陳腐な一夏に(七週目)
曲がって少し歩けばあの紫の花のある畑の背中側に来る。背中…勝手に花のある方を前にして言ってしまったが、こっち側には畑に入るためにちょっとした石の階段があるので本当はこっちが正面、お腹なのかもしれない。いやお腹と言うと畑の上を指すような気がする。となると顔か。背中に顔か。いや背中はお腹だろう。顔には何が良いのだろう。そう考えていた間にこれまでに何代もの子供の走り回る時の笑顔やそんな子の転んでしまった時の泣き顔を見守って来ただろう畑の顔の前を通り過ぎていた。
それからもう少しだけ進めば本屋がある。学校の無い祝日や日曜日の時にはよく朝からここに来てカズトと近所の植物や野鳥を図鑑で調べては更に色々な本を探して一つ一つ、もっと詳しい図鑑を作ろうとはしゃいでまとめていた。昼時に帰ろうとして彼の両親に引き留められご飯をお世話になったことは数え切れない。硝子戸を開けて入ると昔と変わらない優しい笑顔で彼の母が迎えてくれた。
「カズト君は」
「あら、うちにいると思うけど」
僕の母にも負けない程の甲高い声でカズトを呼んでくれた。「ちょっと待ってー」と返事が聞こえてくる。ここは本屋兼住居で彼の自室もこの本屋、この家の中にある。彼はよくそこで虫の標本や草花の栞を作っていた。この日は標本を作っていたらしく部屋からカズトと彼に標本作成の技術を教えていた父が出て来た。僕も彼の父さんにはよく作り方を教えてもらった。彼らはちょうどカズトの自室で標本を作っていたところらしく、六肢と翅を生き生きとしたまま針に刺されたキアゲハには父親とその直伝のカズトの腕が光っている。
「流石。立派な標本です。腕は健在ですね」
「ハハ。ガキんちょのころからやって来たが、おっさんになっても止められないもんでねぇ。今でも思い出してはやっているよ。君はどうかね。向こうには面白いのはいるかい」
「あ…いえ。いや、いるにはいるんでしょうけど何分忙しくて。また教えてくれませんかね」
「おいおい。ちっこいころいっぱい教えたじゃないか。大丈夫、案外体は覚えているもんさ。もうガキじゃねぇんだから一人で頑張んな」
何気無い会話だったがどこかはっとさせられる自分がいた。それと同時に僅かな、しかし鋭い胸の痛みを覚えて帰らねばならなくなった。最後にそうですね、と上の空の返事をしたのは覚えているが、それから突然建物を出て走って自宅に向かい始めた。カズトの両親を困惑させてしまったかもしれない。
帰宅すると自分の両親はもういて昼食の準備をしていた。息を切らして帰宅した僕を見て不思議な表情をしたが一刻を争っていたんだというような顔をしてトイレに入ってごまかす。しかしごまかすと言っても何をごまかさねばならなかったのか自分でも分からなかった。つまりどうしてそんなに急いでいたのかと訊かれても答えようが無かったのだ。それを考えようとしても頭が働かず、それどころか堰を切ったように涙が出始めやがて止められなくなった。トイレの中で一人泣き続けなければならなかった。
やっと涙が切れるようになった時にはトイレに入ってから十分程経過していた。まだそれ程不自然な時間では無いだろう。何の用も足さなかったが水を流して外に出て、両親に悟られないように自室に行ってしばし心を落ち着かせることにする。窓を開けて深呼吸。涙を拭きながらやっと落ち着いてきたというぐらいに丁度、母のあの甲高い声で「ご飯よー」と呼ぶのが聞こえた。
昨日一昨日と変わらない会話を交わしながら昼食をとり、その終わり際に母が思い出したように
「そういえば、先日の掃除はありがとうございました、ってあそこの神社の神主さんが言いに来てくださったわよ。あんたいなかったから代わりに伝えておいてくれって。あと、これ。いつかの落とし物らしいけど」
と神社らしいようならしくないような、角まで線がまっすぐ伸びた渋い色の四角の箱を貰った。何か落としただろうか。というか掃除を手伝った覚えも無いのだが。取り敢えずそれを受け取って部屋で開けることにした。
開けてみると赤色だったのだろうと辛うじてわかるくらいくたびれた毛糸の紐があった。なんだろうと思って取り出して見ると少し大きな輪っかになっている。あやとりの紐だった。
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