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自由ってデタラメではないですよね。人

むかしむかし、自由の里という村がありました。この村では、誰もが好きなように生きられると言われていました。
村には、風(かぜ)という名の若者がいました。風は「自由」とは何でも好き勝手にできることだと思い込んでいました。
ある日、風は「自由だ!」と叫びながら、畑の作物を踏み荒らし、川に石を投げ入れ、人々の家の前で大声で歌いました。
村人たちは困り果て、長老のもとへ相談に行きました。
長老は風を呼び寄せ、こう諭しました。「風よ、自由とは何だと思う?」
風は答えました。「何でも好きなようにできることです」
長老はゆっくりと首を振り、言いました。「自由とは、自分の行動に責任を持つことじゃ。他人の自由や幸せを奪わない範囲で、自分の道を選ぶこと。それがデタラメではない本当の自由なのじゃ」
風はその言葉に深く考え込みました。
次の日から、風は変わり始めました。畑仕事を手伝い、川をきれいにし、歌を歌うときは人々が喜ぶ時間を選びました。
やがて風は、自分の行動が周りの人々の幸せにつながることに喜びを感じるようになりました。
村人たちも風の変化を喜び、共に楽しく暮らすようになりました。
風は後に村の若者たちにこう教えたそうです。「自由とは、自分の心に正直に生きること。でも、それは決してデタラメではない。みんなの幸せを考えながら選ぶこと、それが本当の自由なんだ」と。
そして、自由の里は、みんなが互いを思いやりながら自由に生きる、本当に自由な村になったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2024年8月25日14時20分に書く無名人インタビュー860回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】

今回ご参加いただいたのは 尾﨑基 さんです!

年齢:60代後半
性別:男性
職業:役者、ナレーター、広告業、著述業、塾講師


現在:やっぱり、単純に与えられてやるというよりは、自分で切り開いていくことですかね。

ナカザワアヤミ:
尾﨑さんは今何をされてる方ですか?

尾﨑基:
いろいろやってるんですけども、一つは役者、それからナレーター。役者はテアトルアカデミー札幌のルイプロダクションというところに所属しております。
あとは自宅でランサーズから仕事をもらって広告業、著述業ですね。それから家庭教師のトライで塾の講師もやっています。家庭教師ですから一対一対の教育をしてます。中学2年生の社会・数学・理科を教えてます。
現在はそういう形ですね。

ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。いろいろやられてると思うんですけど、ご自身の中で生活の中心っていうとどういったものが挙げられますか?

尾﨑基:
生活の中心というか、自分の中の軸は役者が中心ですけれども、正直一番お金にはなってませんね。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
収入を得ているのは広告業、著述業と塾講師。
あとは年齢も現在66歳で今年67になりますので、年金をもらってます。
それから年金以外で、一番はなくなったかみさんが抱えていた部分が一番大きいんですけども、自分でいろいろ個人年金であるとか財形であるとか、そういうのからお金が出てますね。暮らそうと思ったら十分暮らせるんですけど、プラスアルファでお酒も飲みたいですし、美味しいものも食べたいので、いろんなことやってるということですね。
暇になると人間駄目になってしまいますし、認知症になるのも怖いですから。日々楽しく暮らしたいということで、いろんなことに手を出しています。

ナカザワアヤミ:
なるほど。役者が気持ち的には中心とおっしゃってたんですけど、今どんなことをされてますか?

尾﨑基:
1月8日に東京で芝居をやることになってまして。男4人の芝居なんですけども、自分は札幌にいて、仙台の方、大阪・兵庫の方と東京にいらっしゃる富山出身の方、この4人で芝居をやることになっていて。それに向けての稽古が今一番メインになってます。

菅野臣太朗先生という、アンフェアの舞台版の脚本演出だとか、忍たま乱太郎シリーズの演出だとか、いろんなことをやられてる方の脚本演出のもと芝居をやります。全国に配信されることになってます。芝居の中身はあんまり詳しくは言えないですけど、サスペンスですね。
最後の1週間は東京で水道橋に缶詰になって、連日稽古するんですけどそれまではZoomで週1で稽古をやってます。

ナカザワアヤミ:
皆さん離れていると稽古もZoomなんですね。
ちょっと話題が変わるんですけど、最近楽しかったことは何ですか?

尾﨑基:
直近で言うとオリンピックを見て楽しいっていうのと、自分が阪神タイガースのファンなもので、たまたまチケットが当たって甲子園に行けたんです。昨日、一昨日は負けましたけどここのところ非常に成績が良くて、セ・リーグは上位3チーム、阪神と広島と巨人と戦ってますので、そこは楽しいです。

それと、ちょっと前になりますけど、東京歌舞伎町のど真ん中で阿部サダヲさんだとか結構有名な方が出られた『ふくすけ』という芝居を見て非常に刺激を受けました。
松尾スズキさんの脚本の過去何回もやってる演劇ですけども、いろいろバージョンアップして今回は東京都知事選も登場しました。面白かったですね。

ナカザワアヤミ:
何かを見る、観戦だったり観劇だったりがお好きなんですか?

尾﨑基:
ライブを見るのが好きですね。
大学生のとき、最初は軽音楽サークルに入ったんですね。ジャズが一番好きだったんですけどジャズ研がなかったんで、4人ぐらいでジャズ研を立ち上げて、そこからジャズの世界に入って。自分はドラム担当だったんですけども、たまたま今年の5月もジャズをちょっと演奏する機会がありました。だからジャズのライブなんかも見に行ったりもしてます。もちろん札幌にも結構いいミュージシャンがくるんですけど、この間は大阪までライブを見に行ってきました。

ナカザワアヤミ:
拠点は札幌、北海道だと思うんですけど、結構いろいろ行ったりされてるんですね。

尾﨑基:
2016年に妻が亡くなって、その後、しばらくしてから再婚して。現在の妻が3人目になるんですけども、妻が私と知り合う以前から小田和正さんのツアーに行っていたんですね。追っかけまではいかないですけど、自分が休みが取れる範囲で出かけていて、自分も学生時代からよく聞いてましたので、今は一緒に小田和正さんのツアーに行ってますね。

今年1月1日に大きな震災がありましたけども、その前に輪島で大きな地震があったときに輪島に行ってました。そのときは富山の小田和正の公演に行って、行ったことないから輪島の方まで行ってみるかってことで。その時に行った居酒屋が大丈夫か、震災の次の日に電話入れたんです。今回の1月の地震はあまりにもひどかったんで、大変だろうなと思って今回は電話を入れてないんですけども。

ナカザワアヤミ:
今ご家族、一緒に暮らしてる方は奥様ですか?

尾﨑基:
基本は2人で、前の妻との間に娘と息子がいまして、もちろん2人とも独立してます。娘の子供、孫にあたりますけども、これは22になって沖縄の石垣島の高級リゾートホテルに勤めています。1泊7万ぐらいするらしいですけど、ちょっと私は手が出ないような。新庄監督だとか、大塚家具の社長が連泊するようなところらしいです。息子も結婚してるんですけどもそこんところは子供がいないんで、孫は1人ですね。

ナカザワアヤミ:
なるほど、ありがとうございます。ご自身では何か自分の性格についてはどういうふうに思いますか?

尾﨑基:
短気な部分はあるんですけども、年を重ねるに従ってだいぶ丸くはなってきたつもりです。
時々ひどい運転をするドライバーに対しては、厳しい気持ちでクラクション鳴らしたりとかっていうことはありますけども、別に追っかけたりとか、自分から何かをするということはないです。
ただ、気持ちが短気という部分で言うと、物事の転換、物事を決めることは早いかもしれません。もちろん何でも勝手に決めるわけじゃないですけども。役者をはじめることに関しても。

もともと自分は大学を出て、中学校の教員をやってました。技術家庭の技術という、電気であるとか金属加工であるとか情報であるとかそういうことをやっていて、後半は教頭、校長っていう管理職も経験しました。

60歳で定年を迎えて、その後5年間は北海道中学校長会という北海道内の中学校長を束ねる事務所で5年間勤務したんですけど、そこが事務所だったもんですから、いわゆる事務仕事の連続で。それまでいた学校というところは良きにつけ悪しきにつけ、非常に刺激的な場所だったんですね。毎日何か起こる、いいことも悪いことも。それに対して常にアクティブに行かなければならないわけですよ。
でも、事務所っていうのはなかなかそうではなく、自分で新しいこともなかなかできないし、同じようなことの繰り返しで。北海道中学校長会という組織は立派だったんですけど、事務所勤めは超面白くなかったんですよね

ナカザワアヤミ:
うんうん。

尾﨑基:
だからクリエイティブなことをやりたいなと思って、最初は料理を始めたんですね。自分の生活の中の今でも毎晩ほぼ作ってますし、かみさんの方が帰りが遅いもんですから、自分は時間に自由がきくんでそれに役立ってますけども。

そのときに、たまたまいろんなSNS関係にテアトルアカデミーの宣伝が入ってきて。面白そうだなと思ったんですけど、お金もかかるし、なかなか自分としてはどうかなって言ったときにかみさんが後押ししてくれて。「やってみれば」っていう一言でオーディションを受けて入って、2年間そこでいろんなレッスンを経て、一つの区切りで卒業という形になってルイプロダクションというところに所属させてもらって。その間にもいくつかの小さい作品には出させていただいたりしまして。その中で武田晋さんという役者と演出家などをやられてる方との出会いでいろいろな舞台も経験させてもらいましたし。何でもそうですけど人との繋がりというところは非常に大事なことだなと思ってます。

ナカザワアヤミ:
今の生活では、さっきおっしゃったような役者だったり家庭教師をされたり、広告業著述業されたり、本当に幅広いですよね。

尾﨑基:
そうですね、広告業に関しては、自分は大学は教育系の大学だったんですけども、大学時代から宣伝会議っていうところの講習受けたりして、広告に関しての勉強はしてましたので、大学卒業した段階ではそちら関係の会社もいくつか受けました。
簡単に落ちた大きな企業もありますけど、第何次選考まで行ったところもあって。例えば今ベネッセって言ってますけども、当時は福武書店っていう会社だったんですね。自分は広告関係で採用されたいんだっていう意思で受けたんですけども、面接段階で営業だよってことを言われて。残ってればそういう方面に行けた可能性はあるんでしょうけどね。あとマスコミ関係、放送局も受験してました。

でも結局、自分で断ったのもありますけども、駄目で、それで教員の世界にっていう形になったんです。元々やりたかった気持ちはありますね。
それから著述、物書きに関しても、そういう機会は教員時代もたくさんありましたんで。仕事上のことですけれども、ものを書くということは結構たくさんやってました。
役者はど素人から始めましたけど。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
ちょっと言ってなかったけど、今まではずっと役者の修行みたいなレッスンを受けたんですけど、今は東京での芝居がメインですから、それ1本にかけるということで、ちょっと頭をフリーにするっていうか、別な脳を使う意味で作詞作曲という分野のこともやっています。ある程度曲を完成させて、スタジオ録音して、一応あちこちで配信する予定になってます。
9月には、そういう関係者でのミニライブみたいなのを開くことにもなっています。音楽系は元々ジャズやってましたし。

自分自身ではいろいろ楽しくやらせていただいてます。もちろん苦労することもあって、45分ぐらいの芝居にほとんど出ずっぱりなんで相当セリフもあるので、覚えるのが結構大変ですね。

ナカザワアヤミ:
やりたいこともいろいろあるし、いろんなことを実際されてると思うんですけど、共通点といいますか、どういうことをやるのが好きですか?

尾﨑基:
やっぱり、単純に与えられてやるというよりは、自分で切り開いていくことですかね。もちろん役者も脚本をもらってっていう形になりますし、自分でこういう表現だろうなと思っても、演出家からは駄目出しをくらって、実はこうなんだよっていうふうに言われることもありますけど、いろいろチャレンジはできるんで、何かクリエイティブなことをやるっていうのが全部共通してるのかなって。

料理も昔はレシピ本を見てましたけど、今はほぼ自分の創作でいろんなものを作ってます。今日はこれが安かったからこれで何を作ろうか、であるとか、あるいはうちは自分もかみさんも飲むもんですから、今日はワインを飲みたいからこういうおかずを作りたいなとか、今日は日本酒を飲みたいからこういう料理したいなとかっていう形で創作して作ってます。基本はある程度あるんでしょうけども。
いろいろ世界中の料理を作りまくってますね。オリンピックはあまりにも国の数が多かったんですけど、以前サッカーワールドカップのときには対戦相手のプエルトリコだとか、わからない料理を作ってました。食材はイコールじゃなくて似たようなもので。食べたこともないんでそれが正解かどうかもわからないですけど。

ナカザワアヤミ:
うんうん。

尾﨑基:
あとはうちのすぐそばに中央札幌市市立の中央図書館というのがあって、相当な冊数の本があるので、世界中の料理本を参考にすることもあります。有名な料理人、ジョエル・ロブションの料理本だとかそういうのを読んで刺激を受けることもあります。

過去:巨人の星っていう漫画があったんですけど、自分は星飛雄馬じゃなくて花形進のファンでした

ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。
ちょっと話題を変えまして、覚えてる範囲で大丈夫なんですけど、尾﨑さんは子供のときどんなお子さんでしたか?

尾﨑基:
うーん、とんでもなく迷惑かけるとかそういうことはない子だったんですけども、中学を卒業してしばらく経ってからあって飲んだりする機会があるじゃないですか。当時とんでもないことしてた奴らとも飲むことがあるんですけど、そういうときにいろいろ話してたら、お前だってそこそこやってたべ、っていうような話になったりはします。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
一通りの悪いこともやってきたのかなとは思ってますけどね。でも学校でしょっちゅう指導されたりっていうタイプではなかったと思います。学級代表だとかも結構やってましたし、生徒会とか、残念ながら2回落ちたんでなれませんでしたけど、立候補したこともありますし、そういう部分では多少目立ちたがり屋的な部分もあったかなと思いますね。

ナカザワアヤミ:
はい。

尾﨑基:
あとはずっと中学時代はバレー部、その後も指導者としてずっとバレー部を持ってましたけども、いろんなことを、プレーというよりは気持ちの部分であるとかチームワークの部分であるいろんなことを学んだとは思ってます。昭和の頃のバレー部ですから、神社の階段をうさぎ跳びしたりだとか、絶対水飲むなとかね、そういう指導を受けてましたけどね。根性はついたかと思います。

ナカザワアヤミ:
バレー部は中学からずっとってことですか?

尾﨑基:
高校ではやっぱりいいメンバーが集まってくるんで、これは自分はとてもじゃないけどもかなわないなと思ってバレーはリタイアして、なぜかわかんないですけど生物部に入りました。

ナカザワアヤミ:
生物部はどんなことをするんですか?

尾﨑基:
顕微鏡を覗いて、アオミドロを見たり、研究ということでもないですけども記録をつけて何かに出たことはあります。
学校祭だと生物部でそういうものだけを陳列してもウケないんですよね。お客さんは見向きもしない。
当時『かもめのジョナサン』っていう映画がヒットしてたんですね。小学校5年から中学2年まで小樽に住んでたんでたんで、小樽まで取材に行ってたくさんかもめの写真を撮って、それをスライド化して音楽をつけてかもめのジョナサンばりのストーリーをつけて、生物部で流したことはあります。それはちょっとクリエイティブな仕事だったのかなと思ってます。
後で思うと生物、かもめ、生き物、それくらいの繋がりしかないんですけども。

ナカザワアヤミ:
実際集客はどうでしたか?

尾﨑基:
まあ入りましたけども、かもめのジョナサン自体はそんなに受けてませんでした。期待して入った場合にはたいしたことないっていう感じではあったのかもしれないですし。まだかもめのジョナサンを見た方がごく一部しかいらっしゃらなかったのでわかってもらえなかったのかな。
自分としては、かもめのジョナサンのストーリーを漂わせながら別な作品を作ったつもりだったんだけども、かもめのジョナサンを知らない人から見たら、なんだこれはなったのかもしれないです。音楽とかはその作品のBGMも使わせてはいただいたんですけど。

どうしてもその撮影上の問題もあったと思いますね。望遠レンズとか持ってなかったので、カモメを映すにしても、そんなに綺麗な映像にならないんですね。そばにいて撮ろうと思ったら逃げるし、遠くで飛んでるのを撮ったところで、青空に白いのがちょっとあるぐらいなもんですから。映像自体がつまんなかったってのはあるかもしれないですね。

ナカザワアヤミ:
小樽まで取材に行ったんですね。

尾﨑基:
小樽は自分が一番多感だったときにいろんなことがあった場所なんですよね。
その後も中学教員やってたとき学校祭で演劇、自分が演じる側じゃないんですけども、やるにあたって小樽までロケに行ったりもしたことがあります。JRの駅で、本当は駄目なんでしょうけども、駅員さんに断って。

小樽築港駅っていう駅で、昔は小さい駅だったんですけど、今は結構大きい駅になったんですよね。当時はJRって窓が開いたんで、窓を開けて別れのシーンをやったんです。ホームに残って撮って、子供たちは朝里駅まで行って次の列車で折り返しに戻ってこいよ、みたいなことで。本当は入場券で入っちゃ駄目なんでしょうけど、当時はゆるかったんで、駅員さんに断わりを入れて。撮影自体も本当は撮影許可が必要ですよね。そういうこともやってました。

ナカザワアヤミ:
ちなみに生まれ育った場所というか、なじみがあるのはどういった風景でしたか?

尾﨑基:
札幌で生まれたんですけども、これはもう本当に自分は記憶がない半年ぐらいで引っ越して。自分の父が開発建設部開発局というところに勤める公務員だったんで転勤が多くて。

すぐ室蘭に行って、室蘭は保育園に入るまでの3歳4歳ぐらい。それから函館に行って保育園と小学校2年生まで函館で育って。ここら辺はしっかり記憶ありますけれども。そのあとに旭川で小学校3年生4年生。それ以降は小樽に行って小樽で小学校5年6年中学1年2年。引っ越して札幌に来て中学3年から高校3年間。
札幌でも最初は結構田舎だったんですけども、親父が土地を買って高校2年から札幌市内で引っ越して持ち家になったんですよね。それまではずっと官舎暮らしだったんです。

ただ家ができた年、高校2年の年に親父は肺の病気で亡くなってます。1回は家に入れたんですけども。
そこからあとはその家でずっと育って、古くなったんで、自分で新しく建て替えて別な形の家屋にして、現在はそこに息子たちが住んでます。今は妻のマンションに転がり込んできたという状況ですね。

一番大きい原風景は、小樽だったのかもしれないですね。海があり、山があり、大自然がありいろいろ危ないこともやったしやばいこともやったしっていう。
貯木場ってわかりますか?

ナカザワアヤミ:
わからないです。

尾﨑基:
海に、木材を、切った木のまま運んでくるんですよ。そのままだと乾燥して割れちゃうんで水に浸けとくんですね。
海がないところだとそれに散水をするんですけど、小樽は海があるんで海にドボンとそれを沈めるというか、浮かせるんですね。だから丸田がたくさん並んでるとこがあるわけです。その丸太渡りをするってのが楽しいんです。
でも丸太渡りをすると、足を滑らせて落ちるんです。落ちる瞬間に丸太をしっかりと手で掴まないと丸太と丸太にはさまれて沈んじゃうんですよ。非常に危険な遊びなのでもちろんやっちゃ駄目だよっていうことは言われてんだけど、そんな遊びは始終やってました。

漁師の息子がいたんで、船外機がついた船はさすがに免許がいるんですけど、ちっちゃい船外機がついて半分手漕ぎみたいな船で小学生同士で小樽港に出て、海上保安庁に注意されたりとかいろいろそんなこともありました。

あと、平磯公園という小樽港が一望できる非常に夜景の綺麗な公園があるんですけども。
ここに夜な夜な車が来るんですよね。デートっていうか男と女が乗ってる車なんですけど。で、それ以上言いませんけど、それに向かってロケット花火を発射するという遊びを結構やってました。

あとは今は違法だし完全にアウトですけどもウニとかアワビはさすがにそんなになかったけど、ツブだとかそういう海産物は膝ぐらいのところで取れましたので、取って食べてました。全然誰も文句言わないですね。今はもう1個2個でも捕まるみたいですよね。もちろん釣りもやってましたし。ガヤっていう魚、ガヤガヤやってくるからガヤって言われてるんすけど、それなんかたくさん釣れたけども、もう全部投げて帰ってきます。小樽港はそんなに綺麗じゃなかったんで。

ナカザワアヤミ:
高卒後の進路についてもお聞きしていいですか?

尾﨑基:
教育系の大学に行ってそのまま教員になりました。その前にさっき言ったように、マスコミ関係だとか広告関係の企業を受けたわけですけども。

ナカザワアヤミ:
当時、将来の夢や目標はありましたか?

尾﨑基:
学生時代は何になろうなんてことよりも、とにかく日々ジャズでした。
あとは、夜はどっか飲みに行くみたいなそんな感じで、あんまりいい学生というか、学問に対しては全く真剣ではなかったと思います。最低限の単位を取ればいいかなぐらいの。ただ、広告関係は途中から勉強を始めたのでそっちに行きたいなって気持ちは強くて、教員の気持ちは少なかったです、正直。でも一番ルートとしてはありがちなルートなんで。そこの大学は7割、8割は教員だったと思います。

ナカザワアヤミ:
はい。

尾﨑基:
自分は教科で言うと社会が好きだったんですけど、当時は社会科の教員がだぶついていて、社会科の教員の募集がないという時代だったので、仕方なく、仕方なくっていうと怒られるけど技術を選びました。

そっちも嫌いじゃなかったんですけど、ものすごい好きだったかっていうとそうでもないんです。あとはハードルがそんなに高くなかった。英語とか数学はやっぱりハードル高いんですよ。倍率も高いですし、教員になるのも苦労するけど、技術っていうのはどこの大学でも取れる免許じゃないんですよね。
例えば英語だったらもう英文科があれば、勉強すれば誰もとれるわけですね、教員免許は。技術は少ないので競争の倍率は少なかったですね。もちろん教員の数も少ないわけですけども。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
しかもたまたま、札幌で採用されたんです。
北海道ってものすごく広いじゃないですか。北海道と札幌って免許が違うんですよ。北海道で採用されたら、利尻も礼文も奥尻も、どこに行くかわかんないんですよ。でも札幌で入ると、よっぽど悪いことをしない限りずっと札幌です。

ナカザワアヤミ:
あ、なるほど。そんなルールがあるんですね。

尾﨑基:
ラッキーだったんです。先輩後輩同期とかでも北海道で採用された人は最初の赴任地が奥尻だとか。札幌とか札幌近郊に1回来たとしても必ずそこに長くいれるって保証はないわけですね。
札幌も札幌で結構大きい都市ですから、端から端までいくってのは相当時間かかるんですけどもさすがにその辺は考慮されて、よっぽど遠いところっていうのはなかったです。
比較的通勤もそんなに困難じゃないところにずっといましたね。
特に後半で校長やった三校っていうのは、元々自分が教員やってたところにまた戻れたんで。ふるさと人事っていうのはよくあることなんですけども、そうすると、自分が教えた子の子供が生徒だったり。

ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。ご自身の中で今までの人生の転換点とか、自分の人生の中で大きかったなみたいな出来事で何か思い出すことはありますか?

尾﨑基:
いくつかありますけども、やっぱりその、一般教諭、担任を持つことが非常に多かったんですけれども、そういう担任を持って常に教えてる、それから卒業生を出すという。
卒業生出すと特別な感情もありますし、卒業した子供たちとはその後の交流が今でもあって。クラス会というのもありますし、時々飲みに行くメンバーとか、それこそ今年も大阪にライブで行ったんですけども、卒業した生徒もたまたま別な形で大阪旅行してて大阪で一緒に飲んだというケースがあって。

ナカザワアヤミ:
はい。

尾﨑基:
そういう時代と比べるとやっぱり管理職になったときには、いろいろありましたね。
今でも髭を生やしてるんですけども、管理職試験、教頭試験を受けたとき、そのとき主幹とかっていうのはなかったんで即教頭試験だったんですけど、教頭試験の面接、30分か40分の面接のうち、20分以上は何で髭生やしてるんだ、どういう理由で、とか髭の話ばっかりでした。今はそんなことないんですけど、当時札幌市は古いしきたりというか因習があって、何人かの先輩から、お前いい加減ひげ剃れって散々言われて次の年は剃っていきましたね。

ナカザワアヤミ:
剃ったら大丈夫だったんですか?

尾﨑基:
すぐは受かりませんでしたけど、何年かしたら受かりました。そういう問答集というか、どういうことを面接で聞かれるかっていうと、未だに髭の問答は自分のが残ってるみたいですけどね。
今は管理職で髭をはやしてる人は何人かいます。当時も札幌以外は結構いました。それでとやかくいうのはおかしいかなって今でも思ってます。もちろん髪を染めている教員も今は珍しくないですし。

戦前の教育から戦後の教育に変わったほど極端ではないにしても、変わってきてるところはありますよね。
自分が教員になったころ、北海道というのは組合が強かったんで、完全に日の丸君が代であるとかそういうものに対して、当時の文部省、今はもう文部科学省ですけどその政策に対して、対峙するみたいな雰囲気が強かったと思うんですけども、それもいろんな自分の立場、まあ立場だからっていうわけじゃないけど、時代も変わってったし、そういうものに対しての本質的な変化っていうのはあったと思います。
教育の根底に流れてるものが何か変わったかってそれはそんなに変わってないと思いますけど、イデオロギー的なものは少しは変わってきたのかなと思って。

いわゆる右とか左って言ったら駄目なんでしょうけど、どちらかというと体制側っていうのは、プロ野球でいうと、読売巨人軍みたいなイメージがあるじゃないですか。うちの親父は阪神ファンじゃなかったんですけど、アンチ巨人だったんですね。巨人の星っていう漫画があったんですけど、自分は星飛雄馬じゃなくて花形進のファンでしたと。
物事の考え方の本質的なところでは、大勢側って言う表現でいいのか分からないですけど、それというよりは、本当にそれでいいのか?っていうふうに考える方が多いです。どっちが正解とは言えないんでしょうけど。

ナカザワアヤミ:
なるほど、そっち側。尾﨑さんの何かその過去を振り返ったときに、何かもっとこうすればよかったなとか、今だから思うことってあったりしますか。

尾﨑基:
それはそれはもうたくさんありすぎますけども、でも亡くなったかみさんに対しては、自分が退職したらこういうことやろうねって、旅行とかそういうことですね、いくつかは実行できたけど、実行できてないことがたくさんあったんで、それは、ちょっと心残り、ちょっというかだいぶ心残りの部分はありますけども。

やっぱり離れてわかるっていうか、教育に関しても、もっとこういうことできたなっていうのは、自分が一教員だった頃のこともそうだし、管理職になってからのこともそうだし、もっとこうできたんじゃないかなっていうのは反省としてはいくつかあります。

校長になったらやっぱり自分で学校の教育目標なり、どういう方向に引っ張っていくかっていうのは、札幌市、その上に日本っていう大きな母体があるわけだけども、やっぱり各学校に違ってるんで、そこはいろいろいじらせてもらったんですよね。

不登校であるとか、なかなか自分を出せない子だったり、人とコミュニケーションがうまくいかない子であったり、そういう子を何とか救ってあげたいなっていうことで、いろんな企画をしました。その中で、ラジオがきっかけで、仙台を中心活躍されています水戸まなみさんっていう手話で歌を歌うシンガーの方がいらっしゃるんですけど。

その方がちょうど震災、3・11のとき、ご自身も被災されてるんだけども、防災無線を叫びながら亡くなった方がいらっしゃるんじゃないですか、あの方のお通夜で歌われた方なんですよ。まだ震災からほんの数年しか経ってないころだったので、自分でコミュニケーションをとって、事務所を通さないで直接お手紙出して何とかコンタクトできてライブ公演をしていただいたっていうのがきっかけで、その後もいろんな似たような活動をしてます。

岩手でディスクジョッキー、自分の店も持ってる方なんですけども、松本哲也さんという方で、とんでもない幼少期を過ごして児童養護施設で育ったんですけども、そこで音楽と触れ合って、シンガーソングライターになってっていう方。

ちょうど自分の学校のそばに児童養護施設があったので、そこから通ってる子も何人かいたもんですから。その方をお呼びして、二つの学校でライブをやりましたし、その児童養護施設の施設長さんと連携して松本さんを呼んだこともありますし。

あと世界的なブルースシンガーで、大木トオルさんって方いらっしゃるんですけども、この方は今セラピードックの協会の会長されていて、震災でよせられた犬なんかもセラピードッグにしてるんですけども、その方をお呼びして、実際にセラピードッグを連れてきていただいて講演もできましたし。

こういった活動は結構子供たちのいい刺激になったりすると思うんです。

未来:何か嫌なことがあってもそれを浄化できたり、浄化まで行かなくても低減できたりするものは、薬じゃなくて自分の活動じゃないかなというふうに思ってますね。

ナカザワアヤミ:
5年後10年後まで死ぬときだったり、どんな時点でも大丈夫なんですが、未来についてどういったイメージをお持ちですか?

尾﨑基:
まず70歳で一つ区切りにしようかなと思ってるのは、頭もだんだん動かなくなっていくでしょうから、トライの講師は70で辞めようかなと。それからランサーズでやってる広告だとか著述業も徐々に減らしていこうかなと。やれる範囲ではやりますけども、そこまで根詰めてやらなくていいのかなと。

それから運転免許に関しても大体70あるいは70ちょっと過ぎぐらいで返納しようかなと思ってます。今もう結構ほぼ自分も乗ることありますけど、ほぼかみさんが通勤で使ってるんで、自分は土日の買い物程度、あるいは旅行に行くとき。町までって言い方はあれなんだけど、札幌市の中心部まで、ここからだとバスや地下鉄か市電っていう方法があるんですけど、今はほぼ歩いてます。

ナカザワアヤミ:
うんうん。

尾﨑基:
いろんなことがあってもできるだけ歩くってことを大事にしてます。健康で、それから、美味しいものを食べて美味しいものを飲めるようじゃなかったら、生きてる価値がないと思ってますので。
役者とナレーターに関しては続けて、最後、遺作はやわらぎ斎場だとかベルコだとか、あれの葬式の写真でいいのかなと思ってますけどね。

体があんまり動かなくなっても役者はやれるかなと。少なくとも口が動けばやれるのかなと思ってます。実際に最後の最後まで役者としてお亡くなりになった方は何人かいらっしゃいますよね。それはできる範囲でやればいいかな。もちろんそのほとんど札幌だとか道内での活動になるかと思いますけど。

ナカザワアヤミ:
うんうん。

尾﨑基:
あとはかみさんの方が八つ下なんで、できるだけ老けないようにはしていきたいと思いますし、ある程度の歳までは元気で過ごしたいと思ってます。
今後もあちこち出かけたりはしようと思ってますし、かみさんはあともう数年で退職になりますから、そしたらもっとね、いろんなとこ行けるのかなと思ってます。

海外も、自分もかみさんも別々ですけど行ったことあるんですけども、長い飛行機はエコノミーでは厳しいかなと思ってるんで、ほぼ国内旅行でいいのかなと。

ナカザワアヤミ:
旅行とか、あと行きたい場所、多分今いろいろあるかなと思うんですけど、何か次ここ行きたいとか次これやりたいということは具体的にどんなことがありますか。

尾﨑基:
行ってみたいのは沖縄ですね。自分は1回しか行ったことがなくて。かみさんは昔スキューバダイビングやってたんで何回も行ってるんですけども、沖縄はまた行きたいですね。
何でもリセットできそうな、余計なこと考えなくていいような気になるんで。

どうしてもその自分の悪い癖なんですけども、例えばさっきお話した、大阪行ったときであるとか、富山に小田さんのライブにいったときにはいろんなルート考えて安めのLCCで中部国際飛んで、名古屋で夜泊まって、そこからJR乗って金沢まで行って金沢で観光してレンタカー借りて、輪島まで行って輪島から富山に戻って、とかって。最後は京都も行ったっていうハードな旅になるで、そういう馬鹿なことはもうやめて沖縄でも離島で2日か3日バーっと過ごすだろうそういうことが今後は理想かなと。

ナカザワアヤミ:
けっこうハードでしたね。

尾﨑基:
今度も2泊キャンプして、ちょっとキャンプ3連続はきついんで、3日目はちょっと安いホテルに泊まってっていうことを考えてます。
その前は犬を2匹、コーギーを2匹飼ってたんですよね。2匹とも亡くなったんですけど、そのときにも結構犬連れて旅行はしてました。

ナカザワアヤミ:
本当に今のライフスタイルを楽しみ切るにはやっぱり絶対健康がないといけないですね。

尾﨑基:
お酒が好きなもんですから、やっぱり体を害してお酒が飲めなくなるのはやめようと。だからといって休肝日は作ってはいないんですけど、ちゃんと健康チェックというか、病院は通ってますし、血圧ちょっと高いんで薬はそこでちゃんと処方してもらってそれはしっかり飲んでますし。

なんか人生を豊かにするものっていうのは、何か自分を縛りつけて、じゃなくて、もちろんそういう律する部分も必要なんだろうけども、ある程度自由の幅がなければつまらないんじゃないかな、と思いますね。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
やっぱり教員やってたときには自分の自由がきかない部分って結構あったと思うんですよね。縛り付けられているというとちょっと言い方悪いけど、どうしてもこうしなければならないってことがたくさんあったんだと思うんですよ。

今はそれがゼロではないけども、かなり少なくなってきてる。自分でその幅を広げるというか、自由度があった方が自分がいろんな事できるだろうし、それから精神衛生面でもいいんじゃないかな。いろんな教え子の話なんかを聞いても、就職して、そこの会社だったのか組織だったのが人だったのかわからないけども、そこでいろいろあって駄目になるっていう話をずいぶん聞いてるんで。

今はいろんな企業でもパワハラ、カスハラが非常に多いので、それで疲弊してる人が、もちろん教員の世界もそうなんですけども。とんでもない親というのが、あちこちにいるもんですから。

そういう関係で苦しんでる人の事を思うと、少しでも自由度を保つために何かできないのかなっていうことも考えてます。演劇を学校教育にってのは日本はほぼないんですけど、海外はかなりやってるんです。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
それで人とのコミュニケーションがうまくなったとか、自分を出せない子が出せるようになったりだとか、結構効果はあるので少しでもそういうことに自分が率先してっていうところまでいかないけど、お手伝いできることがあればやりたいなと思ってます。

ナカザワアヤミ:
すごく考えづらいなとは思いながら質問しちゃうんですけど、もし就職したときに、中学の先生じゃなくて広告とかの方に行っていたとしたら、今どうなってたと思いますか。

尾﨑基:
うん(笑)これは非常に厳しい質問ですけども、チャンスがあればうまくいってたかもしれませんけども、会社の本当の一つの歯車としてどこまでやれたかなということを考えると、厳しいものがあったかなと思います。

教員としていろんな面白い経験もできたし、よかったのかなと。バレーは指導者だけじゃなくて職員のバレーっていうのがあって、それで大会に全道大会も何度か行けたりしたんで、そういう楽しみもありましたし。

もちろん学校も組織ですけども、でかい組織に入っちゃうとなかなかそこで頭角を現したり好きなことをやるってことは難しいと思います。何人か教え子でミュージシャンになった子がいるんだけども、ほとんどやっぱり好きな音楽ができないってことで、収入的にはあるんだけどもやめていく方が多いです。

役者でも、ミュージシャンでも、そういう芸能活動的なことってのは本当に自分が好きなことをやってる人間っていうのはほんの一握りじゃないかな。嫌いな役をやらなければならないだろうし、嫌いな監督ともやらなければならないだろうし、自分が好きな音楽じゃないジャンル、好きじゃない歌を歌わなければならないっていう人の方が多いんじゃないかなとは思ってます。

もちろん今の自分の立場でもそんなに好きじゃない作品にも出ることもありますけども、でも別にね、今回は4人が主役みたいなもんだけどそれ以外は大体端役ですから、そこまでの拘束はないんですけど。
ただコマーシャルだとかナレーション吹き込みなんかでもやっぱり自分がこうやりたいなと思ったものかなりクライアントによって直されるんで、面白くないなと思いつつも、でもお金のためには仕方ないなと思いますし。

あとはあの最近YouTuberと組んで、とかがあるんですけども、マナル隊っていうのが札幌にいて3人グループなんですけども一緒に活動することも何度かあります。

尾﨑基:
若くて見た目はチャラチャラしてるんですけれども、ちゃんと礼儀をわきまえた連中なんで、面白い仕事させてもらってます。でもこのYouTuberはタワーマンションに住んでレクサス乗ってますから、相当収入はあると思います。120万超えかな。

ナカザワアヤミ:
自由とか自分で作るとか、キーワードとして出てきますね。

尾﨑基:
自由ってデタラメではないですよね。自由っていうものを得るためにはそれなりのいろんなことが、自分も、教員をずっと続けてある程度のその練習もあったし、蓄えもあるから今こういうことができてるんであって、全くそういうのがなければ、今の収入だけじゃとてもじゃないですけど生きてけないです。

あと、短期間ですけども、去年数ヶ月、児童の放課後デイサービスの経験をさしてもらって。教員時代にも特別支援の子供たちとの関わりが非常に多かったんですけども、かなり重たい子、それこそ重度の寝たきりの子供であるとか、自分で言葉を発せない、目もなかなか見えないとかそういう子供たちもそこで扱ったのはかなり貴重な経験でした。体力的には相当きつかったんですけどね。

ナカザワアヤミ:
それでどういったことを感じられましたか。

尾﨑基:
そうですね、表現が難しいですけど、やっぱり大変な家庭というのは結構多いですよね。
それは経済的な意味で大変っていうのもあるし、それから生活の根幹となる部分の、いわゆる本当にそのちゃんと社会生活が営まれてるのか、そういった部分が障害の状況に与える影響もあるんじゃないかと思いますね。
もちろんこれは教員時代も十分経験してることですけど。

ナカザワアヤミ:
はい。

尾﨑基:
かなりその教育だけじゃなくて福祉っていうのが今後すごく大事になってくるんですね。そことの連携がうまくいかなければ、いろんなことが詰まってくると思いますし、ヤングケアラーだって数字出てる以上にもっとたくさんいると思います。

ナカザワアヤミ:
そうですね、定義づけできないところにも、本当にたくさん問題がありますよね。
もちろん全然判断し足りないこともあるとは思うんですけれども、今日の1時間の中を通して、言い残したことであったりとか、感想とか独り言でも大丈夫なんですけど何かあれば最後にお願いいたします。

尾﨑基:
精神的にとか、神経的に駄目になるっていうか、そのうつ病に限らず、仕事が手につかないだとか、食事が喉を通らないとか、いろいろな症状が出ると思うんです。そういうことの根幹には、人間関係とか、今だったら対AIだったり、対パソコンだったり、SNSだったりいろんなことがあると思うんですけども、それを乗り越えられる要素の一つとして自分が好きなことをやる。好きなことをやって、気持ちを解放できるっていうことが大事じゃないかなと思うんです。

それが趣味でもいいだろうし、食べるってことでも良い。暴飲暴食だと良くないかもしれないけど、いいお酒を飲むってことでもいいだろうし、いい音楽を聞く、いい映画を見る。いろいろあると思うんですね。
何か嫌なことがあってもそれを浄化できたり、浄化まで行かなくても低減できたりするものは、薬じゃなくて自分の活動じゃないかなというふうに思ってますね。

ナカザワアヤミ:
なるほど。

尾﨑基:
今はものすごく自分としては、いい精神状態で生きてると思います。
ストレスも少ないしですしね。やっぱみんなそういう何か見つけてほしいなというのはありますね。今うちのかみさんはもうあと数年で退職なので、退職した何しようかって一緒に考えてます。自分がこんだけ好きなことやってるんで彼女も何かやりたいみたいですけど。

ナカザワアヤミ:
そうですねなんか、やりたいことがまたちゃんとあるとか、やりたいなって考えられるっていうのってすごく素敵なことですよね。

尾﨑基:
うん。たまたまいろんな出会いもあったしアドバイスもあったりいろんなことが功を奏していると思いますけど、常にその新しいものは僕、自分の新しいものもそうだし、何か新しい出会いももちろん求めてるし、待ってくるもんじゃないですね。

ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。

あとがき

未来の部分のタイトル、それだけ見ると誤解されちゃうかなと思ったんですが、でも大事な部分のように感じて、こちらにしました。

さて、ちょうどこのインタビューを編集しているタイミングで、お世話になった方の訃報が届きました。人生で初めて弔電をうちながら、恩人の名前に「故」とつけねばならない重さに押しつぶされそうになりました。

親戚の葬式に出たことは何度かありますが、改めて「死」というものにふれ、生きているうちにどれだけ楽しみ、どれだけの思いを世に届けるかの尊さが身に沁みました。一人でも多くの人が、年齢関係なく、自らを自由にする努力を続けることで豊かな生き方ができればいいなと思うのです。

【インタビュー・編集・あとがき:ナカザワ】


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