ウイルスは細菌よりも小さく、素粒子はウイルスよりも小さい。
"ウイルスは細菌よりも小さく、素粒子はウイルスよりも小さい"
その感覚が、コロナウイルスや新型インフルエンザ流行のニュースが駆け巡りはじめた頃からずーっとわたしのなかにあって、その、事実という天からのワクチンが、腑におちて、地上で形成をはじめて動き出すのを、静かに静かに眺めている。
翻訳の必要がないくらいの、いちばんシンプルな音としては、
ウイルスは細菌よりも小さく、素粒子はウイルス
よりも小さい"
という、もうすでに一度シェアした音だけなので、文字として書く文章は、ここまで完結しても良い♪
*
そしてここから先の文章は、単純に、その音からさやかの中に広がった、世界の話。
だから、真実ではなくて、まだ仮説で、わたしという人間が、たった今生きている、そんな現実だ。
例によって、世界を言葉にするから長いけど、暇なひとや興味のある人は付き合ってほしい。
公衆衛生は、わが家の全員がなんらかの分野を通して齧っているか、もしくは公衆衛生を保つ意識にエネルギーを全力で注ぐような立場の渦中にいることが多いので(細胞でいうと、有事の際はキラー細胞とか白血球とかリンパ球とかみたいな部署。ただし、わたしは揺りかごから墓場までが担当なので、必ずしも肉体の生死は問わないような、狂った自己免疫も範疇に入る。笑)、ぼんやりした希望的見地からの「大丈夫」とかいう言葉を、わざわざ言うつもりはないのだけど(強いていうなら大丈夫かどうかはその生命体が自分で決めたらいい。それがホメオスタシスという生命の流れと共にあること)、素粒子とウイルスと細菌の関係を見つめていると、大地と、大地に落ちる雷のような存在と、一切全てを成す、ひとつひとつらなにものでもない、そして全てである最小単位のことに、思いが至る。
ここ最近、わたしが意識していることのひとつは、自分の想いの置き所だ。
わたしはむしろ、ウイルスニュースがあってからは空気が臭くなくなって、ムワッとくさいところ以外はマスクなしで歩いているのだけど(ただしわたしは元々寝るの引き篭もるのと人から離れた場所で世界を見つめるのが大好きなので、何もなければひたすら懇々と人のいない世界で眠っているし、そもそも人気のない場所に行きがちなので、選んでいる生活習慣という部分で、多少の条件の違いはあるかもしれない)、感情の世界と、知りたがりの頭の世界が結ぶ点にある世界を眺めていると、普段は揺らされない基盤まで入り込んだ小さなウイルスたちの振動は、普段は揺れないから隠れていられた様々な事柄を表に出してくれているように感じる。
熱と、咳と、痰と。
炎症はたとえばそのような形でもからだに現れて症状となるけれど、本質は、意識の炎症を先に起こして、それからからだの炎症が形になっているのだと思う。
隠れていた恐怖がヒステリーとなり、精神的な炎症となって、からだ中に広がり、普段の流れ、今までは常だった生命活動を阻害する。
たとえ化学で合成されたお薬の投与を嫌っていても、常から情報junkie気味のひとたちは、物質の薬を飲まなくても、そもそもエネルギー的な部分に対する薬のような形で不安を抑えている、情報で、ヒステリーという炎症が起こるのを抑えようとしているのだ、と、自覚するといいと思う。
ホメオスタシスを芯から信頼すると、基本的に"病"という状態は存在しなくなる。
在るのは、流れて変化し、進化しながら成長を続ける、生命、という存在だけになる。
それで、ここまでは自分の肉体を生きてみての実体験という持論で、ここからはまだ掴んでいるだけの仮定なんだけど。
病→対処する→治る→病が消える
という、問題→対処→問題→対処という循環でできている意識をさ
生命が流れている→症状→それぞれの生命力の使いどころ→最善の状態に整い変容する
という循環意識の置き方に、サクッと変えてみたらどうだろう?
もちろん、もっとよりよい雛形があれば、それでいいんだけど、わたしという個人が自然を観察して行き着いているのが、今のところコレっていうだけね。
たぶんね、意識のなかでヒステリーが起こって、肉体に様々なかたちで炎症が起こるってことは、生命力が余ってて、適切じゃない使い方ばっかりしてるのよ。
それが、暴力、という世界も生み出してる。
もう、ウイルスとかなくても、世界と摩擦を起こしまくりで、生きているだけで意識も肉体も炎症して存在しているようなわたしとしては(IGE値は常に正常最高値の100ー200倍とかがわたしの普通なので症状として現れていない時も、物理的に数値でスケールすると状態はずっと炎症である。笑)、ウイルスのパンデミックも、熱帯雨林や森が燃えていくことも、全て炎症の範囲内だから、負荷は普段よりも強いけど、地球のなかにはちゃんと綺麗におさまってるんだよなー、という風に感じるのね。
ただ、人間の理と、自然界の理と、宇宙の理とでは、存在のなかでは全て調和してるんだけど生身で生きる上では摩擦する部分もあるから、その摩擦に慣れていないと、抜ける術を知らないまま、意識のヒステリーの渦に、自ら突っ込みやすいのかなーと、そんな風にも感じる。
明るく楽しくげんきよく、嫌なことをみないで、マイペースに生きていたら、ウイルスにはかからないかもしれないけど、本当は不安があるのに溜めてたら、こういう時に恐れがヒステリーとして噴き出してきては、いろんなところに小さく出ていたような流れの不調が、いろんなことを巻き起こしながら整っていく流れになるんだろうなと、個人的には仮説してるのね。
ウイルスはたぶん、人間の意識の汚染を整えるために遣わされた、小さな使者だよ。
自然が生んだにしても、人間がこねくり回して生み出したにしても。
汚染は肉体よりも、意識の方だとおもう。
恐れのないひと、つまり、普段から自分の恐れを見つめてそこも含めて存分に生き切っている生命体には、きっとそもそも、響かない世界。
自分のいのちを失うこと、大切ないのちを失うこと、迷惑をかけること、経済が止まること、生活が変わること、自由を失うかもしれないこと、いつかの痛みが体験として再生されること‥‥
それぞれの、細胞の暗闇の奥に隠れていた恐れに、小さなウイルスは光を当てて、病巣と化していた、単なるその個体や、その種の集合体の、意識の置き所を浮かびあがらせる。
だから、素粒子まで意識を持っていって、そこから呼吸をして生活してみたら、たぶん新しい世界が見えてくるんじゃないかなとおもう。
生きているのに、死んだようになっている生命の力が働ける場所を、まずは自分のなかにつくろう。
最後に、現状、肉体レベルで感染が広がっている渦中にいる人たちにとっては、この考え方はほとんどの人にとって、役に立たない。
むしろ、扱いによっては、毒にもなる。
肉体のホメオスタシスの働きでは、ホメオスタシスの表現が壊れたり歪みが生じていない限りは生存が最優先されるので、意識よりも肉体の方に置き所がうつるからだ。
稀に、その肉体意識のレベルから意識の変容
を起こすと、それは個としての病を治癒させるエネルギーを生むだけでなく、核のようなエネルギーになって、世界を大きく変えるエネルギーになるのだけど、それにはまず死ぬ覚悟が必要になるので、すでに苦しんでいる人たちに向かってそれをしろ、とは、わたしはあんまり言いたくない。
けど、そういうemergencyの現場で、外側の人間が意識の汚染をクリアにしてその場をみて、ウイルスたちの遺伝子に自分たちの恐れの情報を載せずに、ホメオスタシスへの信頼を載せてゆくことは、ウイルスが、わたしたちの世界で'どのように存在するか"を集合的に選んでいくときの助けになる。
目の前に生死を彷徨っている人がいる時に、ヒステリーを起こして、それを伝染させないこと。
そのためには、単純に、「目の前の人は肉体で炎症反応を起こしているけれど、自分は精神の方でホメオスタシスが働いているんだ」と理解したらいい。
恐れはあっていい。
好きなように対処したらいい
けど、恐れがあるのを知るのが怖いからと、その隠れた恐れを共有して、わざわざ集団ヒステリーを起こすことで解消しなくても、生命は生きているから大丈夫だ。
それ丸ごとで、あなたとして生きているから、丸ごとで、地球だから、大丈夫 ♡
今回は、ウイルスとコミュニケーションしたわけじゃないので(世界炎症図鑑みたいになっているさやかの肉体とは、昨年9月より濃密にコミュニケーションしてるけど。笑)、そんな未来はみえてもいないけど、例えば人間と共存している常在細菌たちのうちのさ、なにかとそのウイルスが出会うことで反応して、いつか、酸素を吸う生き物にわたしたちが進化したみたいに、ウイルスを取り込んだ生物の生き残りのなかから、放射性物質に適応をはじめたり、代謝や食べることに関する進化を遂げる人たちが出てきたり、ってことも、まぁありえないとは言い切れないよね。
心配しなくても焦らなくても、人間だからいつかはみんな死ぬよねー、っていう感じののんきな人は、どうせならのんきを生かして、45億年スパンくらいで世界を眺めてみると、秒針の世界を担って、日々を閃光のように生きている人たちがそのまんまで暮らしていても、ゆとり教育とかわざわざされなくても、世界に45億年分のゆとりスペースを産めるんじゃないかなーと、そんな風にわたしは思います。
宇宙からみたらそれでも一瞬の瞬きだけど♪
閃光の長さも、人それぞれ、秒針も長針も、現れの違いだけ。
たまにはクルクルと、クルクルと、狂った針の動きで動く人間もおりますが。笑
どんな環境でも、どんな状態でも、それでも今、生きている生命の全てに、心からの尊敬と畏怖を♪
そろそろ浄化槽まるごと消化する頃合いなのかな
暴力とのコミュニケーション、遺伝子とのコミュニケーションが向かう先。
恐れ。
ゴミ捨て場に打ち捨てられて、誰も触れないでいるような全てと融合して、世界一の嫌われものの塊のようになったとき、このからだは存在しているだろうか?
その生命は、地球でしあわせに、生きられるかな。
物質的な、宝物の、反対側。
人間にもてはやされる宝物たちの、極性の宝物。
細胞ぜんぶが、ザワザワしちゃうね♡
もしも、恐れの究極の本音が、"生きたい"だとしたら。
あらゆる領域の死のエキスパートたち、すなわち生のエキスパートたちは、恐れに突っ込んでいくための命綱を、すでに授かっていることだろう。
わたしにとっては、先日富士山の先にふとみえた、"動物実験が存在しない未来の感知"、がそれかな。
本当に細かな部分まで意識の変容が及んでゆくと、生活が変わる。習慣が変わる。
生きる世界が、変化して、捉え方が変わってくる。
"どうするのが正しいのか"
を外側に問うのではなく、自ら決めることを意識しよう。
その選択が、生命の生存にとって正しくても間違っていても、生きた軌跡は、必ず生きる。
進化をやめた意識生命は死ぬ。
それは摂理で、生存の優先条件は、ごくシンプルなものを除いては、環境と適応によって変化する。
自分で精査するもよしだし、選り好みせずに全てを受容するもよし。
選り好みしなければ、その生命が生き切るために必要な全ては、ずっと与えられている。
全てをどのように生かすかは、自分次第♪
2020年2月19日 日本
地球に暮らすさやかより♪