「死という眼鏡をかけて」歩いてきた詩人。 村上昭夫の詩「五億年」

 村上昭夫の詩集『動物哀歌』をはじめて読んだとき、震えた。
動物たちの姿を通して、地上や宇宙の果てにまで触れてしまう、詩人の澄み切った目と耳の言葉に。

 詩に描かれているのは、この世の日常の風景を超えた、新鮮な生と死の世界だった。読み進むほどに、こちらの視界からも雑音が消えてゆき、生きものの命の奥に潜む痛苦の根源を覗いている気がした。

ねずみを苦しめてごらん
そのために世界の半分は苦しむ

ねずみに血を吐かしてごらん
そのために世界の半分は血を吐く

そのようにして
一切のいきものをいじめてごらん
そのために
世界はふたつにさける

(…)

(「ねずみ」より)

ひとでのある所までおりてゆこう
そこから地獄の火が見えるはずだ
ゆれる破船の尾灯のように
かすかに見えるはずだ

ひとでのある所まで
九十九億の階段があるだろう
そこから地獄の火まで
更に九十九億の
かたい階段があるだろう

百段目から
周囲が古びた森林のように
暗くなるはずだ

千段目から
すべての目がうしなわれかけるように
見えるものがなくなるはずだ

(…)

(「ひとでのある所」より)

 これらの詩の底に流れるのは、人として生きることの苦しみを受け入れたあとの、どこまでも透明で音のないかなしみ、だろうか。詩人の村野四郎は詩集の序文で「これほど単一的に透明な、深く悲しく、しかも破壊力をもつ詩をよんだことがない」と書いたが、この言葉はいまも古びていないと思う。

 どの詩も魅力的でどれか一篇を選ぶのは難しいが、凍るような空気に浸された作品「五億年」をここでは紹介してみたい。
詩はこう始まる。

五億年の雨が降り
五億年の雪が降り
それから私は
何処にもいなくなる

闘いという闘いが総て終りを告げ
一匹の虫だけが静かにうたっている
その時
例えばコオロギのようなものかもしれない
五億年以前を鳴いたという
その無量のかなしみをこめて
星雲いっぱいにしんしんと鳴いている
その時

私はもう何処にもいなくなる
しつこかった私の影さえも溶解している
その時

(…)

「五億年」とは、軽々とは想像できない、遠すぎる時空だ。
谷川俊太郎の「」(『空に小鳥がいなくなった日』所収)という詩に、「百年前ぼくはここにいなかった/百年後ぼくはここにいないだろう」という行がある。百年前も百年後も、現在の人間の時間の感覚で捉えれば、ひとひとりの生の気配が消えるのに充分なほど遠い地点であり、その場所から、いまここにいる自分を眺め直すことは、いつか消滅する生の時間の愛おしさを再発見する行為でもあるはずだ。

 だが、「五億年」前や「五億年」後となるとどうだろう。「ぼくはここにいない」だけではすまない。
 そこは、人類自体の生存も疑わしい、「無」の世界だろう。「私」の芽生えも痕跡も、もはや何処にもない。「五億年」後には、人間という生命体のかすかな気配さえないかもしれない。

 さきに引用した作品「ひとでのある所」にも、「九十九億の階段」というあまりにも遠い距離を思う表現が出て来るが、どうしてこの詩の作者は、「五億年」という、途方もない時間の経過を思わなければならなかったのだろう。

 作者村上昭夫の実人生の時間の流れを眺めれば、その理由を少しでも感じ取れるだろうか。
 昭夫は、1927年岩手県生まれ。岩手中学校卒業後、18歳のときに家族の反対を押し切って満州国へと渡り、ハルビンで臨時招集兵として働く。そのあとソ連軍に収容所へと連行されそうになるが、途中の列車から脱走し帰国。この引揚時の無理がたたり、結核を発病。その後41歳という若さでなくなるまでずっと闘病生活を送っている。

 つまり昭夫の作品は、詩人自身が、死の淵へと刻一刻と吸い込まれてゆく運命を意識した日々のなかで書かれている。昭夫は詩集『動物哀歌』が賞を受けたときの挨拶で、自分は「十数年間、死という眼鏡をかけて、死という湖を見ながら、歩んできたと思います。まことに耐えがたく、つらく悲しい眼鏡でした」(1967年「晩翠賞受賞の記」)と語った。
 もし、この「五億年」の語り手である「私」もまた作者と同じように、治らない病や避けがたい死を直視しつづける苦しみと闘っているのだとすれば。

 そんな「私」の「闘い」の記憶を完全に消すためには、人が難なく想像できる「百年」という時間の長さでは足りず、「五億年」という絶望的な無の時空のイメージが必要だったのではないだろうか。
 言い換えれば、「五億年」という途方もない時間の経過を必要とするくらい、「私」の「闘い」は消しがたい大きなもの、として想定されているのではないか。

 「五億年の雨が降り/五億年の雪が降り」と詩は始まるが、雨から雪へと移ってゆく空模様は、音の変容とも感じられる。雨は、小雨であっても、土砂降りであっても、それぞれに水音を従えて降るものだが、そうした絶え間ない雨音によって、「私」を取り巻く埃っぽい雑音が、まずかき消される。

 そして次に雪が、雨音を閉じ込めるように降りはじめ、すべての風景をしん、とした無音へと変えてゆく。浄化の雨音から、雪の無音へ。そうした無音のなかで、やっと「闘いという闘いが総て終りを告げ」るのだ。

 「闘い」が終わり、すべての音が消えたあと、現れるのは、「一匹の虫」のうた声だ。詩には「コオロギのようなもの」とは書かれているが、何であるかははっきりとわからない。つまり、この虫は、現在の人間の言葉で明示される姿をもっていない。うた声だけの虫は、「私」も人間も消滅したあとの、あるいは生まれる前の、命というものの始まりの姿なのかもしれない。

 たった一匹のうた声は、とても静かだ。苛烈な「闘い」のあとの静けさは、かなしい。一匹の虫が「その無量のかなしみをこめて/星雲いっぱいにしんしんと鳴いている」光景を思うとき、こちらの胸にもそのかなしみの音が響いてくる。

 かなしいのは、五億年後、すべてが消えてしまうからだろうか。敗北とも違うが勝利でもない。ただ何年も何百年も、何億年も、雨と雪のなかで苦しみが浄化されるのを待つしかない「私」=「人間」の痛みを代弁するような、星雲の輝きがひたすらうつくしくて、かなしいのだ。

しかし詩はここで終わらない。三連目で

私はもう何処にもいなくなる
しつこかった私の影さえも溶解している

と、「私」は、自身の消滅をふたたび確認している。「しつこかった」ものとの決別を告げる声からは、不思議な安堵さえ感じられる。「私はもう何処にもいなくなる」。それでよいのだ、と納得するかのように。

最終連で「私」は

五億年の雨よ降れ
五億年の雪よ降れ

と、天に呼びかける。それは、「私」の存在だけでなく、世の苦しみのすべてを雨と雪とともに消し去ってほしい、と切願する祈りにも聞こえる。

 この切実な声は、五億年ののちに人間の痕跡が滅したあとも、これから生まれようとする虫のうたと重なり、永遠に虚空で響き続けるのではないだろうか。そう思いながら、繰り返し味わいたい一篇だ。

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※「五億年」を含む、村上昭夫の詩集『動物哀歌』は、現代詩文庫『村上昭夫詩集』(思潮社)に収録されています。