漠然とした悲しみと(高橋幸宏『SARAVAH SARAVAH!』)
夜。会社帰りに新宿へ。坂本龍一が音響を監修したという映画館(109シネマズプレミアム新宿)で、高橋幸宏のライブ映像の限定上映を見るために。
このライブ『SARAVAH SARAVAH!』(サラヴァ・サラヴァ!)は、彼のソロデビュー40周年を記念し、2018年に開催されたもの。
幸宏さんが26歳のときに作ったファースト・ソロアルバム『Saravah!』のすべての曲を、40年後に完全再現した一夜かぎりのライブだった。
「Saravah!」の曲名は、幸宏さんが好きなフランス映画『男と女』のなかでピエール・バル―が歌う曲「Samba Saravah」から取ったという。
「サラヴァ」とはポルトガル語で「あなたに幸あれ」という意味の言葉だそう。
この映画でその存在を知ったピエール・バル―とのちに一緒に曲を作ったとき、幸宏さんは運命論者になったという。
「自分が好きで、一緒に仕事をしたいと思う人とは必ずそうなる」と。
わたしも人や作品との出会いは一種の「運命」だと思う。出会う人や作品には必ず出会う。出会えない人や作品には出会おうとしても出会えない。
幸宏さんとバル―が共演した曲「四月の魚」(大林宣彦監督による幸宏さん主演映画の主題歌)や「Ripple」という曲はもう何千回(何万回?)聴いたかわからない。とくに気持ちが俯きそうになるとき「四月の魚」を聴き、そこから吹く春の風を感じる。
2018年の40周年ライブはもちろん会場で観た。過去のインタビューやライブでもいつも深刻なことは口にせず、感情の起伏をあまり見せない(でも自身の不安や気遣いはユーモアを交えて軽やかに話す)幸宏さんが、「四月の魚」ではかすかに涙ぐみ、アンコールでもう一度歌った「Saravah!」では一瞬声を詰まらせていたのには驚き、涙が出た。
ライブはDVDでも何度も観た。それでも、「日本一の音響」と坂本龍一自身が語っていた音とともにスクリーンで観るのはあまりに素晴らしい時間だった。音の透明さや、演奏の正確さと洗練と気迫と余裕を堪能した。
演奏している人たちがみんな楽しそうなことに、観るたびに嬉しくなる。
楽しいから作る、続けるという創造の芯にあるものと、曲を正確に美しく表すことへの誇りや愛情をこの映像からいつも感じる。
上映中にわたしの座席の周りにいた人たちも、ときどき頰を手でぬぐうのが暗闇のなかでも見えた。
幸宏さんを好きになったのは中学1年のとき。すでにYMOは解散(散開)していたけれど3人はそれぞれに活躍していたし、名前は小学生の頃から知っていた(運動会では「ライディーン」が必ず流れた)。
中学生になってから、YMOの過去のアルバムと同時に、3人のソロアルバムをそれぞれ聴いた。そのときに初めて聴いた、坂本龍一の『千のナイフ』や、細野晴臣の『HOSONO HOUSE』『はらいそ』などは、今でも好きなアルバムだ。
なかでも幸宏さんの『WHAT, ME WORRY?』と『ニウロマンティック ロマン神経症』(NEUROMANTIC)には驚いた。
それまで自分がもやもやと感じつつも、世の中の言葉(や国語)では言葉にできなかったものが、言葉にしないままそこに表れていたから。
漠然とした薄青い空気が漠然としたままで表れていることに強く惹かれた。それはロマンティックな憂鬱、憂鬱なロマンティックというものかもしれない。
たとえば、悲しいほどに明るい日差しのなかで「君」とさよならをするシーンが描かれた曲「sayonara」。そして水辺に漂うような、恋人との日々の「まぼろし」を思う「Flashback」。「明るいサヨナラ」と「水辺の色あせたまぼろし」という光と翳りのコントラストが、自分の色彩の基調にあるものにしっくりと溶けた。
幸宏さん自身もエッセイ『心に訊く音楽 心に効く音楽 私的名曲ガイドブック』(PHP新書)でこんなふうに語っていた。
フランシス・レイやバート・バカラックも幸宏さん経由で聴いた。ジョージが好きなんだな……と思いながらビートルズも聴いた。好きだと語っていた中原中也や立原道造の作品の影響を歌詞から探したりもした。
ある曲のMVが撮影された目黒庭園美術館に行くときは、必ずその曲を聴きながらシーンを思い出して歩く。
なぜ好きなのか。その理由をうまく説明できるものは、ほんとうに「好き」とは呼べないのでは、と思う。頭で整理できるものは……。
音楽も詩も、なぜかわからないけれど惹かれる。ふれれば心の底から嬉しくなる。理屈などなく、また聴きたい、読みたいと願う。
その直感を鈍らせないですむくらいに自分に合うものは、意外と少ない。だからめぐり会えたら、長く、大切にしたい。
「漠然とした、はっきりしない悲しみみたいなもの」を底に静かに湛えながらも、軽やかに、美しく正確に表された音楽や詩を、わたしはこれからも好きになるのだろうという予感のなかで。
人に対してもたぶん同じように。
→メモ:だれも知らない蜜月(生田梨乃『愛』)