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自分で決めたことをやっていく人

むかしむかし、ある村に、決之助(きめのすけ)という若者がいました。決之助には、変わらぬ信念がありました。「自分で決めたことを、自分の力でやっていく」という思いです。
村には古くからの慣習があり、多くの人は「こうあるべき」という周りの声に従って生きていました。しかし決之助は違いました。
決之助が農家の跡取り息子だった時、村人たちは「代々続く農家を継ぐべきだ」と言いました。しかし決之助は、自分の心に従い、「私は自分の道を行きます」と静かに、でもはっきりと告げました。
両親は心配しましたが、決之助は説明しました。「自分で決めたことだから、責任を持ってやり遂げます。これからの農業には新しい知恵が必要です。そのために、まず学問をしたいのです」
そして決之助は、自分で決めた道を一歩一歩進んでいきました。失敗することもありましたが、その度に「これは自分で選んだ道」と、前を向いて歩き続けました。
時には村人たちが「あの道は間違いだ」と言うこともありました。でも決之助は、自分の決断を信じ続けました。
「間違えることもあるでしょう。でも、それは自分で決めたこと。だから、結果もすべて受け入れる覚悟があります」
やがて、決之助の学んだ知識は、村の農業に新しい風を吹き込みました。乾燥に強い作物の栽培方法や、効率的な水の使い方など、伝統と新しい知恵を組み合わせた方法を提案したのです。
最初は懐疑的だった村人たちも、その成果を目の当たりにして、決之助の決断の意味を理解し始めました。
後に決之助は、若者たちにこう語りかけました。
「誰かに決められた道を行くのは楽かもしれません。でも、自分で決めた道には、特別な輝きがある。たとえ険しくても、その一歩一歩が自分の人生を作っていくのです」
そして「己の決めし道、己の足で行く」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2024年x10月30日18時22分に書く無名人インタビュー925回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】

今回ご参加いただいたのは ボンボンチェリーハイジ さんです!

年齢:50代後半
性別:女
職業:戦略インサイトの吉祥天女®ひとり起業家を稼がせるコンサルタント

instagram:https://www.instagram.com/mybrand_salesconsultantbonbon/


現在:自力で稼げていて、専業主婦でいたら、およそ出会えなかったような方達と出会えたりとか、いろんな世界の方たちと親交を深めたり、面白いことが体験できたりするので、とっても楽しいと思っています。

qbc:
今何をしている人でしょうか。

ハイジ:
センスが良くて、お金にも不自由しないという女性たちを日本中に増やすために活動しています。女性の起業支援をするコンサルタントです。その一環でですね、アーティストの個展やイベントの企画プロデュースなどもしております。著者でもあります。

qbc:
どれぐらいされてるんですか?

ハイジ:
コンサルタントとして活動しているのは5年で、起業してから約10年になります。

qbc:
ざっくり、今どんな感じですか?

ハイジ:
この5年間で500名、500社ほどコンサルいたしまして。特にですね、個人、女性の方で無名の専業主婦から、稼ぐ起業家になったとか、あと有名アーティスト、アーティストといっても歌音楽の方ではなくて、イラストレーターさんとか造形作家さんとか、制作物を作る方たちなんですけど、ちょっと有名になったとか。活動の場を海外まで拡げたとか。
あとはですね、元々サロンとか会社とか経営なさっているスモールビジネスのオーナーが売り上げ倍とか予約でいっぱいにするとか。
とにかくですね、ひとり起業家を稼がせるっていうことを目標に普段活動しておりますので、関わっていただいた人たちが、みんなお金がいっぱい入ってくるみたいな、自力で稼ぐ力を身につけていただくようにしております。

元々株式会社バンダイというおもちゃの会社の宣伝部におりまして、広告宣伝の仕事をしておりました。なのでその経験を元にですね、一般の方にも宣伝の大切さとか、活用の仕方とかを伝えるべく、2019年からYouTubeもやっておりまして、
「ハンドメイドで稼ぎたくなったら見るチャンネル」って言うんですけど、2019年から2年間毎日配信いたしました。
で、ですね実はこの2年間がんばったお陰でものすごく集客がうまくいきましてこのYouTubeがめちゃくちゃ上手くいって、「極少フォロワーで高額を稼いだ」例のように、ダニエル社長、大原昌人さんっていうYouTuberの方の書籍で紹介いただいたりとか。あと実際私もフォロワー1000人とか、当時は少なかったんですけど、2年間で自社コンテンツが3000万、5年間で8000万ほど売れまして、リストマーケとか一切せずにですね、YouTubeだけでこんな無名の人間がこんなにお金いただいていいんだみたいな状況になりました。なのでこれをですね、自分のクライアントさんたちにお教えしています。

具体的には、マーケティングを教えているわけですけれども、私が宣伝部にいたときから、業界誌とか雑誌に記事を書くっていうことを割と得意にしていまして、キャッチコピーとか、検索に強い上に、印象に残す屋号とかですね。商品の紹介文であるとか商品名そのものであるとか、そういったものを作るのを得意としておりますので、これをクライアントさんに作ってあげてですね、特にネットで訴求できる形にしてあげる、ブランディングしてあげるっていうことをやっています。

コンサルテーションですね、最高月16人まで持てるっていうことが最初の1年でわかりまして。お1人1社、月に最低2回のコンサルテーション、1回90分前後、対面とかZoomでやっておりまして、その16人、どれぐらい持てるのかなって挑戦した年は、休みが年末年始の2日間だけで、睡眠時間毎日4時間だったんです。なので自分はもう16人持ったら、これ以上だったら死んじゃうっていうのは体験できたんで、以降は10人前後に収まるように何とか調整してるんですが、特にYouTubeを毎日配信してたときは、お申し込みがお陰様で多くてですね、毎月の顧問契約を決める前に受けていただく【お試しコンサル】という商品5万5000円のものを今も販売しているのですが、それが月に10件から20件ほどお申し込みがありまして、こなしきれなくて半年待ちとかになってしまったこともあります。
なのでお試しコンサルから毎月の継続コンサル、マンツーマンコンサルへ移行する方たちがこの4年間いつも常にいてくださる、10名以上いてくださるという状態がキープできていて、とても商売人としてはありがたいのですが、実はですね、金土日だけ東京都目黒区東横線の学芸大学駅の近くでですね、自社商品、「日本一邪魔になるアクセサリー®」というコンセプトで、自社商品を売るセレクトショップを営んでおります。なのでこちらの経営もありまして、10人に減らしても実質365日働きっぱなしっていう状態で、いけないなって思っていてですね、何とか来年こそ、来年こそ、週の半分くらいはお休み取れるように働き方を変えたいなと今思って準備している段階です。

qbc:
ありがとうございます。
なんかどんな気持ちで今仕事してます?今、今の段階ですね。

ハイジ:
そうですね。起業がですね、もうアラフィフからでしたので、遅いスタートだと思うんですけど、とっても充実していると思っています。
多くの方に喜んでいただけますし、自分もお金が回せますし。フォレスト出版さんから「ハンドメイドで稼ぎたくなったら読む本」を商業出版もできました。amazonの4つの部門で1位をいただきまして、現在3刷りです。仕事としては、アクセサリー販売よりコンサルタントとしての仕事、文章を書いたり動画を作ったりする時間の方が圧倒的に増えてしまったので、ちょっとスタートの思惑とは違ったんですけど、専業主婦でいたら、およそ出会えなかったような方達と出会えたりとか、いろんな世界の方たちと親交を深めることができて、いろんなことが体験できたりするので、とっても楽しいと思っています。
なので普通のね、女性でもこういうことできるよ、ひとりでも稼げるよっていうことをね、知らせたくて、今こういう仕事をしています。でないとこんだけ大変なことやってらんないなって思う瞬間もあります。

qbc:
どんな気持ちの時間帯が多いですか。
喜怒哀楽でシンプルに聞いていきたいですね。

ハイジ:
そうですね。私自身はですね多分元々の性格気質もあると思いますが、楽しいって多分毎日思ってる時間が長いと思いますね。

qbc:
何が楽しいですか?

ハイジ:
自分がこの人生をコントロールできてるみたいな感覚が楽しいです。具体的にはですね、母親でもあって、子供がまだ中学生と大学生なんですけども、正直言うと子育ては手抜きです。家事も手抜きで。事業をはじめてから家事育児、めちゃくちゃ手抜きだったんですけど、それなりに子供は育ててくれてるというか、私を見て働く女ってこんな感じだなって多分許容してくれていて。なので子供たちは自立心旺盛というか、自分のこと自分でやんなきゃなみたいな感じになっていて、子供としては生活の依存はしてますけど、精神的に自立してる感じがあって、なおかつその子たちがまだママ大好きみたいな感じで。大学生のお兄ちゃんなんかも、結構ガールフレンドのこととかね、バイト先のこととか、帰宅する私を待ち構えていて、話しかけてきてくれたりするので、家族関係良好なんですね。なので、まず朝自宅で目覚めれば、そういった家族関係なので楽しいですね。年頃の子供とのやり取りが楽しい。

日中の仕事は大体ですね、コンサルテーションを日に2コマぐらい、2人ぐらい持っていますので、朝起きたときからすぐ頭ん中仕事の方に向かってるというか。クライアントさんたちに、
これ提案しよう、この施策イケる、これを告げてやってもらったら絶対良くなる、みたいなことばかり考えています。とくに個展やイベントの企画とかでは、こんなの今までない、社会を驚かす、絶対話題になるな、みたいなことを提案していくんで、わくわくしますね。だから楽しいことしてお金いただいてるっていう感じがあって、この年でこんなことができて嬉しいなと思っています。

qbc:
人生がコントロールできている感覚っていうのはどんな感覚なんですか?

ハイジ:
そうですね。会社員であった時期もありますが、雇われてると会社に拘束されているわけですよね。何時から何時までいなきゃいけないとか、あと自分の本意じゃないと思うようなこともやらなきゃいけないとか。

実はバンダイの後に保険会社で営業をやっていた時期がありまして、そのときはですね、4年間全国の営業職員1万人中トップ10に入るぐらいの成績だったものですから、めちゃくちゃ忙しかったんですね。とにかく会社の商品を売るために自分の時間を捧げてるみたいな感じだったんですよね。だからお給料は、年収で1000万ぐらいもらっていたので、お金はもらっていてそういう意味では楽しかったんですけど、別に営業やりたくてやったわけではなくて。なんだったら最初は、男性相手の営業が嫌すぎて3ヶ月の研修期間は毎日泣いてたんです。でもバブルが崩壊したばかりで再就職が難しい。手に職もないし、選択肢が少ないわけですね。だから拾ってもらった会社に言われたことは、やんなくちゃいけないと思い込んでいた。成績良かったんで、しょっ中、ご褒美の旅行とかあるんですけど、酔っ払った先輩たちのお酌は当たり前、さらにちょっとエッチな宴会芸を強要されたり、そんなことが年に何回も。会社の規則にのっとって、何々しなければならないとか、何かそういうことが多かったですね。
着るもの1枚にしても、会社の看板しょってるんで、今、見えてるかわかんないですけど割とね、変わった格好が好きなんですけど、こういった格好できないわけですね。ちゃんとスーツ来て、ヒールのある靴を履いて、控えめなメークして。

なので自分以外の人の思惑で動かなくちゃいけないっていうのが、人生は多分そういう時期が長いですよね。学生でいるときとか、社会人で雇われているときとか。雇われなくなって専業主婦の時間が15年間もあるそのときもですね、子供のために学校に行くときにはこういうお母さんでいなくちゃいけない、こういう格好しなきゃいけない。ママ友とは和を乱さないように、こういうふうに振る舞わなきゃいけないとかってそういったことが多かったですね。

多くの女性はそういう状態かな。男性もそうかな。サラリーマンの方はそうかなと思うんですけど、それが自分で商売を始めると、簡単に言うと嫌いな人と付き合わなくていいとか、嫌なお客さんはもうこっちから切ってしまうとか。元々営業のときもちょっとそういうことをやっていたんですけど、それでもやっぱり会社員ですから、会社のね、言うことを聞かなきゃいけないですし、それが自分で事業をやると自由にできる。なおかつお金を自分で回せると。主人はサラリーマンで、家計を中心で支えてくれますけれども、もう基本、財布が別々なんですね。子供の教育費や歯の矯正代、ガツッと私が払っています。パート勤めていどでは到底できなかった。誰にお伺いを立てずにですね、物を買ったりとか、お金動かすことができるっていう意味でコントロールできてるなっていう感じがあって、それはとても楽しいなと思っています。

qbc:
そもそも起業したきっかけって何ですかね。

ハイジ:
元々ですね、高齢出産だったので、起業のきの字も考えてなかったんですね。子供を産む前、結婚して10年間は夫婦2人で働いたり、主人の転勤でちょっと関西の方に移ったときに私自身は仕事を辞めたので、毎日ゲームざんまい。ゲームと映画ざんまいで遊びまくっていて、楽しかったんですよね。だからこのままゆるゆると子なしで生きていくんだろうぐらいに思っていたんですけど、急に子供が欲しくなって作ったんです。でも、子供ってこんなにお金かかるんだってことを知らずに産んでしまって。
私も夫も田舎がないんですね。都会で生まれ育って、地代の安いところに住むという選択肢がなくて。私、専業主婦でこんなにお金が足りないんだっていう状況を、夫には言えなかったんです。サラリーマンの夫は夫で頑張ってくれてるから、お金足りないって言えなくて。なので、近くに住む父にずっと援助してもらってました。夫に内緒で。
月に数万円とか、あとちょっと困ったときには10万円とかまとまって貰うとかね。
それを言えずにですね、10年間ほど来ていて、父がね、急逝しまして。母はもう子供のとき亡くなってたので、頼れる母はいなくって。父が急逝しちゃったもんだから、ある日突然お金が入ってこなくなったわけです。私は下の子を42歳で産んでいて、そのときに父が亡くなったのが47歳で、まだ下の子が幼稚園に入った頃だったかな。働くって言ったってもうアラフィフ、40代後半で資格もないのに、面接さえも受けさせてもらえないみたいな状況で困っちゃって。八方塞がりな感じで、コーヒーを立ち飲みしながら店内でしくしく泣いたりして。

ただずっともの作りはしていて、幼稚園でも手作りの講師をやったり、近所の小学校でぬいぐるみの作り方とか教えたりとか、雑貨の作り方を教えたりとかやってたんですけど。
バンダイにいたせいで、素人が作ったものが世の中に流通するわけがないと思い込んでいたんです。なのでハンドメイドを売り買いしているっていう、そういうことをやってる人たちがいるってことを知りませんでしたし、本人は作ったものを幼稚園のバザーとかでみんなで喜んでもらう程度だったんですけど、それが何かだんだん評判になってきて、実は。手作りしたアクセサリーが全く知らないところで、アパレルの人たちにちょっといいと思っていただけて、友達が「そういう業界の人が欲しいって言ってるから持っておいで」って声かけてくれて、売ったのが始まりでした。
それで私が作ったもの、「これアパレル業界の人がいいお値段で買ってくれたんだからいける!」って思ったんですよね。ちょうど父も亡くなったばかりで、お金も困るなと。パートもできないしって思ってましたから、それで起業しました

qbc:
具体的に何を使っていたんですか?

ハイジ:
使っていたっていうのは売っていたものですか?

qbc:
そうそう何を作られてたのかと。

ハイジ:
このね、一番最初に作ったのが大きいアメ玉みたいな指輪なんですけど、指輪を作って、ボンボンチェリーハイジっていうアクセサリーブランドを作って、売り始めました。”日本一邪魔になるアクセサリー”というコンセプトで。
あとはもう一つ、シャカシャカドームリングって言って、ガラスのドームの中に、このいろんなテクスチャーとかビーズを入れたもの、これを販売しました。

それで最初ですね、私自身はそのハンドメイドっていう業界を全く知らなかったので情報がなくて、リサーチから始めないとと思いまして、ネットを始めました。アメブロと当時Twitterですね。まだですね、インスタとか普通の女性が使ってないような時代だったんですね、2015年の頭かな。ハンドメイドしてる人たちをリサーチしてみたら、主婦さんたちがほとんどで、本当にママの手作り感満載で、私が思っている個人が作って商品としてきちんと社会に受け入れられるっていう感覚とちょっと違ったんですね。

ハンドメイド主婦さんってほっこり系で、近所のレンタルボックスにカラーボックスみたいなのを1箱借りて、自分が作ったものを300円とか800円とかで置いてる、みたいなのが多くてですね。私はそうじゃなくてもっと、店のていが整ってるところで、素敵なもの、カッコイイものが好きな人たちに、別に私の顔とか名前とかどうでもいいんで、ママであるとか手作りとか関係なく選ばれたいなと思っていたので、なんかこうねハンドメイド業界って違うなって思っていました。ただどこに商品置いていいかもわからなかった。ネットショップも今みたいにですね、ハンドメイドに特化したようなECサイトとかも、まだまだ全然走り出したばかりっていう状態だったんですね。例えば、ご存知かわかんないんですけど、ハンドメイドのECサイトで最大手のminneさん。多分今80万登録以上あるはずなんですけど、私が始めたときは10万登録ぐらいだったんですよ。それでまだ売る人間が少ないような時代でした。ネットで売るママさんはYahooオークションが多かった。
で、私はこのなんかママのほっこり系の場所で売るのは違うなと思っていまして。当時ですね、ドイツの鉄道模型のパーツが好きでいっぱい集めていたんですけど、その中の牛のパーツを使った、270分の1かな。牛を使ったピアスを自作したものをつけて、東京都目黒区自由が丘の街をフラフラ歩いていましたところ、ちょっと変わったクリエイターの商品を集めて売っている店の店主にスカウトされまして。「そのピアスどうしたの?欲しいわ。」「私が作ってます。」「うちで置かない?」っていうところから、委託販売っていうことができるんだってことを知りました。

それでもうネットの方は、あまりそれ以上深掘りしてどうこうするってのはなくて、都内のリアル店舗に置いてもらうっていうことを主眼に動き出して、自由が丘の街に置いてもらって、すぐその店がテレビで取り上げられて、以降、自分の商品もテレビに何度か出させていただいて。中川翔子さんと中山ヒデさんの「ウチくる!?」っていう番組が当時あったんですけど、ゲストが八代亜紀さんの時で。その番組の中でですね、私のバカでかいピアスや指輪をタレントさんたちが身につけて遊ぶみたいなコーナーがありまして、そのタレントさんたちが実際に身につけたものをですね、気に入ってくださって、買ってくださったりとか。
そんなご縁からですね、女性芸人さんたちに買っていただくっていうことが増えまして。実店舗の方が私自身もやりがいありますし、いいかなと思いまして。今度はですねスカウトを待たずに、ラフォーレ原宿の老舗で、こういった変わったクリエイターの商品を集めて売るお店があったんですけど、42年間継続してるっていう店にアプローチしまして、OKいただいてそこで3年間委託販売しました。ここがめちゃくちゃ良くてですね。

qbc:
今何年の話されてます?

ハイジ:
2015年に初めてこれが2016年です。

qbc:
これ1年ずつ続けられます?どうします。

ハイジ:
なるほど。

qbc:
ちょっとヒストリーを興味持つ方っていう数少ないんですね。

ハイジ:
わかりました。

qbc:
どうします話続けます?
どうしようかだったら切ってもいいですよ

ハイジ:
OKです。

qbc:
何か趣味とかその他ありますか?お仕事以外の。

ハイジ:
えっと、アゲハチョウ1000匹育てました。

qbc:
今の趣味なんですか?

ハイジ:
今というかずっと趣味。

qbc:
なるほど。アゲハ蝶を育てる。

ハイジ:
はい。全然商売に関係ないんですけど、私の会社のロゴにも使っている蝶々があるんですけど、元々10年間毎年100匹ずつ、アゲハ蝶の卵を育てまして、蝶にしたら目黒区の空に放つということなどしていました。趣味はその程度です。

qbc:
その趣味っていつから、何のきっかけで始めたんですか?

ハイジ:
長男が、今21歳なんですけど、長男が生まれたときに、本当は私は虫が怖いっていうのを長男に悟られまいとして、長男が家に持ち込む虫を一緒に育てていたんです。怖かったんですけど、結局子供って犬とか金魚とか買っても面倒見なくなっちゃうパターンが多いと思うんですけど、彼が持ち込んだ芋虫をですね、私が育ててるうちに可愛くなりまして、それでもう子供たち関係なく私が近所から卵持ってきて、育てて、単純に蝶になるのが楽しくてっていうのを10年間ずっとやりまして。今は子供たちはもう大人になって、嫌だって言うので、事務所でこっそりと毎年数匹ずつ育てています。

qbc:
性格は周りの人からなんて言われたりします?

ハイジ:
性格はYouTubeで見みるとこう、陽キャでガツガツ行くタイプに見えるけど、実際会うと静かな人だねって。静かだけど楽しい人だねって言われます。

qbc:
自分自身ではどう思いますか?

ハイジ:
自分自身はですね、経営者の中においては、テンション低めのかなり控えめな人間かなと思ってます。経営者って特に女性の起業家の人たちはみんな明るくてパリピみたいな人も多いので、イケイケどんどんみたいな人が多いので、その中においてはかなり静かな方かなって自分では思っています。

qbc:
身近な人、家族パートナー、親友、そういう距離の近い人から言われる性格ってあります?

ハイジ:
そうですね。性格というか、そういう身近な人たちからは、普通の主婦じゃないよねっていうことはよく言われます。普通のお母さんじゃないよねって。
性格か。性格は多分、細かいことを気にしない性格とか。そうですね、明るいって多分思われてるんじゃないかな。

qbc:
あんまり言われない?

ハイジ:
こういう人だよねっていうふうには、あんまりそういう会話がないですね。
ただ何かのときには動じないよねとか。そうね。テンション低めですけど、あんまり浮き沈みもないというか。あんまり細かいことにがっかりしたりとか、そういうのないので、多分強いって思われてると思います。ただそういうふうに言われるかって言われたら、あんまりそういう会話はないです。

qbc:
好きな食べ物って何ですか?

ハイジ:
ご飯。お米が大好きで毎日和定食みたいなものを朝食べていて。

qbc:
何かどういう。一汁三菜とかそういう感じですか。

ハイジ:
そうですね。いわゆる鮭とおみおつけと卵とご飯と納豆とちょっと果物とみたいな感じで、とにかく米が大好きなんですね。普段もあんまりガツっとお昼を取れない日が多いので、おにぎりを1個朝握って持って歩いてたりして。
お米大好きなんですけど、よくね炭水化物摂りすぎない方がいいとか言われるので、内心本当はもうちょっとタンパク質多めにした方がいいかなと思いつつ、毎日お米を食べて昨日もおやつにおはぎを買っちゃったりして、お米大好きです。

過去:私、母が亡くなったことで自分の人生が開けたみたいな感覚があるんです。

qbc:
これから過去未来を聞いていきたいんですね。
起業のあたりはかなり聞いてるんですけど、ちょっと駆け足気味になると思うんですけども、とりあえず子供の頃ってどんな子供でした?

ハイジ:
子供の頃はですね、めちゃくちゃおとなしくて引っ込み思案で。母がですね、昭和30年代にモデル業とかをやっていて、ちょっと派手な華やかな人だったんです。で、その母にいつも写真とるとき、集合写真撮るときは真ん中行きなさい!とか、学年で一番目立ちなさい!みたいに言われるんですけど、本人はもう写真はいつも端っこ。なんだったら写りたくないとか、目立ちたくないみたいな子供で。全然母とは逆な感じで育ちました。
なので学生のときもですね、どちらかというと静かな、学級委員もやりましたけど、だんだん学年上がってくるにつれて、学級員よりかは学級委員長を支える書記とか、そっちの方の仕事を黒髪三つ編みで静かにやってる、みたいな子供でしたね。今とは多分全然違う。

qbc:
なんか遊びは?ちっちゃい頃、幼稚園とか、覚えている限りでいいんですけど。

ハイジ:
もうとにかく絵を描くのが大好きで、引っ込み思案ではありましたけど普通の子供でもあったと思うので、普通に近所の子供とか幼稚園のお友達とかと遊んだりしていて。絵が割と好きでしたし得意でしたので、小学校の休み時間に同級生たちが、こうやってノートを抱えて私の机の前に並ぶんです。みんなが言ったものを描いてあげる。男の子だったら当時の戦隊物のヒーローを描いてあげて、女の子のいろんなリクエスト、お姫様とか、わんちゃん描いてとかってそういうことに答えながらとにかく絵を描くっていう毎日でした。

qbc:
小学校はどんなことを?

ハイジ:
小学校はですね、体が小さくて、学年でいつも2番目に小さい子供で。小さくておとなしい子でしたね。単純に絵をみんなに描いてあげることで、ちょっとそういう意味での人気者だったかもしれないとは思いますけど、おとなしい子でした。

qbc:
中学校は?

ハイジ:
はい、中学校もですね、おとなしかったとは思うんですが、実は、ちょっと顔立ちが派手なのと体が小さくて細かったんですけど、胸がね、大きかったんです。だからそんなことでちょっと男の子にモテたというか、それをですね不良グループの女の子たちに、とてもよく思われなくて、意地悪されたりとかあったので、いじめではないんですけど、本人はおとなしく静かに過ごしてるのに、そういう面で意地悪されて学校が嫌だったです。洋楽ばかり聴いていました。

qbc:
高校は。

ハイジ:
高校はですね、行きたかった学校には行かれず。どうでもいい、特に行きたくないような学校に行きまして。正直言って中高ってあんまり楽しくないなと思ってました。高校の3年生のときに母がくも膜下出血で急逝しまして。
当時、妹がまだ中学校1年生で、心臓がちょっと弱かったんですね。なので以降は母親代わりになっておさんどんするっていう感じだったので、正直学生時代を思い出しても特に楽しいっていう感じじゃないです。唯一外タレが好きで、コンサートとか中一から行ってたので同じ外タレ好きなお友達と外タレ話するのだけが楽しかったっていう感じです。

qbc:
誰が好きだったんですか?

ハイジ:
えっとですね、デュランデュランとかジャパンっていうグループがいまして。あとはミーハーだったんでそのとき流行っているもの、ミュージックライフっていう雑誌とか、ロッキングオンとか、何か音楽雑誌を毎月買っていまして、当時LPレコードだったんですね。
それを友達の家に持ってって聞いたりして。一緒に雑誌見たりとか、そんなことばっかりやって。
なんだっけ、ビックリハウスっていう雑誌かな。今でいうサブカルまでいかないけど、なんかそういう雑誌があって、そういった雑誌を学校であんまり読んでる子いなかったですね。一人で読んではクスクス笑うみたいな。
そうですね、私ちびまる子ちゃんを見たときに、野口さん、野口さんが自分と重なって見えました。そんな子供でしたね。

qbc:
ビックリハウスって宝島じゃないんでしたっけ。

ハイジ:
そうそうそう、そうだ。あの当時、確か女性の編集長の方が高橋章子さんだったかな。なんか面白くって、大人の世界に何となく憧れて。
そうなんです。当時たのきんトリオとかが流行っていて、中学校の時に「金八先生」とかやってて、次の日みんなが学校で話してるんですけど、私全然日本のタレントさんに興味がなくてドラマとか見てなかった。だから学校でそういった話の輪に入れなかったですね。

qbc:
わかりました。
パルコ出版ですね、ビックリハウスね。

ハイジ:
あ、そうだ!「おもこしていた」。
そんな子供でした。

qbc:
街はどこが好きとかってありました?
ご出身てどちらだったんですか?

ハイジ:
はい。武蔵小杉。東急東横線の武蔵小杉で育ってます。

qbc:
そしたら好きな街ってどこだったんですか?

ハイジ:
そうですね。外タレのね、コンサート行ったりするのに渋谷公会堂とか行ってたんで、渋谷が好きでしたね。渋谷が好きで、母の買い物で多分渋谷と自由が丘に週に3回ぐらい行ってたかな。

qbc:
高校の後は、進路進学は?

ハイジ:
はい。短大に。母が亡くなって、私自身は4大の共学の学校に行きたかったんですけど、父は役人でちょっと頭が固くて。女は4大行っちゃうとお嫁に行かれないから、近所の短大、それも国文科に行けって言われて、唯一反抗して英文科に。近所の短大の英文科に行きまして、そこでつまらない、女子だけの生活をしてました。
ちょっとアメリカにホームステイしたりとか、楽しい思い出ってそれぐらいですかね。
短大なんてすぐ卒業しちゃうんですよね。その後は株式会社バンダイに入りまして。めちゃくちゃ父に怒られて。入社して1年間口を聞いてくれなかったんですよ。信託銀行も決まってたんですけど、父が喜んでる姿を見て嫌んなっちゃって、メーカー受けて入ったんですね。私の学校からも金融に行く人間がほとんどで。あと学校の先生になるか、急に結婚しちゃうか。お見合いして結婚しようかっていう。

qbc:
卒業年って何年になります?

ハイジ:
えー何年だ?何年?何年だろう。

qbc:
1990?

ハイジ:
80年代の後半だと思いますね。確か92年が私25歳だから。

qbc:
バブルってことですよね。そしたら。

ハイジ:
そうなんです。楽しかったです。
本当にね、六本木で1万円札振って、タクシー止めてる人たちを見ました。

qbc:
なるほどね。
バンダイにはどれぐらいいらっしゃったんですか。

ハイジ:
バンダイはね、4年です。
まだ当時は結婚したら辞めるって、寿退社って言葉があったんですよ。

qbc:
もちろん、このときの言葉じゃないですかね。

ハイジ:
そうなんですよ。今でこそね、なんか多分会社の中に託児所とかあって辞めなくてもいいと思うんですけど、ちょっと肩たたきされるみたいな感じで。本当に続けたいなと思ったんですけど辞めました。
辞めてバブルが崩壊して、田舎のない私達は主人の稼ぎだけでは厳しいので、そのとき東京都目黒区の今のところに住んでいたので、保険会社に知人がいて、保険会社いいよって言われて、何も考えずに入っちゃって。

qbc:
ご結婚ってどのタイミングだったんですか。バンダイの時?

ハイジ:
バンダイにいて、25歳のとき、1992年。全然バンダイの社員とは関係なく、高校の同級生と結婚しました。それでバブル崩壊と重なりました。で、働かざるを得ない。
営業職につきましたが、嫌で嫌で3ヶ月間泣きながら帰ってきました。

qbc:
保険って個人か法人かっていう。

ハイジ:
私の場合はですね、法人担当で企業さん任せていただいたんですけど、お客様が男性ばかりなんでもう嫌で嫌で。研修期間中も泣きながら帰ってきました。
が、新人賞みたいなものをもらえるぐらい、実は入ってからすぐ成績良くて。
殿様営業っていうものを編み出しまして、そういうふうに世間で言うかわかんないんですけど。自分から営業するの嫌なんで、お客さんが買わせてくれっていう状態を作るっていう営業ですよね。そういうやり方を編み出しまして、以降はそれでお給料をガツっと貰ってました。

qbc:
それお姫様営業って呼ばなかったらなんなんですか。

ハイジ:
そっか、お姫様営業って言うんですね。私、殿様営業だって思ってたんですよ。お殿様。
でもお姫様ですねそれね。いいですね。

qbc:
この会社を辞めるのと、起業が?

ハイジ:
全然リンクしなくて。はい。

qbc:
会社を辞める?

ハイジ:
バンダイを辞めて、すぐ営業職。営業職を4年間やりまして。32かな。主人が関西に転勤になったんで、私も辞めてついていきまして。

qbc:
で、お父様が亡くなられる‥

ハイジ:
のが、まだそっから先の私が47になるときなんですね。
子供を産むまでの3、4年間は遊びまくって、毎日大好きなゲームざんまいで、36で初めて子供を産みまして。結婚11年目ですね。
子供が嫌いで産む気なかったんですけど、直前にちょっと病気で入院しまして、1人ぐらい産むかと思って計画して産みました。
40のときに子宮頸がんって告知されて、手術をして、子宮が丸々残ったんで、もう1人産むかと思って、また、42で産みました。私が47のときに父が亡くなって。下の子がまだ幼稚園なんですけど、ちょっとお金不足してるなと思いまして。でもパートもないしで、起業しました。

qbc:
YouTubeが48とかのタイミングですか?

ハイジ:
YouTubeがですね、52歳です。

qbc:
すいません、今おいくつでした?

ハイジ:
今57歳です。

qbc:
なるほど、なるほど。ごめんなさい、10年ぐらいズレて認識してました。すごいですね。
亡くなられて、起業して、自由が丘のアパレル、芸能界中心に売れ始めて、その後の流れってどんな感じになるんすか。

ハイジ:
ラフォーレ原宿の中に商品出せていたことがラッキーで、芸能人の方に買っていただいたりっていうことですね。実はその店はテナントでして、社長がですね、急にラフォーレの店閉じるって言い出したんです。

私はですね、そのときに本の出版の原稿を書いていて。普通クリエイターだと、例えばデザフェスとか、何かイベントに出たりして、手売りとかってしている人が多いんですけど、私はイベントにも出ず、委託店だけに任せていたので、ラフォーレがなくなっちゃうと収入がなくなっちゃうんですね。ただ原稿を書いていたんで、動けなくて、これまずいなと。で、それで2018年の秋にまもなくラフォーレなくなるって聞きまして、2018年の終わりに、店無くなるんだったら自分で店持つかって思いまして、東京都目黒区に物件借りまして、2019年の4月に「ボンボンチェリーハイジの店」という名前で店を出しました。

2019年オープン時からすごい順調にスタートしまして、2019年の12月に堀江貴文さん、ホリエモンさんとお食事する機会がありまして。私は店では金髪のアフロをかぶって販売してたんです。それで、堀江さんに会う記念に、アフロにサインしてもらおうと思って、ヅラを持ってたんですね。

qbc:
アフロに。

ハイジ:
はい。アフロのね、脱ぐと裏側にペンで堀江さんがサインしてくれて。「お前はこのアフロをかぶってYouTube毎日やってんだろうな」って仰ったんですよ。で、当時堀江さんは他人にYouTubeやれよやれよって勧めてるときで、芸人さんのカジサックさんがYouTube始めたばかりのときだったんですよ。なのでみんなにも言っていて。お前も当然このアフロ被ってるぐらいだからやってるんだろうって言われて、私「はい」って言っちゃって。やってなかったのに。勢いに負けて言っちゃって。
それでその堀江さんとのやり取りの2日後から自分で撮り始めて、毎日配信し始めたのが2019年の12月です。で、そのおかげで2年間毎日やったらですね、もう後半の3年間は、当時のロング動画を編集さんにショート動画にしてもらってアップするだけでですね、集客ずっと変わらずっていう感じでこの5年間、5年近く来ている。なのでリストマーケとかも全然やったことないし、ありがたい状況です。堀江さんのおかげです。

qbc:
今、何かこれをやりたいことっていうか‥ごめんなさい。そうですね。
ひとまずちょっと、すごい駆け足で人生パーと振り返っていただいて‥
すいませんその前に、ご両親からどのように育てられたと思いますか?

ハイジ:
優等生になるべく育てられたっていう感じです。ただ両親はそれを望んでいましたが、優等生であったかって言われたら、成績が良いときもありましたが優等生にはなれなかったですね。両親はこんなはずじゃなかったっていうふうに多分ずっと思っていたと思います。

qbc:
自分自身はそれに対してどういう?対応というか‥

ハイジ:
これを教訓にというか。小さいときは親も厳しいですし、期待も大きくて、結局それは叶わなかったんですけど。今、女性のクライアントさんが多くて、正直このときの私の体験が生きてるというか。私、母が亡くなったことで自分の人生が開けたみたいな感覚があるんです。なんかそういう、母に縛られずに解放されて、自分で人生を切り開くみたいなことができたので、私自身は正直言うと母の死がありがたいって言うと変なんですけど、あんまり言ってませんが、そういう感覚がありまして。子供だった私には、両親が毒親だということはわからなかったんです。クライアントさんたちを見ていても、両親からのしつけとか教育の影響が大きくて、50、60、70になっても苦しんでるみたいな人たちがいっぱいいるんですね。
だから私自身は親から解放されて本当にラッキーだったっていうふうには、実は思っています。
なのでちょっと自分の子育てもですね、勝手にというか好きな道に進めばいいと思っているので、レールを敷くようなことを全然しませんで、男であっても女であっても、どんなであっても元気だったらいいよっていう感じでした。なので、逆に大学生の息子に「もっと厳しく勉強しろって言って欲しかった」って最近言われて、子育てってうまくいかないなってちょっと思っていますが。自分がされたような押し付けは、自分の子供にはしなくて済んだかなって思っています。

qbc:
いくつ置いてもいいんですけど、人生の転換点があるとしたらどこに置けると思います?

ハイジ:
そうですね。一番大きいのが、営業職を始めたことだと思います。なので、バンダイを辞めて、営業を始めた27歳か。このときですね。

qbc:
なぜですか?

ハイジ:
はい、それまでずっとおとなしくて引っ込み思案で。なんですけど実はこういう外見なんで、バンダイのときもギフトショーでステージに立つとか、あとおもちゃショーとかウルトラマンのお姉さんとかもやらされていたわけです。マイク持ってちびっ子たちを相手にとか、怪獣に襲われたりとかっていう。そういうの嫌で嫌で。辛くて辛くて嫌だったんですが、自分で営業職を経験して、自分でセールスして集客してっていうことをやらなくちゃいけなくなったんですよね。
だからもう、おとなしいとか引っ込み思案とか言ってる場合じゃなくて、泣きながらでもやらざるを得なかった。でもそれを乗り越えたりスキルを身につけたことが、今稼ぐっていうことに繋がっているんですよね。だからこのきっかけ、この営業がめちゃくちゃ大きなきっかけになったと思います。

未来:自分の人生を生きたかったら、他責にしない。全部自分の責任と思って自分で判断して、自分で選び取っていくっていう。

qbc:
ありがとうございます。
未来について聞いていきたいんすけど、5年10年、最後自分が死ぬっていうところまでイメージして、今未来ってどんなイメージを思い描いてます?

ハイジ:
はい。元々、他力感満載のスピリチュアルとか大嫌いなんで、自分でとにかく切り開くって思っていて、120歳ぐらいまでは生きたい。少なくとも90歳まで生きるって自分の中では予定していて、それに向けて体力作り、ジム通ったりとか何だとかってしてますから、現役でバリバリと稼ぎ続けるっていう未来は描いています。
もうちょっと楽しく自分の遊ぶ時間も確保する予定です。

qbc:
今の仕事の働き方変えたいっていうお話だったんですけれども、変えるっていうとどんなイメージを今してます?

ハイジ:
そうですね。単純に労働時間を3分の1にして売上を10倍にしたいっていうのが直近の目標なんですけど。今もやりがいがあって楽しいのですが、マンツーマンの仕事なので、この形をもう少し、1対5、1対10、対100とか、そういうふうに変えて、労働時間短くして、遊びに行くっていうことをしたいです。

qbc:
仕事の話になっちゃうんですけど、いわゆるお弟子さんを増やすというか、教える人を増やす、自分がコンサルティングをしない方式っていうのもあるかと思うんです。出版もそれの近い形ですけど、こっちのシナリオっていうのはもう考えてらっしゃる?

ハイジ:
はい。準備中です。

qbc:
はい。人を育てる系も。

ハイジ:
人を育てたり、あとは単純にコンテンツを考えて販売とか。あと影になって、今はYouTubeとかで集客してるんで自分が表に出てますけど、影でプロデュース業みたいなことが将来的にできれば、アーティストのイベントの企画とかね、私がアイディアを出すけども動いてくれる人は自分の会社の人とか、クリエイターさんをサポートする誰かを育てるとか、そういうふうにしたいなと思っています。

qbc:
空いた時間に何をしたいと思ってらっしゃいます?

ハイジ:
遊びたいですね。
楽しいことが好きなので、楽しいことやってる場所に行くのも好きですし。
自分自身はもっと筋トレする時間が欲しいんです。

qbc:
筋トレ。

ハイジ:
前に一時ライザップでガツっとやってた時期がありまして。体重を落とすことが目的だったんですけど、そのときに筋トレの楽しさを知りまして。今も行ってるんですけど、パーソナル1週間に1回だけなので、ムキムキになるっていうより維持で精一杯なんですね。だから今度はちゃんと、大会は目指さないんですけど、結構ストイックにやりたいなと思っていて。筋トレの時間を取って、犬飼って熱帯魚と遊びたいです。

qbc:
もしも未来の質問というのをしていて、もしもお母様が亡くなられなかった世界線を考えるとどうなりますかね。

ハイジ:
怖いですね〜。それ時々ね、知人と話したりすることあるんですけど、母が亡くなってなかったらおそらく、ガツッと敷かれたレールに乗って、学校選びから配偶者選びから全く違ったものになっていたと思います。
きっと自分で人生をコントロールしてるっていう感覚がないまま、今みたいに楽しいとか思ってなかったんじゃないかなと思いますね。もっと嫌な女になってたんじゃないかなと思います(笑)。

qbc:
なんでそのお母さんの呪いみたいなものから、多くの人は逃げられないんですか。

ハイジ:
まずですね、小さい、物心つく前の段階からこれが正しいんだって、その家庭で決められたことを押し付けられるわけですよね。で、それが子供は正しいことだと思って生活してきてしまうわけですね。
大きくなってから、気づいて反抗して、お母さんから離れるとか、家から出てね、生活するみたいな人もいますけど、多くの女性は、お母さんに好かれたいっていうのかな。いい子でいれば、お母さんに好かれたり、お母さんと良好な関係が保てるというふうに思い込んでる人が多くて、40でも50でも60なっても、お母さんの言いなりな感じなんですよね。見捨てられたくないとか、お母さんとの良好な関係を壊したくないっていう人が多い。総じてそういう女性はみんな職場でもいい子、学校でもいい子なイメージですね。和を乱さないように生きてるっていう感じです。

qbc:
どうやってその呪いを解くんですか。

ハイジ:
まず、どのコンサルタントも同じだと思うんですけど、現状把握が大事なので、現状こういうふうになってますよっていうことを客観視して伝える。
その段階で本人が気づく場合も多いですね。自分と母親の関係ってこうなってるんだとか、自分で考えてるつもりのことが実はお母さんの考えてることをそのまま自分はいいと思って自分の考えだと思って表現してたとかって気付くわけですね。
気づいてからが結構大変で、気づいて知りたくなかった、知ってしまったがためにお母さんと葛藤が生まれてしまうっていうか。今まで良好だと思っていた関係なのに、実はお母さんが急に嫌いになっちゃって、良好な関係が保てなくなっちゃうみたいな人も少なからずいるんで。
現状をお伝えするだけで、気づかせてあげるみたいなことは自然になっちゃうんですね。だから、客観視できてない人が圧倒的なんで、客観視してあげるだけで、気付ける人がほとんどです。そっから先はなかなか難しい人もいます。

qbc:
ありがとうございます。
最後の質問が、最後に残したいことはっていうので、遺言でも読者メッセージでも、インタビュー受けた独り言みたいになってるんですけど、最後に残したいことがあればお伺いしております。

ハイジ:
自分の人生を生きたかったら、他責にしない。全部自分の責任と思って自分で判断して、自分で選び取っていくっていう。もう毎日が選択の連続なんで、とっとと自分で決めてやっていく。「人生万事塞翁が馬」精神で巻きとって進んでいく。それを子供たちや、よりよく生きたいと思う人たちにも伝えたいです。

qbc:
ありがとうございます。

あとがき

人生何があるかわからないものです。

【インタビュー・あとがき:qbc】

【編集:夕星】

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