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写真と人インタビュー Rulu-004 2023/09/13

この連続インタビューのタイトルが決まりました。
「《何か》と人」インタビューです。Ruluさんのインタビューは「写真と人」ということになります。前回

よろしくお願いします。

まえがき:qbc(無名人インタビュー主催・作家)


導入

——いかがでしたか?

昨日撮影してきたんです。以前モデルをしてくださった方の紹介で。
今までは、演劇をしてる方とか、モデルさんだったり、撮られ慣れてる人がSNSでの応募を見つけてくれることが多かったんですよね。
ただやっぱり、いろんな人間を撮りたい、女性を撮りたいっていう気持ちがあるので、モデルとか被写体活動をしている人ばかりに偏るのはちょっとよくないなと思って。

普通の主婦だったり、一般の方だったり、いろんな人を幅広く撮っていきたいなって思うようになってきてるんですね。
それを聞いて、わたし主婦ですと応募して来てくれた方ですね。

撮影のスタイルとしては、とてもベーシックというか、変化球ではなくて。
なおかつ今回は、彼女のご自宅にお邪魔して撮影をしました。
初対面なので、やっぱり自分の部屋に入れるとか、自分の部屋を見せるとか、抵抗感がある人が多いと思うんですよね。
自宅が撮影場所としては一番いいとは思うんですけど、なかなかできなくて。

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今まで自宅で撮ったのは、2人ぐらいですかね。彼女で3人目ぐらい。
あんまり多くはなくて、ただやっぱり、なんだろう、その人が住んでる家で撮るっていうのは、すごくいいなと思いました。
より、なんでしょう。

外だと、なんだろう。
会社に行く、遊びに行く、友人に会う。外に出るときって、やっぱりお気に入りの場所であっても、何かしら、この場所だったら自分はこうあろうとか、そういったものがすくなからずあったりすると思うんです。

家は、そういった意味では、すごくその人にとってニュートラルな場所なので、より集中して撮影ができる感じがしました。

あと、本棚とか面白いですね。人の家の本棚。

——本棚以外で、「らしさ」を感じる場所はありましたか。

クローゼット。
すごく洋服が好きな人だったというのもあって、この人らしいなと感じました。
クローゼットといっても、クローゼットに収まりきってなくて。
洋服の半分は、ラックハンガーが4台ぐらいあって、そこにかけてある。
ハンガーラックの間にできた通路を通って、その先にベッドがあるぐらいの感じで。
寝室っていう場所の大半を、洋服が埋めつくしている。

それがすごく特徴的でしたね。
あと、洋服の感じも、フリルとかレースとか、オフィスカジュアルとかにはないような、キラキラしたようなワンピースだったりとか。
そういったものが、何か、うん。なんだろう。
最後、洋服をベッドに山盛りにして、そこに埋もれて撮ってみようって言ったんですけど、ハンガーがぎちぎちに詰まりすぎて、なかなか取れないぐらいで。

ヌード、自己肯定感

一方で、ヌードも撮影したんですね。
それって何でだろうって思うんですよね。
何て言ってたかな。ちょっとノートを探してますね。
彼女、instagramをやっていて、そこでは画像加工した写真を投稿してるんですね。
いわゆる盛れるアプリで写真を撮って、おしゃれな洋服を着て、所謂キラキラインスタグラマーみたいに、盛った写真を載せていて。

以前は、画像加工すると「加工してる」っていうふうに言われてたのが、
今では、盛れてない普通の写真を撮ると、なんで加工してないの? みたいに言われたりするみたいな。
なんでしょう。
女性がすっぴんで会社に行くと周りの方に失礼みたいなビジネスマナーの一つみたいなのがあるじゃないですか。
男性はしなくていいけれども、女性はちゃんとファンデーション塗って眉を描いて、顔色が悪くないようにリップを塗って、ということをビジネスマナーで教えられるわけですよね。
すっぴんで仕事の場に来るのは失礼だって。

自分の素顔が失礼だなんて、今では失礼な話だと思うんですけど。
画像加工が一般的になるにしたがって、未加工の画像がノーメイクと同じように扱われるように、いつかなるんじゃないかなっていう怖さが、最近ちょっとあるなと思います。

特別なスキルがなくても、Photoshopの技術とか。今は誰でも簡単に画像加工できるのにも関わらず、
全く盛れない私の現実カメラに映ってくれるっていうのは、何故ですかっていうのを、
まず彼女に聞いて。

綺麗な服を着て、おしゃれなとこに行ってとか、みんなに見せようとかinstagramに載せようとか思って、画像加工して綺麗な写真にして投稿ボタンを押すんですけど。
でも、投稿ボタンを押し終わって表示された瞬間、なんかちょっと虚しいらしいんですよ。
それでも未加工の自分、盛ってない自分、いけてない自分をinstagramに載せようとはしないわけで。

instagramに載せている自分が本当の現実ではないということは理解していて。
だから、他者である私のカメラに映りたいっていうのは、どこかで素の自分を見たい、他者の視点で省みたい、っていう気持ちがあるんだ、と言ってましたね。

でもその、未加工の写真を撮られても、受けいれられないわけではないらしくて。
昔から美術とか写真とか、文学とか、そういったものが好きだったそうなので、例えば自分は写真を撮れないけど、誰かが作る作品に写ることで、その片棒を担ぎたい、みたいな。
自己肯定感が低いので、そういった形で誰かの役に立てる喜びを感じられるって。

だから、instagramに載せる写真を撮る動機とは、全く別のことが起こっているんだなと思いました。
キラキラしたものとは言えない現実を再認識したかったり、できれば本当は自然にいたいっていう願望があったり。
自分の本当の姿を見たいし、願わくばその飾ってない姿でも、素敵であるといいなっていう願望があるそうです。

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——自己肯定感が低いと言う人は多いですか。

そうですね。今まで参加してくれた方は、多いんじゃないかなと思います。
自分が好きとか、自分を知りたいとか、自分を見たいっていう気持ちもあるし。
人に必要とされたりとか、何かの役に立ったとか、それが成果物として表れることで、自分の役割がその瞬間与えられることへの喜び。
自己肯定感という言葉が出てくるたびに、あぁまた・・・と思うんです。

——なんで出てくるんですかね。

なんで出てくるんでしょうね。
こちらから尋ねるわけでもないのに、皆さんご自分で、私は自己肯定感が低いのでとか、自分に自信がないんです、とか話の中で高頻度で出てくるわけです。
それは、応募して集まってきてくれる人たちがたまたま特別、そうなのか。
あるいは、わたし達の全体がそうであるのか、それは気になっています。

——撮影する中で、自己肯定感と関係するようなことは、何か感じていますか。

自分とその人の、1対1じゃないですか。
その空間で撮ってるうちに、だんだん互いにシャッターの音に没頭していくというか。
私はずっとその人を見ているし、その人がそれでいいと思って、シャッターを切るし。
それは、私があなたを肯定していますよ、という一種の表明でもあると思うんですね。

例えばちょっとその表情よくないなとか、写りがいまいちだなとか思って、腕組んで顔をしかめながらシャッターを切らないでいたら、極端な話ですけど、やっぱ私じゃ駄目なんだって思わせてしまう。

実際に会った後で、私で大丈夫ですかっていうふうに言われることもあります。
万人に愛されるっていう自信を、持った人なんて多くはないですよね。

撮影の時間の中では、その人を見て、話を聞いて、否定する理由が何もないので。
結構シャッターを切る回数も多いんですけど。

なんか、レンズを向けた時に、これでいいんだとか、こうしていていいんだとか、
どうするべきか、やっぱり顔色をうかがったりとか、
社会に適応できる人ほど、撮影中でも、何かこの場ではこう立ち振る舞うべきだとか、
こういう表情が求められてるんじゃないかなとか、先読みしてポーズができちゃう人とか。それは、別の場においては素晴らしいことなんですけど。

そういうのが、もうだんだん気にならなくなってくる、撮ってるうちに。
最初はこれでいいのかな、大丈夫なのかなとか、撮れてるのかなとか、使える写真あるのかなとか、やっぱ不安だと思うんですけど。
本当にいい写真が撮れたり、感動したりしてるとき、「あー。」とか声が出ていたりする時もあるので、一人で勝手に、気持ち悪いんですけど。
だから、いいんだ、このままでいいんだ、私はこのままで大丈夫なんだって。
その瞬間だけでも思ってもらえるといいなみたいな、そういう気持ちではいますね。

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——その感覚があったことの合意は、二人の間でとれているんですか。

実際に明確な合意があるわけではないんですけど。
時間の経過の中で、最初はすごくぎこちなく始まって、やっぱり自分の家であっても、ちょっと所在なさげというか、そういう感じにしてたりとかもするんですけど。

でも、ポーズとかそんなに作らなくていいし、好きに過ごしてってもらっていいし。
ここすごく光が綺麗だなと思ったら、ここで何か好きなことしててくださいくらいの声掛けをして。

そのぎこちないっていう雰囲気から、だんだんだんだん、なんでしょう。
シャッターを切ってるような感覚がなくなって、向こうも撮られてるような感覚がなくなる。
自然にそうなっていく、呼吸のように。慣れてくると。
例えばプールに最初入って、水に潜ったときにすごく違和感があったりとか、重力の違いとか感じたりするけど。
冷たいとか温かいとか、ぬるいとか、それがずっとプールに入ってたら、ちょうど適応していくというか、馴染んでいく、自然な感じになってくる。

私が感じる感覚としては、そういう感じですね。
それって多分、向こうがばたばたばたばた落ち着かなければ、私も落ち着かないんですよね。
そっちが気になって、というか。
でも、そういうことが、その、気にならなくなっていくってことは、お互い埋没していくというか。

——埋没は、どこに埋没するんですか。

その時間に。
そういう感覚が、お互いにあるんじゃないかなと思いますね。

ゆらぎ

——それは第1回目のインタビューで「ゆらぎ」と話していた感覚ですよね。そこに至るまでの平均時間というものは、ありますかね。

何分後なんだろう。
意識してないけど、でも最初の30分とかは、大体、まだ探り探り。
そうだな。昨日は4時間ぐらい彼女の家にいたのかな。
多分ほとんど撮ってて、2時間過ぎたら馴染んでるし。

だんだん、疲れてもくるじゃないですか。
緊張感とか自分なりに調整して集中力を持続させているけど、でも、それを疲れが超えてくると、なんだろう、繕いきれなくなってくる部分が必ず出てくるんですよね。
飲み物を飲んだりとか、タバコを吸う人だったらタバコ吸ったりとか。
ずっとカメラを意識し続けても、きついはきついと思うので、ちょっとずつ、レンズに対して構っていられなくなってくる。

でも、そういう時に。
そういう、その後に撮れる写真が、私は好きですね。

——その状態と撮影場所は関係ありますか。

屋内の方が、ゆらぎまでの所要時間は短いかもしれないです。自宅だったりとか。
そうですね。やっぱり外だと、警戒したり気を取られるものが、屋内よりも多いので。
密室とか、そういった空間の方が、内省的なモードに入りやすい。

——今回の撮影では、どの写真からが、その時が来たあとなんでしょうか。

途中で本を読んでもらってるんですけど。
部屋のここ、すごく綺麗な光が入ってて、私もお茶を入れてもらって休憩しながら、彼女にはここで何か好きなことしてくださいって言って。
いや、何か好きな本でも読んでてくださいって言ったのかな、私が。

彼女は本棚から本を選んで。
そうしたらもう普通に、しっかり読み始めちゃって。
本が好きなんだなと思って。見てて。
このあたりで、そのなんだろう、外への意識っていうのが、自分の世界、自分が1人で家にいるときみたいな感じに多分、シフトしてると思うんですね。

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本を読む前は、鏡がテーブルの近くにあるので、鏡をよく見て、唇の荒れを気にしてたりとか、そういう感じが多かったんですけど。
本を読んでリラックスしたのか、その後、私は鏡越しに写真を撮っていて、
このあたりから、彼女は、いわば侵入者の私がいるっていうことに馴染んできたのか、
最初はいらっしゃいませ、お邪魔しますのお客さんの状態から、
同じ空間に人が一緒にいるけど、まあいいやみたいな感じ、
いるっていうことを、多分だんだん意識しなくなってきて、

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私は、
彼女の視界から外れたところで写真を撮ってみたり、
彼女に直接レンズを向けずに、私が見てなくても、
何て言ったらいいんでしょうね、大丈夫な感じに。

お互い関係性が、すこしできてきたような、できてくるような感覚。

その後、彼女の寝室に場所を変えたのですが、なんだか肩の力が抜けたような、最初と比べると、
そうですね、肩の力が抜けたような自然な感じでそこにいます。

一方、私はそこで、そのままストレートで1回撮った後は、
なんかちょっと、シルエットっぽく、ちょっと彼女の顔が見えづらく写真を撮ってて、

これはなぜかわかんないけど、
多分何か私の問題な気がするんですよね、その行為は、

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——抽象的ですね。

そうですよね、
何か私、無意識に、無意識にというか今まで撮った自分の写真をよくよく見返すと、
結構、顔をガードしてるというか、
はっきりと顔が見えるものも撮るんですけど、
なんか顔が陰で見えないとか、葉っぱとか植物で、その遮られてるとか、
何かに顔が半分隠れてるみたいな写真を撮っていることが多くて、

そういうふうに存在するのは相手だけど、
顔が見えないか、はっきりとは見えないように撮りたいっていうのは、
他の人に対しても、

私が、なんでしょう。
例えば技術的に、構図の取り方であえてそういうふうにしているわけなので、
意識はしていなくても、自分が故意にそう顔をはっきりと見えないようにしたいんだなって。ぼんやりそれが、なんでだろう。

まだ考え中なんですけど、
その、何か、相手に近づきたいとか、よりその、深く知りたいとか。

そういう欲望、気持ち。
欲望がある一方で、顔をはっきりと撮らないというのは、ちょっとブレーキみたいなものなのかもしれないです。
自分の中で、ちょっとブレーキ踏んでるのかもしれない。
そういうのもありつつ。でも、彼女はすごく自然にしていました。

例えば4811とか。
私デジタルは、35mm単焦点のレンズ一つしか使わないんです。
これ1本しか持っていかないので、
引きの構図を撮りたいときは、本当にすごく離れないといけないし、
顔や身体の一部に寄りの構図で撮ろうと思ったら、どれくらいだろう、10cmとか15cmぐらいの距離に、実際に物理的に寄らないと撮れなくて、
でもそこまで撮って、寄っていっても、なんでしょう、
ふうっと、ナチュラルにこちらを見返すような感覚っていうのは、
そういったことから、何か外れてるような印象を受けるんです。

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精神科医

——今回の撮影自体の感想はいかがですか。

やっぱり家というのは、その人にとってすごく重要な場所なんだなと思いましたし、
できれば自宅での撮影というのも、まだ回数すくないので、増やしていきたいというのが、
まず最初の感想で、
結局4時間ぐらい撮影していたのかな、彼女もすごく疲れたと思うんですけど、

これが最後です、
最後の1枚です、
って言って、
お疲れ様でしたって言ったときに、
なんかもうふぁあって顔がほころんで、楽しかったって言ってて、
ほっとしたって。

——自分自身の感想はどうですか。

私もほっとしたかな。
なんか、あんまり。
自分の感情を認識するのって難しいですね。

——自分の感情を自分で把握している人は、すくないですよ。

そうなんですね。そっか。
確かにあんまり気にしないですもんね。
自分がどんな気分か。
ないですね。

そうだな、難しい。

自分のことはさておき、やっぱり目の前に起こってることに対して、
反応したり吸収したり感じようということしか、
多分意識してないので、
無意識で感じてるであろう自分の感情が、見えないですね。

私、すごくすごく昔に、10年か、もっと前ぐらいに、精神科に通ってた時期があって。
その先生が、精神分析がすごく好きな先生で、
フロイトとか結構好きな、ご自身も本を書いていたりとかするような方で、
そのカウンセリングが、わりと自由連想法に近いような感じなんですね、

ちょっと今、頭の中に浮かんでることを、なんでもいいので、言ってください、
って言われて、

始めの何回かは、何にも言えなかったです、何も、
何も考えていません、みたいな。

そんなわけないんでしょうけど、何も浮かんでこなくて、
単語がバラバラになって、
文字がバラバラになって、
洗濯機みたいになって、
頭の中でぐるぐる回ってるみたいな感覚が、そのときはあったんですけど、
それを何か意味のある言葉として取りだすのとか、無理じゃん、みたいな感覚。

ずっと言葉にできなくて、苦しまぎれに昨日見た夢の話を一生懸命して、
でも夢の話は精神分析において、重要な情報となるので、
先生が参考になりましたって聞いてくれて、「何か言えた」と思って。

しばらくはそういうことをやっていて、
なんでしょう、無意識に対して、自分でアクセスしにいこうとすることは、すごく難しいんだなって、そのときに思ったんですよね。
でも先生がおっしゃるには、それが喋れるようになるってことは、
問題になっているできごとが整理されてきているっていうことだから、
だから喋れるように言語化できるようになったら、治ってきてるというか、
いい調子というか、中のバラバラしたものが統合されてきている、
というふうに見るようなので、
なんか本当に、自分の気持ち、すごくわかんないし、すごく苦手でしんどいけど、
ちょっと自分で、無意識のふたを、ちょっとすいませんすいませんって言って、
トントンして、アクセスしに行こうとするっていうことは、大事なんだなっていうことは、わかったけど、

夢を見ること以外に、自分の感情にアクセスする方法がわからなくて、
そのときは、自分のために写真を撮るということを、していました。

自分の心の澱みたいなものとか、負の感情とか、そういったものを、
もうとにかく投影して、写真を撮って、それを見て、私は怒ってるんだなとか、
そういうのを認識する練習みたいな感じで、

写真の力をそんな風に使ってた。
でもそれって、相手にとって、何かすごく失礼だったなって、
今になって思うようになって。

だからなんだろう。その贖罪のためじゃないんだけどね、
そのときは相手の話なんか全く聞かなかったし、
聞かなかったけど自分の心の汚いものをぶつけようとしたりとか、
そしてそれを可視化させるみたいな、
そういうことをしてたので、
相手の話を聞く、傾聴するとか、目の前の人を見るとか、それでも表現だからやっぱり自分というものは反映されちゃうんですけど、相手の存在に対する尊さを今は感じています。
そういった意味で、写真を撮り始めた頃とは写真との向き合い方が変わってきてますね。

——対象が物だと「ゆらぎ」は起きないですか。

起きないですね、きっと。
人と人との関わりとか、人間がすることとか、作ることとか、
そういうものじゃないと、ゆらがないような気がします、

痕跡

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——デスクとマグカップには、何かしら執着があるのですかね。第1回のインタビューの際にも、デスクとマグカップの写真がありました。

本当だ。

多分、私の、個人的な、なんでしょう、人が何か残した残留物みたいなものが。
多分そう、この写真の飲み物は、全然残留物じゃなくて、ちゃんと新鮮な、出されたばかりの冷たいものなんですけど、
空間的には、人気がない感じがするのに、彼女が着替えに行ったりとか、トイレに行ったりとか、多分この空間にいないときなんですよね、これを撮影したのは。

それで、その人の痕跡、
さっきまで人がいたけど、今は誰もいないみたいな、そういう残留物、

そういった残留物に自分が惹かれる理由には、心当たりがあります。
(追記:小学生のころ父だけを置き去りに、家を出た母についていったが、何度も父の家に通い、父が存在している気配を感じて安らぎ。それが或る日、当然消失して人の気配の消えた家になっていたときの取り返しのないような絶望感。その体験に由来しているのではないかと、指摘されてすぐにその理由が思い浮かびました。)

あと私、裸眼がすごく、目が悪いんですね、
0.3と0.06、
今は多分、もっとそれより落ちてると思うんですけど、

基本的に、視力矯正してないんですよね、
眼鏡をかけずに、コンタクトは度が入ってないものをつけて、
それは何か、なんだろう、ちょっとぼやっとしてるぐらいの方が、いいなって気にいってて、
眼鏡とかあんまり掛けない。

わざわざ好きこのんで、現実をこと細かく、
例えば電車に乗った隣の人の髪の毛1本1本とか、街の汚い感じとか、
別にそんなにクリアに、ガチガチに絞ってピント全部合わせて見ないといけないようなものでもないかな、みたいな感じで、
それはわりと昔からそうですね。

——以前に、駅の窓ガラス越しに外を眺める写真がありましたね。

確かに。2回目かな。
こういうのは、人に会う前の、歩いてる途中で撮りますね、
まだ空っぽというか、なんかただ、あるなっていうだけで。

うん。ええ。うん。はい。はい。はい。
うん。はい。うん。うん。はい。はい。はい。はい。はい。はい。はい。
うん。うん。なるほど。
そうですね。はい、大丈夫。うん。うん。はいはい。はい。ふうん。はい。
ふうん。はい、うん。はいはい。はい。はい。うん。うん。うん。
うん。はい。めっちゃめちゃ楽しいし、嬉しいです。
さっき言ったコーヒーとか、食事の写真とか、レースとかカーテンとか、何か越しにとか、

そういうのって、
例えば写真家の作家性とか、作っていく上ですごく大事な要素なんですよね、
でもやっぱり無意識に撮ってるから、
本当に無意識すぎて、なかなか気づけないんですよ、そこに。

でも、いつもこれを撮っちゃうとか、
それが自分にとって重要な1枚のような気がするのかとか、
そういう見えにくいものを、自分の無意識を、
自分でもわかんないわかんないって言いながらもがくのが、この仕事、ではないけど、

見えない自分の無意識を探しているので、
自分じゃない人に見せて、何でこれ撮るのとか指摘されたり、
違和感があると言われたりとか、印象に残ったりとか、
そういうのを聞くと、なんかものすごく、
なんだろう、ありがとうございます。

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終わりに

いちおう、「うん。ええ。うん。はい。はい。」のところを説明すると、このインタビューは、インタビュー参加者の言葉しか文字起こししてないんですね。
なので、私qbcの質問はメモから拾って書いています。
インタビュー中、私は質問しかしないので、それですむんです。

ただ、「うん。ええ。うん。はい。はい。」の部分は、私が私の考えを話した部分で、参加者の相槌があそこで入っていて、それをそのままにしました。

これは、もうひとつのできあがった記事というよりかは、聞き書きそのままではあるのだけれども、そもそも、記録ってそういうものでいいのじゃないかな。

制作:qbc(無名人インタビュー主催・作家)

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無名人インタビュー@12/1文学フリマR-04 (西3・4ホール)
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