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ライカM3ショックと一眼レフへの潮流

史実は‥

 先日、本屋で立ち読みしたライカファンブックを
恐る恐る覗くと、やはり、ライカM3の紹介に例の伝説「レンジファインダー機(以下、RF機)として完成されたライカM3の登場により、日本のカメラメーカーはライカ追撃を諦めて一眼レフに移行」コレにより、ライカ自身を苦しめる事となった所まで記載されていました。
 この雑誌、当然協力はライカジャパンになっています。
 これはライカから見た歴史なので、致し方ないと思います。
 しかし、その後の日本メーカーから発売されたRF機を顧みれば、全然諦めていなかった事が分かります。
 これは以前Noteで書きました。

 簡潔に記載すると、ニコンはライカM3対抗機、最高級RF機ニコンSPを発売。
 ミノルタは同じく高級RF機、ミノルタスカイを開発、セールスの為に社長自ら渡米するも、現地の販売代理店社長や駐在員の助言で高級RF機を止めて、一眼レフに舵切り。
と、何れも日本メーカーはライカM3登場で奈落に叩き落とされたものの、諦めずに対抗策を講じた。
というのが史実です。

 一眼レフの潮流

 前回のNoteは基本的に、当時のミノルタ技術者の著書や各社のRF機の発売日等を裏付けに、M3ショック後も諦めず抵抗を続けた日本のカメラメーカーについてを考察しました。

 今回は、アサヒフレックスIIBの情報を探して遭遇した、『Internet Photo Magazine Japan』、元朝日新聞写真部部長の肩書を持つ吉江雅祥氏の記事にたどり着きました。

 吉江雅祥氏は1928年生まれ、朝日新聞社出版写真部に勤務、週刊朝日・アサヒグラフ、朝日ジャーナルなどの写真を担当され、元同社写真部長の肩書を持ちます。Web上では東京都写真美術館に作品が確認できます。存命なら96歳

 当時の新聞記者というプロユーザーからの視点が詳しく載っています。
 風説ではM3ショック後、日本のカメラメーカーはRF機を諦め、一眼レフに開発に注力した。という流れで、コレはメーカー側の視点になります。
 今回の、元朝日新聞写真出版部長 吉江雅祥氏の記事に目を通すと、徐々に一眼レフに移行する潮流が垣間見えます。

 吉江雅祥氏の記事では、氏が、朝日新聞出版写真部に入る2年前に
「カメラ雑誌は一斉に一年ほど前に発売された東ドイツ製の一眼レフカメラ『エキザクタ』の紹介記事を載せていて、秀逸な性能と名声を報じていた。」「二眼レフカメラのパララックスに悩まされていて、一眼レフカメラを手に入れることが出来たら、素晴らしい写真が撮れるにちがいないと思っていた。」とあります。

エキザクタ・ヴァレックス

 氏が、入社するのが1954年、丁度、M3ショックの年に入社した様です。その2年前に、1年前・・・ということで、コレに該当するのが、イハゲー社『エキザクタ・ヴァレックス』1950年発売、ペンタプリズムファインダーが用意された世界初のファインダー交換式35mm一眼レフカメラになります。
 氏は、続けて、「カメラ雑誌『アルス』の北野邦雄さんなどがこのカメラをベ夕ほめしていて、それにかぶれて、これからのカメラは一眼レフタイプになるのだと思いこまされたと言ったほうがよい。」 「それから間もなく『アサヒフレックス』の広告が雑誌に載ると、我慢ができなくなって『ローライコード』を買うつもりの貯金でとびつくように買ってしまった。」と続けます。

 アサヒフレックスは1952年に登場します。
 クイックリターンでも、ペンタプリズムでも無いので、購入したのは、この1952年の「アサヒフレックスⅠ」になります。

アサヒフレックスⅠ
アサヒフレックスⅠ最初期型

 つまり、ライカM3ショック(1954年)の2年前から、カメラ雑誌には一眼レフの記事が登場し、氏を含め、二眼レフやRF機のパララックスに悩まされた当時のユーザーは、一眼レフに希望の光を見出し、その後、1952年に登場した旭光学の国産初一眼レフカメラ「アサヒフレックスI」に導かれ、一眼レフ盛況の足がかりとなった。という事が見えてきます。

 これを読んでいる方々にも心当りが有るかと思います。SNSや雑誌に乗る新技術を搭載したカメラやレンズの記事を読むと、きっと、これを使えば良い写真が撮れるだろうと欲しくなる‥‥

その後の一眼レフとRF機

 氏は、アサヒフレックスⅠを購入したものの、シャッターが重いという欠点により、一ヶ月ほどで使うのを止めてしまいます。
 旭光学はその後、1954年にクイックリターン方式の『アサヒフレックスIIB型』、1957年にペンタプリズムをつけた『アサヒペンタックス』と進化させます。

アサヒフレックスⅡB
アサヒペンタックス

 そして、1959年6月、日本光学工業より満を持して『ニコンF』が登場します。
 日本光学は営業サイドからの強い要望により、ライカM3対抗機、高級RF機『ニコンSP』開発に注力していましたが、RF機の限界と一眼レフの有用性を認め、一眼レフも同時進行で開発していました。
 しかし、メインはSPだった様です。
 『ニコンF』は1973年まで販売される伝説の一眼レフとなります。

ニコンF

 私は、この記事を目にするまで、当時のユーザーの状況が分からなかったのですが、当時の一眼レフは、まだ欠点が多く、使い慣れたRF機が主力機で一眼レフカメラは長焦点レンズ・望遠レンズを使うための補助機という扱いという事がわかりました。
 氏の場合はニコンS2やS3のRF機とニコンFという組み合わせで、結局、一眼レフのみに移行するまで10年ほどかかったとしています。  
 ニコンS3は昭和42年(1967年)まで、ニコンSPは昭和40年(1965年)ころまで発売されました。
 メーカーもM3ショックから一眼レフ一本化するまでに13年を費やしています。

結論


 どうでしょう。「完成されたライカM3の登場で日本のカメラメーカーは追撃を諦め、一眼レフに活路を見出した」という流布された伝説は、伝説に過ぎず、パララックスに悩まされたユーザーたちは、そもそも、ライカM3ショック前から一眼レフに希望を抱き、それを欲していた。
 そして、旭光学を始め、日本のカメラメーカーは一眼レフの欠点を次々と解消しながら進化させ、10年の月日を費やして覇権を手中に収めた。という事が分かるかと思います。
 そして、構造上の欠点の残る「完成されたRF機」は淘汰された。という事ではないでしょうか?

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