ話されてるような会話とかも全てキャッチしてしまって、業務に集中できないことがありました。
ミミハムココロ:
そういった状況になって、誰かに相談したりとかはありましたか。
ダニエル:
職場の数名の方には相談ができたのでしましたし、心療内科にも通ったので実際プロの先生にも見ていただいたんですけれども「とりあえず距離を置くしかない」っていうことになったので、辞めることからは逃れられなかった感じで。
ミミハムココロ:
一旦「休職」という形を取った時の気分としてはどうですか?
ダニエル:
休職した時は本当に…教員になることが夢でもあったので、自分からその夢を離してしまったっていうことで、挫折とか、すごく喪失感みたいな…「失ってしまった」っていう感じが強かったです。
ミミハムココロ:
教員というのは夢だったんですか?
ダニエル:
そうですね。大昔からっていうわけではないんですけれども、ある程度大人になってからは「教員になろう」と思っていたので。大学ぐらいからは意識していました。
ミミハムココロ:
5月っていうのは今年の5月ですかね。
ダニエル:
はい。
ミミハムココロ:
今でだいたい半年ぐらい経ったと思うんですけれども、挫折とかに関しての今の気分はどうですか?
ダニエル:
とりあえず7ヶ月ぐらい療養したことで体が良くなったので、体が良くなったことでメンタルも安定してきて、まあ「あの時は休むのが1番良かったんだ」って今では結構心から思えるようになったので。そこまでネガティブな感情は薄まりました。
ミミハムココロ:
今は何をして生活されていますか?
ダニエル:
今は失業保険をいただいてるのでそれで生活をしながら、noteの方を投稿すること頑張りながら、それで次4月以降はまた「非常勤」という形で教員を続けようとも思ってるので。もしかしたら他の業種になるかもしれませんが。日々それの応募であったり面接であったり、採用活動を頑張っています。
ミミハムココロ:
noteはいつぐらいから始めていたんですか?
ダニエル:
noteのアカウント自体は1年以上前から持っていたんですけど、ほぼ稼働していなかったので、私が作る側としては。本格的に私が記事を投稿するようになったのは、10月頃からだったと思います。
ミミハムココロ:
どうして急に見る側から投稿する側になろうと思ったんですかね。
ダニエル:
もともと「投稿したい」っていう気持ちがあったっていうのもあるんですけども、休職したことで時間もできて。私みたいにそういう感覚過敏であったり何かしらの障害のようなもので、本当は例えば「先生したいのに先生ができない」とか「他の仕事がしたいのに仕事ができない」っていうような同じ苦しみの方と共感し合いたい、分かち合いたいっていう気持ちがすごく強くなったので「この時間があるタイミングで1度本格的に自分の思いを世間に投稿してみよう」と思ってnoteを始めました。
ミミハムココロ:
どれくらいのペースで書かれてるんですか?
ダニエル:
多い週と少ない週とあるんですけど、週に3、4本ペースです。
ミミハムココロ:
書いている内容というのは。
ダニエル:
私自身が実は10歳の時から発達障害の気質と向き合ってきたので、自分の障害と向き合った体験談であったり。あとは、教員時代に逆に障害を持ってる生徒さんの対応もしていたので、教員としての立場であったりっていうことを書いています。
ミミハムココロ:
実際にnoteを書く側になって数ヶ月経って、どうですか?
ダニエル:
今ではフォロワーさんがありがたいことに250名を超えたんですけれど、初めは正直フォロワーさんが2桁になる未来も見えなかったといいますか、本当にいち無名の障害を持った人っていうだけで始めることに「これは果たして読んでもらえるのだろうか」っていうことからまず始まったんですけど、それだけその250名を超える方が登録して読んでくださってるっていうことにすごく嬉しさがあります。
ミミハムココロ:
自分の整理のためにというよりは、どちらかというと「誰かに届けたい」っていう方が強いんですかね。
ダニエル:
そうですね、自分の整理のためっていう目的もすごく強いんですけど、それでいてなかなか現実世界で自分と同じようなタイプの、例えば「教員で、発達障害で」とかっていう人と出会えるチャンスが少なかったので。自分がこうやって発信することで自分と同じようなタイプの方と出会ってみたい、っていうような思いもありました。
ミミハムココロ:
noteを通じてそういった方と繋がったなみたいなのはありますか?
ダニエル:
そうですね、コメントをしてくださる方とかも増えてきましたし、頻繁にしてくださる方もいらっしゃるので。逆にそちらの方の投稿を見させていただくと「悩みポイントみたいなものはすごく自分と似ているな」と。実社会で生きながら、何かしら過敏であったりちょっと繊細だったりっていうとこでもがかれてる方が多いので、出会うことは既にできてると思います。
ミミハムココロ:
「大学の頃から教員になるのが夢」とおっしゃってたんですけれど、これはどうして?
ダニエル:
もともと10歳の時に登校拒否で発達障害が明らかになるんですけども、その登校拒否ということで学校の先生方にはすごくお手間をかけまして。ただその時、親身に相談に乗ってくださったりサポートしてくださってる先生方に憧れて「教員になりたい」っていうのは小さい頃から思ってたんですけども。まあでも「登校拒否の自分に先生になりたいって語れる権利が無いな」とか思ってずっと口をつぐんでましたが、大学時代から色々と自分も元気になってた時があったので。サークル活動とかアルバイトを通して自信もついて、今なら教員になりたいって言っても恥ずかしくないかなって思えたっていうのが大きいです。
ミミハムココロ:
5月を機に休職されたじゃないですか。でも、教員をもう1度目指そうと思ってる今の理由は何ですかね?
ダニエル:
色んな業種のお仕事がある中で「教員」にこだわる理由としては、私の特性的な凸凹、能力の凸凹を考えた時に別に手先があまり得意ではないですし、パソコンのタイピングが得意でもないんですけれども…人に要点を伝えるっていうことは自分で特技だと思ってますし、人と感情を交わすっていうことも特技だと思っているので「それを1番ピンポイントに週3日とか限られた日でもできれば1番自分の能力が活かせるのではないか」という思いで、挫折したものではあるんですけれどももう1度復帰を考えています。
ミミハムココロ:
「要点を伝えるのがわりと向いてるな」と思うようになったきっかけはありますか?
ダニエル:
些細なことになるんですけれども…アルバイトで塾講師をしていた時の周囲からの評価であったりっていうのももちろんあるんですけれど。家族と、例えばパソコンが苦手な祖父や祖母に対してパソコンの操作を教えるっていうような時に、スマホの操作を教えるっていうような時でも、家族の他のメンバーよりもすごく…私が説明した方が自分で言うのもなんですけれども、祖父や祖母が操作が早くできるようになるっていうのがなんか家族間の認識としてあるので、要点を伝えるのが得意ではないかなと思っています。
ミミハムココロ:
今ですね、もう1回非常勤になるために色々と動いたり、noteを書いたりしてると思うんですけれども。それ以外の時間で何かやってることとかありますか?
ダニエル:
そうですね…贅沢な話だと思うんですけど、療養中ということでゆっくりさせてもらってるので、散歩とかそういう時間をたっぷり取りながら。あとは家族の分の料理をしたりとか簡単に掃除をしたりとか、できるだけ体を動かすようにして療養という形に努めています。
ミミハムココロ:
「1番よく話をするな~」という相手は誰を思い浮かべますか?
ダニエル:
2人浮かぶんですけれども、1人はまあ身内の母親でして、同居なのでっていうのがあるんですけど。もう1人は教員時代の同僚で、友人として関わってくれてる人が浮かびます。
ミミハムココロ:
今ご家族は何人で暮らされてるんですか?
ダニエル:
両親と3人です。
ミミハムココロ:
その中でお母さんの方が話しやすいのは何か理由があるんですかね。
ダニエル:
そうですね、私があんまり目的無しで会話を楽しみたいタイプといいますか、例えば就職活動の話にしても「どこを受けるからどういう準備が必要」とかそういう実務的な話だけではなくって、何となく井戸端会議みたいなことを楽しむタイプでして。母も比較的そういう性格だと思うので、そこが気が合うのだと思います。
ミミハムココロ:
もう1人の教員時代のご友人というのは、どうして「その方とならよく話すな〜」みたいなのがあるんですか?
ダニエル:
その先生に関しては、私が比較的その障害を持ってることであったり感覚が過敏で苦しんだりっていうことを、なぜ話せたのかはちょっといまいち分からないんですけれども比較的打ち明けてきたので、隠し事一切なしで現状を共有できるっていうところで。会う頻度としてはそこまで多くないんですけれども、SNS等でやり取りがあります。
ミミハムココロ:
料理は元々できる方だったんですか?
ダニエル:
料理は元々嫌いではないっていうぐらいの感覚だったんですけれども、それこそアプリとかを見ながらだったら全然作れるっていうそれぐらいのレベルでした。
ミミハムココロ:
教員の生活の中で、印象に残ってることなどはありますか?
ダニエル:
そうですね…いろんな経験があるんですけれども、今パッとそれで思い浮かんだのは、どちらかというと良い思い出っていうよりも辛い思い出でして。自分が担任していた生徒さんが非行のようなことをしてしまっただとか、自分の担当してた生徒さんがうまくいかずに自主退学という形になってしまっただとか。どちらかと言うと「自分がしっかりもう少しサポートをできればよかったのに」っていうようなことの方が印象に残っています。
ミミハムココロ:
「もう少しサポートできたな」みたいな部分は感じるんですか?
ダニエル:
そうですね、もちろん今でも「じゃあもう1度やり直すとしてどういうサポートができたか」と言われると難しいんですけれども、もっと保護者の方と連携して「私からこういうふうに厳しく言いますので、ご家庭でサポートしてあげてください」とかご両親ともっと連携をしながらであればもう少し卒業まで導いてあげることができたんじゃないかなとか、非行に走らすことが済ませれたんじゃないのかなとかと思うことはあります。
ミミハムココロ:
楽しかった思い出も思い出せたとはおっしゃっていたので、今どういうことが思い出されました?
ダニエル:
私ずっと高校生を担当してたんですけれども、高校生ってすごく大人っぽいところもあるので、生徒と先生ではなくて1対1の人間でお話できることがいっぱいありまして。生徒に例えば「今週よく頑張ったからゆっくり休んでね」っていうのと、生徒の方が「先生も今週大変だと思うからゆっくり休んでくださいね」とか、何かそういう会話のキャッチボールみたいなことを仕事ではあるんですけれども楽しませてくれたっていうのはすごくいいと思いなと思っています。
ミミハムココロ:
好きな場所とかはありますか?
ダニエル:
家とかも好きなんですけれども、どちらかというと外に出るのが好きでして。関西圏で暮らしているので、どちらかと言うと感覚過敏と相反するんですけれども歓楽街みたいな、例えば「梅田」とかそういうようなところが好きです。
ミミハムココロ:
今ご自身で「感覚過敏と反する」と言っていたんですけれども、あえてそういう場所に行かれるのはどうしてだと思いますか?
ダニエル:
元々は多分ワイワイみんなで、飲み会とかもすごく好きな人間なので元気な時はワイワイするのが好きなタイプなのか、それともワイワイしてる自分が好きなのかっていう、どちらかだと思うんですけれども。それで街中の賑やかなところとかに行くのが好きっていうところがありまして。ただ、自分の好き嫌いとは別に自分の体質といいますか特性として、あまりそういう所に行きすぎると音とかが気になって疲れてしまうっていうところがあって。なので一言で言うと、自分の好き嫌いと自分の体の機能があんまり合っていないのかなと思います。
過去:私がそのカラオケで歌ってた時も「今頃、中学生の子たちの中には絶望に浸ってる人もいるだろうな」っていう気持ちがあったので、自分の過去のように。
ミミハムココロ:
今自分で振り返って、自分ってどんな子どもだったと思いますか?
ダニエル:
障害を抱えていることでこだわりとかも強かったんですけど、その反面、一言で言うとどこにでもいる子どもだったなと思います。みんなと同じぐらい好きなアニメとか好きな遊びとかが普通の幼稚園にいるような子だったので、どこにでもいる子かなと思います。
ミミハムココロ:
何をしている時が好きでしたか?
ダニエル:
小さい時は電車がすごく好きだったので、週末とかに両親に電車に乗せてもらってる時が楽しかったです。
ミミハムココロ:
電車はどういう部分が好きだったんでしょうかね。
ダニエル:
自分でも分からないんですけど、写真を…興味が無かったのは写真を撮るとか、構造的な「この車両はこういう車両で」とかっていうことにはあんまり興味がなかったんですけれども。ただ、今思えば移動することが楽しかったのか旅行が好きだったのか分かんないんですけども、とにかく乗ってるっていうことが、景色をボーっと眺めてるのが好きっていうような子どもだったと思います。
ミミハムココロ:
小学校6年生ぐらいまでをひと区切りとして、どういった生活でしたか?
ダニエル:
すごく両親には手をかけさせる子どもだったと思います。まず体が弱くて風邪とかも引きがちだったっていうことに加えてこだわりが強かったので。何かと発達障害の精神科も含めて通院が多かったりしたので、先生方や両親にすごく手をかけさせて育ったと思います。
ミミハムココロ:
「手をかけさせて育った」というのは、当時からそういうことを思っていたんですか?
ダニエル:
そうですね。小学校6年生だったと思うんですけど、その時にどうしても毎日「不安障害」、「パニック障害」のような動悸やめまいのせいで朝スムーズに登校できない時がありまして、毎朝のように隣駅にある小児科に通ってから、本当に毎日学校に帰っていた時があって。母がそれに連れ添ってくれるんですけども、その時は小学生ながらに…やはり毎朝母が隣の駅の小児科まで連れてきてくれて、お金も払ってくれて、小学校まで遅刻なので送ってくれてっていうところで「申し訳ないな」っていう気持ちは子どもの時からありました。
ミミハムココロ:
そういった思いというのは、ご両親であったり他の方に話したことはありますか?
ダニエル:
確か母が誕生日の日もそういう形で病院に行ってから登校したんですけども、その日に「お母さんの誕生日やのにごめんね」みたいなことを言ったっていうのがすごく今でも語り…語り継がれるっていうのも変ですけど言われることがありまして。ちょこちょことしたタイミングでそういうお礼とかお詫びは伝えていました。
ミミハムココロ:
次、中学校振り返ってどういった生活でしたか?
ダニエル:
中学校は、これは本当に1番人生でも辛かった時代でして。結論から言うと、ほとんど教室にいなかった3年間でして。中学校の別室のソファーでずっと、もう体も心もしんどくてずっと横になっていたのがほとんどだったので。よく「冬眠の3年間」って自分たちでは言ってるんですけども、本当にずっと寝ていた感じでした。
ミミハムココロ:
その別室で過ごされている間っていうのは、寝ている以外には何かされてましたか?
ダニエル:
一応自習課題とかも持っていってやってたんですけども、本当にまず朝8時半ぐらいに学校に行ったら別室を開けてもらって、そこから夜も普通に寝てたんですけど、12時半ぐらいまで4時間ぐらいずっと寝っぱなしっていう形で。お昼に起きてお昼ご飯を食べて、そこでもう1時ぐらいで早退で帰るという形だったので、ほとんど寝てしかいない学校生活でした。
ミミハムココロ:
その時はどういったことを考えていましたか?
ダニエル:
そうですね…まず中学校までって義務教育なので地域で何とかしてもらえると思うんですけど、中学生でもやっぱり「高校からはこんなことしてたら単位も取れないし」とかっていう、そういう不安もありましたので。「自分は高校に行けるのだろうか」とか「高校に行って卒業できるのだろうか」とか「自分に合う高校ってどこなのかな」っていうことは漠然と不安に思っていました。
ミミハムココロ:
そういった不安を話す相手とかはいましたか?
ダニエル:
まず担任の先生にはすごく恵まれたのでサポートはしてくださってましたし、両親も優しかったんですけど、中学生の時の私は自分の心の中の不安みたいなものをストレートに言葉にして伝える力が無かったので、1人で結構悶々としてることの方が多かったと思います。
ミミハムココロ:
中学校の時は何か好きだったものとかはありますか?
ダニエル:
具体的に何かを推してたりは無かったと思うんですけど、両親の親、祖父母の家が通える範囲内にあったのでそこに週末になる度に行ってリフレッシュさせてもらってました。
ミミハムココロ:
その後は高校に行かれたんですか?
ダニエル:
はい。通信制高校に進学しました。
ミミハムココロ:
そこでの生活は振り返ってどうでしたか?
ダニエル:
もう一気に好転したって形でして、事態が。プレッシャーのようなものであったり、なんか周りの視線みたいなものが、中学の時に圧迫感を感じたものが全部無くなったので。通信制高校ではすごく生き生きと生活をしまして。高校もほんと休むこともほとんど無かったですし、課題もしっかり提出できてましたし、進路に向けて受験勉強とかもしながら友人付き合いもあったので、一気に楽しい3年間が来たなと思います。
ミミハムココロ:
中学校時代は友人付き合いというのはどうでしたか?
ダニエル:
小学校から上がるメンバーもいるので仲の良いメンバーもいたんですけれども、いかんせん私がずっと別室にこもりっぱなしとかだったので、ほとんど無いに等しかったかなと思います。
ミミハムココロ:
高校で出会ったご友人とはどういったことをすることが多かったですか?
ダニエル:
比較的その学校も街中にあったので終わってから学校帰りにカラオケに行くとか、何人かでプリクラを撮りに行くとか。そういう本当に高校1、2年生ぐらいの時は、中学生の時には考えられなかったような「外に出て楽しむ」っていう生活をしていました。
ミミハムココロ:
中学校の頃と一気に生活が変わったように思うんですけれども、高校の例えばカラオケしてる時とかの気分はどうでしたか?
ダニエル:
その頃から自分の後輩たちに、何て言いますか…「事態が好転することを早く伝えたいな」みたいな気持ちはありまして。私が中学のやっぱり不登校の3年間の時に絶望的で「このままだったら友達もいないし行くところも無い」っていう気持ちだったので。私がそのカラオケで歌ってた時も「今頃、中学生の子たちの中には絶望に浸ってる人もいるだろうな」っていう気持ちがあったので、自分の過去のように。そういう子たちに対して、何かその保護者の方に対して「こんだけ行く先を変えれば、楽しくなることもあるんですよ」っていうことを伝えたくて。実際、それで通信制高校にいた時はオープンキャンパスのスタッフとかも結構務めて、訪れてくれた中学生や保護者の方に学校の魅力を伝えることがありました。
ミミハムココロ:
ご友人と遊ぶ以外に、何かその時にハマっていたものとかはありますか?
ダニエル:
その頃ぐらいからすごくプロ野球に、今も好きなんですけれども観戦にハマりまして。具体的に球場に足を運んだりすることが、友達と行ったりだとかたまに1人で行ったりだとかっていうこともありました。
ミミハムココロ:
その後、大学には行かれたんですかね。
ダニエル:
はい、進学しました。高校3年生の時にすごく受験勉強に専念しまして、結果的に指定校推薦で進学するんですけれども、大学には進学できました。
ミミハムココロ:
大学選びの際に、何を基準に選ばれたんですかね。
ダニエル:1つは「立地」っていうところを意識しまして。私は住んで育った場所はnoteにも書いている通り、神戸にずっといて。「神戸の大学は逆に嫌だ」って思うところがありまして。小、中学生時代の自分がしんどかった時期を知ってる人と出会う可能性が少なからずあるなと思ったので、あえて全然違う地域に行ってみたいなと。でも遠くに行きすぎると、下宿して家に帰れるのが年に何回かだけとかになるのもやはり両親と考えた結果不安だったので。ギリギリのラインを行こうということで関西圏で神戸の外に通いました。
ミミハムココロ:
大学生活は振り返ってどうでしたか?
ダニエル:
大学生活も高校と一緒ですごく良い生活が基本的には続きまして、「これが大学とか大人の楽しい生活なのか」っていうのを教えてもらった感じでして。本当に飲み会とかコンパとか、ひたすら夜な夜な歓楽街を飲み歩いてっていうような生活を結構早くから経験したので、浮き足だったぐらいに毎日楽しく過ごしていたと思います。
ミミハムココロ:
教員を目指された時期というのが大学の頃と聞いたんですけれども、これは入学当初からですか?
ダニエル:
いや、その時点ではなりたいなと思いつつ教員になるのはすごくやはり大変なので、勉強の数が単位の数が増えたりとか大変なので、1回ちょっと躊躇してしまいまして。22歳で卒業するまでの間に資格を取りきれてないんですけども、実は。ただその頃から、いずれ教員をまたどうしてもやりたくなれば通信制大学とかでも取れるので取り直せばいいや、ぐらいの形でちょっと保留にした感じになります。
ミミハムココロ:
大学では、何か団体とかサークルに所属はされましたか?
ダニエル:
はい。4年間合唱団に所属して、コーラスをずっとしていました。そこでも比較的その役職、役員とかも多く就きまして。でも繋がりのあるメンバーと出会って、一緒に毎日楽しい充実した生活でした。
ミミハムココロ:
これ何でコーラスを選ばれたんですかね。
ダニエル:
やったこともなかったですし、楽譜が読めるかどうかもあやしかったんですけども。新入生勧誘の時期に先輩に引っかかったと言いますか、そこでもてなしてもらってご飯をご馳走になるとかっていう時に「今更断るのもな」という空気になって、そのまま入ってみると楽しかったっていう感じで。
ミミハムココロ:
楽しかったというのは、コーラスの部員の方々との交流が楽しかったのか、コーラス活動自体が楽しかったのか。
ダニエル:
それはどちらも本当にそうでして。友人とも今でも会うぐらい繋がりがありますけども、コーラスも私も卒業した後も何度か社会人の団体に所属したことがあるぐらいハマりましたし。今でも、今は歌ってないんですけれど聞きに行くのも好きですし、音楽も今では両手でピアノが弾けるようになったので一気に好きになったと、音楽自体も好きになりました。
ミミハムココロ:
大学卒業後はどうされたんですか?
ダニエル:
そうですね…教員免許も取っていない状況で「就職どうしようか」とかって思ったんですけども。ちょっとその疲れが、高校大学で溜まってうつ病っぽくなってしまったので、それで元来の発達障害の気質のこともあるので、ゆっくりまずは仕事をドンと構えて探そうということで地元の就労移行支援所に入りまして。就労移行支援場から「クローズ」っていう障害を公表しない形で塾講師になりまして、塾講師をしながらもう一度教員免許を通信制課程の大学で取り直して教員になったという流れで。
ミミハムココロ:
塾講師をそのまま続けなかったのはどうしてですかね。
ダニエル:
塾講師はすごく、これもやりがいがありましたし人気みたいなものも結構取れてたんですけれども、塾ってやっぱり科目を教えるだけの仕事というところがありまして。塾で生徒と関われば関わるほど「もっと普段の生活指導とかもしてみたいな」と思って、学校の先生をやっぱりやってみたいなと思いました。
ミミハムココロ:
今までで「これまだ話せてないな」みたいな話はありますか?
ダニエル:
今までで…いえ、満遍なく全体的にお話させていただいてると思います。
未来:なんかそういう言葉を聞いても、すごく家のことを思って、「この家を何とかしてくれ」っていうのをすごく思ってたんだなって今になって感じるので、偉大さと私の苗字を継承したいなっていう気持ちがすごくあります。
ミミハムココロ:
今からですね、大体5年後とか10年後もっと先に20年後とかを想像して最後死ぬまでを想像していただいてですね、未来ってどうなってると思いますか?
ダニエル:
そうですね、私が自分で考える自分の未来はすごく不安なものしかないので、そういう元々障害を抱えてたり若干鬱チックな傾向があるっていうところで…将来っていうと「病気になっていないかな」とか「うつ病で病んでないかな」っていう、そういう悲観的な未来の方が圧倒的に勝つんですけれども。ただそういう中で、自分が今まで歩んできたちょっと特殊な経歴、発達障害の障害者手帳を持ちながら、教員免許状を持って教壇に立ってっていうことをもっとnoteであったり、もっと言うと書籍であったり講演会のような形で世に伝えられる存在になっていればすごく嬉しいなと思います。
ミミハムココロ:
自分の事態が好転するっていうこともしくは自分の経験を誰かに伝えたい、っておっしゃってるじゃないですか。じゃあもしもですね…教員以外の方法で、教員にならないという世界線がもしこの先あったとしたらどうやってそれを伝えていこうかなと思いますか?
ダニエル:
私は今のところ二足のわらじで今後生きていきたいなと思ってまして。どういうことかっていうと、1足は他の仕事でも何でもいいんですけども、自分の力で社会で働いてる足、教壇でも事務職でも他の仕事でも自分でしっかりと他の同僚の方とか取引先の方とか生徒さんと関係を築いて収入を自分の分はしっかり得るっていう足と、2足目がそれこそnoteも含めてそうなんですけれども、自分から体験談を発信していくっていうことで。実は、昔の就労移行支援所の方とも話して、そういう講演のような場をセッティングできないかっていうことも今ちょっと調整していただいてるところとかでもありまして。何かしらボランティアの形でもちろんいいので、何かしら自分の体験であったり、自分が得たものを話せる場を作りたいなと思っています。
ミミハムココロ:
ご自身の今の感覚過敏であったり障害というものは、この先どうなっていくだろうと思いますか?
ダニエル:
そうですね、これも自分で考えると悲観的な方しか思いつかないので、やっぱりまた次就職しても疲れが溜まったら感覚過敏で途中から続けられなくなってしまうんじゃないのかなとかっていう悲観的なものがよぎるのは本音なんですけれども。ただ、それだけを言っててもやっぱり前に進めないので、色々と今、主治医の先生であったり両親と話もする中で、何度も何度も今まで同じ過ちも繰り返してるので。だからこそ今度こそは対応策を練ってじゃないですけども、感覚過敏っていう治せないものがあったとしても、障害という治せないものがあったとしても、それとの向き合い方を鍛えていくことで今までと同じ結末にはならないといいますか。感覚過敏には悩まされたとしても、うまく自分で例えば「瞑想の時間を取る」とか、そういうことをして立ち直れるんじゃないのかなっていう希望は思っています。
ミミハムココロ:
「これをやらないと死ねないな」みたいな、そういったことは何かありますか?
ダニエル:
そうですね、名前…「やってきたことを残す」っていうとちょっと違うかもしれないんですけれども、なんか私が今のところ自分に子どもができるとか子どもを作るとかっていう未来がすごく想像できない状態でして。ただ私は、もともと祖父からすごく「我が家の跡継ぎだ」っていうのをすごく言われてきてまして。実際祖父の偉大さであったり、自分の家の良さみたいなものも次にバトンタッチしたいなとは思ってるんですけども、いかんせん現段階では結婚して子どもができるっていうところはすごく想像ができないので。せめて子孫を残せない分だけでも、何かしら例えば書籍化とか講演会をどなたかに聞いていただくとかいう事をして、祖父から自分が受け継いできたものをどこかに残したいなっていう、それをしてから死にたいなっていうのはあります。
ミミハムココロ:
もちろん言える範囲でいいんですけれども、どうして「祖父は偉大だな」と思うんですか?
ダニエル:
祖父は戦前生まれになるんですけれども、その戦争の混乱の時代を生きた上で…それは多くの方がその時代はそうだったと思うんですけども。長男だったっていうことと、早くにして祖父が祖父の父を亡くしているので、もう私が高校生でカラオケに行ってたぐらいの年齢の時には一家の跡継ぎとしてすごく働いて回った上で、勉強家でもあったと聞きますし。実際にそれで職業柄、今でいうエンジニアだったんですけれども40歳ぐらいの時から、西ドイツと東ドイツと呼ばれてた時代からそのような欧米の国をすごく回って活動していたということも聞きまして。生い立ちの面から家を引っ張ったというところから仕事のことから、全てにおいて「自分には真似ができないな」と思うので。身内なんですけど、すごいなと思ってます。
ミミハムココロ:
いつ頃からそういうふうに「すごいな」と思い始めたんですか?
ダニエル:
実は私が中学校3年生の絶望の時に実はもう亡くなってまして、祖父は。で、そこまでの生きてた時代っていうのは私もそんな祖父がすごい、おじいちゃんがすごいって思うほど成長してなかったのであまりこう思うことは無かったんですけども。後々になって、身内話で「おじいちゃんってこんな人やったよね」とかってなった時に、やっぱり1人で欧米に行って、それをヨーロッパに行ってしていたとか、1人で十何歳から家を継いだとかっていうのはすごいなと思うようになりましたし。
ちょっと話は逸れるんですけども、私、祖父が亡くなる2時間ぐらい前にたまたま家に行ってて握手をしてまして。私が握手をして、私が家をあとにした2時間後ぐらいに急に倒れて亡くなったんですけれども。たまたま私の去り際に「あんたが一番頼りになるんや、元気でな」っていう言葉を残してくれまして。その時はまさか倒れるとも思わなかったんで「何を言ってるんだ」ってみんな思ったんですけれども。なんかそういう言葉を聞いても、すごく家のことを思って、「この家を何とかしてくれ」っていうのをすごく思ってたんだなって今になって感じるので、偉大さと私の苗字を継承したいなっていう気持ちがすごくあります。
ミミハムココロ:
ここに行ってみたいなって場所は今ありますか?
ダニエル:
小さい範囲で言うと、今プロ野球がオフシーズンなので早く開幕してくれて球場に行きたいなっていうのが1つと。あともう1つ言うと、亡き祖父は海外に行くことをすごく仕事にしていて、孫たちにも「海外に行きなさい」と言っていたので。私が大学時代勉強していた中国に行ってみたいなっていう気持ちがあります。
ミミハムココロ:
中国の勉強はどうして始められたんですか?
ダニエル:
歴史が大好きで、それで歴史に関する大学の学部に入ったんですけども。もともと世界のこととかよく知らなくて、日本史しかしてなかったんですけども。もう1人の、もう片方の祖父が「これからの時代は中国とかアジアだ」っていうことで、「日本のことだけじゃなくて世界に目を向けるべきだ」って言われたので、日本と中国の結びつきみたいなことをすごく学ぶようになりました。
ミミハムココロ:
どうですか、中国はいつか行けそうですか?
ダニエル:
そうですね、まずそれをモチベーションにして…どう頑張ってもいけない場所ではないと思うので、それをモチベーションに健康の維持とお金を稼ぐということをこれから何年間か頑張ってぜひ叶えたいなと思います。
ミミハムココロ:
中国にもし行けたら、何をしたいですか?
ダニエル:
遊ぶ…私にとってはそれも遊びなんですけれども実際に大学で学んだ、例えば黄河だとかそういうスポットを、万里の長城だとかも含めて1つ1つの机の上で勉強した所を実際に足で踏んでみたいなと思います。
ミミハムココロ:
「球場に足を運ぶ」というのは、最初におっしゃられていた感覚過敏とそれこそ真逆の場所かなと思うんですけれど、それでも行こうと思うのはどうしてですかね。
ダニエル:
それはもうやはり歓楽街が好きな時の話でちょっとだぶるかもしれないんですけれども、そういう高揚してるスタジアムみたいな活気がある、熱気があるみたいな所が実は大好きでして。同じ野球場に行くにしても、ガラーンとしてる野球場よりもお客さんの歓声が飛び交ってるような所の方が実際好きで。でもそれを続けてしまうと、そういう所に足を運びすぎてしまうと自分の体が駄目になってしまうっていうところで気をつけないといけないんですけども。ただやはり、根っからそういう人がワイワイしてる所っていうのが好きで。それはなぜかって言うと、人が楽しそうにしてる所にいるのが好きなんだと思います。
ミミハムココロ:
もう一歩踏み込んでですね、人が楽しそうにしている所が好きってどうしてでしょうか?
ダニエル:
なんかその…人の気持ちをすごく聞いてしまうと言いますか。例えば、病院とかに行くとしんどい方が多いと思うので、自分がそんなにしんどくなくても病院にいると他の人のしんどさも伝播するみたいなところがありまして。実際に野球場とかでも応援してるチームがあんまり良くない時とかに野次が飛んだりとか、なんかため息が広がったりしてるような時にはちょっとしんどさを覚えるんですけども。人がワーッて、「良かった!」って、「点が入った!!」っていうような時とか。野球場に限らず、喜んでる所にいると自分がそんなに嬉しくなくてもすごく嬉しいかのような気になれるので、それが好きなんだと思います。
ミミハムココロ:
また非常勤の講師をやるために就職活動するとおっしゃっていたじゃないですか。どういった条件で職場を探そうとか考えてますか?
ダニエル:
お金のこと以上に「立地」で今回はすごく考えてまして。大学の時とは逆になるんですけれども、できるだけ家から近くというところで。というのも、通勤時間の間のストレスとかを軽くしたいので、比較的通いやすい所でと考えています。
ミミハムココロ:
立地以外は特にありませんか?
ダニエル:
そうですね、本当にこだわりはあまり無いです。
ミミハムココロ:
5年後、自分はどうなってると思いますか?
ダニエル:
5年後ぐらいは…正直あんまり今と変わらないような生活かなと思うんですけども。非常勤とかで最低限の自分の生活を整えながら、noteとかで今と同じように続けながら。でも何か1つでも、例えば今実家暮らしなんですけど1人暮らしができているとか、成長できてたらいいかなと思います。
ミミハムココロ:
1人暮らししたいなとかはあるんですか?
ダニエル:
「したいな」っていうのは無いんですけれども、いつまでも実家にお世話になるのも…両親はOKな感じなんですけれども、「自分でやっぱり自立しないとな」っていう気持ちはあります。
ミミハムココロ:
あっ、そう、、過去の話でですね、「こだわりが強い」っておっしゃってたんですけれども、どうして自分でそう思われるんですか?
ダニエル:
そうですね、周りに言われるからっていうこともあるんですけれども。なんか1回例えば…例えばなんですけども、「ゼリーを買ってきてあげる」みたいな時に自分が白桃のゼリーが食べたいとすれば、なんかみかんのゼリーを買ってこられても絶対食べないとか。「白桃じゃないと嫌だ」みたいな。こだわりっていうより、わがままなのかもしれないんですけれども、があったりとか。なんか電車が好きと若干被るところなんですけども、例えば「急行に乗る」って決めてたら特急が来ても「いや急行じゃないと嫌だ」みたいな、そういうところがあったかなと思うので。
何か1度先に「今日は白桃」とか「今日は急行」とかって決めると後からの変更ができなかったので、こだわりが強いというより融通が利かないの方が合ってるかもしれないですけど、そういう面はあるのかなと思います。
ミミハムココロ:
今はどうですかね。
ダニエル:
今は…逆に就職の条件にこだわりが無いっていうのも言いましたけれども、比較的180度とまではいかなくともすごく変わったぐらい何にでも対応できるし。逆に言うと、「自分から好みを言ってください」って言われても言えないぐらいに柔らかくなったと思います。
ミミハムココロ:
そうやって柔軟になっていった流れに何かきっかけとかはありますか?
ダニエル:
何か「これが」っていうターニングポイントは一切無いんですけども、実際に中学校でずっと別室に引き籠って、友達ができて、大学で華やかに過ごしてっていう色んな経験をする中で、自然と矯正されていったのかなと思います。
ミミハムココロ:
最後ですね、今回のこのインタビューの感想でもいいです。もしくは、自分が死ぬ時の遺言だと思っていただいてもいいです。何か最後に一言いただければ。
ダニエル:
29年、今まで生きてきたんですけども。1時間で本当に、「1時間も時間がもつかな」って自分では思ってたんですけども、うまくすごく聞き出してくださったおかげもあって、1時間で語り尽くせないぐらいいっぱい色んなお話をさせていただいたので、インタビューしてくださったことありがとうございますということと、自分の29年の人生も色んな出来事が詰まってるんだなと思いました。以上です。
あとがき
ダニエルさん、ありがとうございました。
最近ですね、祖母と喫茶店でランチをしました。それはまあ色んな話をしたんですけれど、その中で自分の先祖の話題になったんですよ。小さい頃に『永遠の0』を読んだ時から自分のルーツというものにうっすらとした興味は持ってたんですけど、僕はそういったものがどこか小っ恥ずかしくて祖父母にも両親にも聞いたことがありませんでした。でもこの前、話の流れで「うちの先祖ってどんな人たちやったん?」と軽く聞いてみたら「それが私もあんまり分かってないのよね~」と言われました、ちゃんちゃん。
祖父が昨年亡くなったのを機に、「ああ、祖母ともいつまで話せるだろうか」と真面目に考えることが増えました。冷静に考えると、戦前から日本で生きてきた人と話せるってすごくすごいことなんですよ。で、その人たちの祖父母なんかは明治とか大正を生きていたわけで、僕が祖母の昔話を聞いているように祖母もまた自身の祖父母から当時のあれこれを聞いてきたわけです。歴史ってすごいですよね~(語彙力)。聞けるうちにたくさん話をしておこうと思います。
僕は長男かつ1人っ子なので、僕が死んだらこの一家は途絶えることになります。まあ僕の人生なので、結婚しようがしなかろうがそれは僕の自由です。ただ、ダニエルさんのように、自分の父や祖父を見ていると特に仕事面で「すごいな~」と感じる部分がたくさんあるので、最近は僕もそういったものを継承したいなと思うようになってきました。僕の場合「先祖の偉大さを子孫や後世に残したい」とまでは思わないんですけど、ちょうどこれから社会人になるので、少なくとも自分の仕事に誇りをもっていきたいなあと思います。
【インタビュー・編集・あとがき:ミミハムココロ】