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「彼女は言葉」という言葉のなかで
賑やかな夜のあと。
アルノ―・デプレシャンの映画を観ていた。
フランス語を学び始めた頃、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの作品のいくつかにとくに惹かれたのは、それらが「言葉」で編まれているからだった。
そのあとの世代の、デプレシャンの映画も同じ理由から好きになった。
『レア・セドゥのいつわり』(フィリップ・ロスの小説が原作)はその内容自体よりも、部屋の装飾や人肌になじむ空気、ニュアンスのある光、登場人物たちのファッション、俳優たちの声と語りの遅さが、好みだった(とくにレア・セドゥとエマニュエル・ドゥボスが素晴らしく)。
物語の筋を無理に追わずとも、音を流しておくだけでも、その流れと暗転が冬の休日には心地よく。
加えて、交わされる眼差しや肌の翳りも、恋人同士の距離がゆっくりと測られる時間も。そして何よりも、会話がよかった。言い換えれば、そこには「会話」しかなかった。
主人公は作家という職業だからか、愛する女性たちに話させ、その言葉を聞くことにとくにこだわりを見せるのだけれど。
映画の後半で、決して結ばれることはなく、けれど長く忘れられない相手について「彼女は言葉だ」と彼が観客に告げたとき。このひとことによって、離れながらも絡みあっていた恋人同士の感情はほどかれ、それまで二人が交わしてきた低い言葉の音の集まりとなって、いつかは、愛しい唇のかたちのみとなって、純化されてゆくのでは……と思った。
どんな関係も、最後は言葉のなかへと帰ってゆくのでは……と。
さまざまな感情を発散させるためではなく、収めるために一語を選ぶこと。
その場の外部の雑音に即座に反応し、そのたびに自分の気持ちや考えを変え、怒りや悲しみといった強い感情を発散させては、また空虚になる。日常の、そのくり返しにどんな意味があるのだろう……。
さまざまな外部の音を拾い続けていれば、ほんとうに逃したくない囁きもそれらに紛れ、そのうちに遠ざかり、もう二度と聞くことはできなくなる。
わたしがいま、写そうと思っているのは、おそらくどこかの冬の海岸で聞いたはずの、しかし、耳はもう覚えていないひとこと。発音はされないけれど永遠にそこにある、無音のアルファべのような。
それはだんだんと遠ざかっていった唇のように、もう聞こえないし、見えない。けれど、言葉にしなければ、そこにはだれもいなかったことになってしまうはずの。
「彼女は言葉」と語られた映画のなかには、「Hiver」(イヴェール:冬)という章があり、結ばれることはない二人のうえに粉雪が降っていた。
わたしも、記憶のなかにしかない、言葉のなかにしかない海岸を、いまも持っている。「冬」(Hiver)という一語に似た、なつかしい波音の。
一度、記事にもしたことのあるその海岸を、これからふたたび歩いてみたいな……と思っている。
外部の喧騒から、しばらく、離れて。