見出し画像

約束という儚さ。(雨月物語「菊花の約」)

 雨続きだから、というわけでもなく。自分の心のなかや、周囲が少し騒がしく感じられるとき。清涼剤を求めるように開く一篇がある。
 上田秋成『雨月物語』の「菊花の約(ちぎり)」。

 『雨月物語』は好きな話の集まりで、原文を少しずつ読む楽しさもあれば、石川淳による『新釈雨月物語』を傍らに原文との一行一行の差異の膨らみを辿る喜びもある(石川淳の、流麗かつ息の弾みと芯のあるこの「訳」はもう一つの作品として愛している)。

 溝口健二の映画『雨月物語』も大学生の頃、映画好きの友人とよく通っていた銀座のミニシアター、並木座で観た記憶がある(ここで小津安二郎の多くの作品も知った)。
 映画の原案ともなった「蛇性の婬」も「浅茅が宿」も、長い時間を超えて続くそれぞれの女性の念と芯の表し方が面白く。映画での京マチ子や田中絹代の演技の印象もそこに重なり、幽玄で妖艶、かつ可憐でさびしい余韻ともなっている。

 一冊のなかでとくに好きなのが「菊花の約」。
 これは、二人の男性の友情を扱った作品だが、人と人が約束するという行為が極端なまでに純粋化されたかたちで言葉のうえに表れていて、月光や黄菊白菊の色を従えたその冷えた風のような現れが好きだな……と、読み返すたびに思う。
 物語の筋をざっと書けば……。

 ……播磨の加古に、老母と暮らす丈部左門(はせべさもん)という学者がいた。左門は知人の家で、旅の途中で疫病に倒れた出雲の軍学者、赤穴宗右衛門(あかなそうえもん)に出会い、献身的な看護につとめる。そうするうちに二人は心が通じ合い、義兄弟の契りを結ぶ。
 快復した赤穴は、一度故郷に帰ることとし、九月九日の菊の節句には加古にまた戻ると、左門に約束する。しかし約束の日、赤穴はなかなか現れない。なぜなら、帰国後、新城主に仕えることを断ったために幽閉されてしまったからだった。そこで、赤穴は再会の約束を守るために自らを殺め、亡霊となり、赤穴の到着を待ち焦がれる左門の前へ現れる。

 ……と書くと単なる夢物語でしかないのだけれど。亡霊となった赤穴が現れる直前の、冷えた月あかりと、軒をまもる犬のすみわたる吠え声と、足もとに打ちよせるような浦波の音の重なりに、左門の諦めと、諦めきれない思いが深く包まれるようで。
 そうした時間のかなたに見える「おぼろなる黒影(かげろひ)の中の人」(つまり赤穴の亡霊)までの流れを辿るたびに、人と人が再会することはなんてさびしいのだろう……と感じる。

 石川淳の新釈を写すと。

……母をすかしてさきに寝かせて、もしやと戸の外に出て見れば、銀河の影きえぎえに、月光われのみを照らしてさびしく、軒をまもる犬の吠(ほ)える声すみわたって、浦波(うらなみ)の音のつい足もとに打ちよせるかとおぼえた。やがて、月も山の端にくらくなれば、今はこれまでと、戸をたてて入ろうとするに、ただ見る、かなたに薄墨の影ゆらゆら、その中にひとあって、風のまにまに来るをあやしと見さだめれば、赤穴宗右衛門であった。

 この箇所について、石川淳は、「文章がうまいからオバケが出たのではない。オバケがそこに出て来たから、必然に正確な表現がある。オバケすなわち表現という一瞬の気合です」と語っている(「秋成私論」)。

 表現という一瞬の気合。それは言葉のなかで、実現できないものを実現させる何か、かもしれない。
 
 仕事の依頼以外では、今度会いましょう、食事に行きましょう、という気まぐれな約束未満の約束の多くは流れ、そんなことを口にしたことすら忘れられてしまうこともあるだろう。

 有限の生である人と人との現世の約束は、儚い。
 だからこそ、せめて言葉のうえだけでも、もう二度とつなぐことはできない手と手を結びあわせるように、約束という願いを叶えてみたい。




石川淳『新釈雨月物語』(角川文庫)と上田秋成『雨月物語』(岩波文庫)