芯から響きわたしに伝わる、その言葉を聴かせてよ
物心ついたころに動物たちに恋におちたわたしは、物心つくまえに、とても夢中になっていたものがひとつある。
それは、音が連なり、物語を創る、言葉の世界。
はじめてそれを耳にするとき、わたしはソレがなんなのか知らなかったから、ただ、夢中になって耳をすませた。
音は自然に響くから、聴いた音は小さなわたしのなかに様々なものを呼び起こすのだけれど、時々、響きそのもののほかに、まだ見たことのない、経験のない情景のようなものが目に浮かんだり、香りを感じたりすることがあった。
それがわたしは面白くて、夢中になって「言葉」に耳を傾けるようになったのだ。
知らないはずの、時間や空間。
知らないはずの、声、匂い。
時には、味や、温もりも。
眠るときにみる夢にも似ているそれらは、人の言葉を通して、まだ幼かったわたしのなかで度々再生された。
そのうちに、音にしていないはずの言葉が聴こえるようになり、わたしの世界は、物語で溢れた。
生きている、小さなわたしのいのちを感じながら、鼓動と共に紡がれる言の葉。
まだ、ようやく世界に自分の二本足で立てるようになって間もなかったころのわたしは、人の口から音で紡がれたり、音なき声で紡がれたりするそれらに小さないのちを満たされて、あとは時々口に放り込まれるオレンジやいちご、果物の味と香りを感じれば、それで、世界はいっぱいだった。
変化があったのは、アメリカに行ったころ。
耳慣れた言葉と違う言語を話し、なによりも、情景よりも、リズムで歌うように話すそれらの言葉のなかで、それらの音を楽しみながらも、わたしはようやく自分のなかで種蒔かれたばかりだった日本語が恋しくて、日本から持ってきていた昔話のカセットを、繰り返し繰り返し聴くのが日課になっていた。
人から直接放たれたときほど情景や匂いは浮かばなかったけれど、想像する、という楽しみを覚えながら、わたしは英語の世界で、ひたすら日本語を聴き続けた。
アメリカで、アジア人かつ子どもの姿であったわたしに向けられる言葉は短くて、単純。
そこには歪みがなくて、明快で、大人たちの社交の話は、じっと聴いているとつまらなかったけれど、周りの大人たちはどこかスリリングなその感覚を楽しんでいるようなだった。
リズミカルなその音を使ってみたくて、舌たらずな英語で返すと、可愛いと喜ばれたけれど、わたしが彼らにHappyだと伝えるのに、言葉はいらなかった。
心からしあわせなとき、それだけで伝わる。
笑顔が素晴らしいと、よく言われた。
そうして、日本に戻って、義務教育に入り、まわりが思春期を迎えたころ、わたしの世界は大変なことになった。
びっくりするくらいに突然、過剰に増えた、情報量。
すべては幻想みたいなのに、まことしやかに、色を持つ世界。
知らないもの、理解できないものが一氣に渦巻きすぎて、人から語られる言葉はかなりの確率で裏返っているように聴こえて、世界は真実を再生することを拒絶するみたいに感じていた。
未熟なわたしの精神と肉体にとって、その状態は非常にきつかったので、わたしはしばらくSenseを閉じて生きることにして、いろんなものから逃げながら、比較的楽しく学生生活を過ごした。
でも、やっぱり、言葉の世界に夢中な自分は、閉じてくれなくて。
人からの言葉を本当に「聴けなく」なったぶん、本をたくさん、たくさん読んだ。
行間に浮かぶ情景や匂いを感じて、たくさんの世界を旅しながら、本能のままに、その音が世界に現す真実を感じていった。
そうしていくうちに、同じ言葉でも、軽い音、重い音、いく層にもなる音、上滑りする音、静寂みたいな音など、様々な様相を持つことを知った。
日本語は実に色が豊かな言語だと、今のわたしは感じているけれど、ただ言葉を並べただけだと、無機質で、なんの再生も促さないような、フラットな言語である、とも感じる。
文としてのリズムが単調な分、「宣る」ことに長けるけれど、なにものらないと、ただの文字配列の図のように静止した音になるのかもしれない。
そして、ある時、印象的なふたつの言葉にであった。
ひとつは、「ゆるし」。
この言葉が急にきになって、その日を迎えるまでの三か月間、その言葉を理解することだけを考え続けて生きていた。
昨日、それがようやく腑に落ちたところだ、という男の人からその「ゆるし」という音を聴いたときに、何かがわたしの琴線に触れて、わたしは初対面のその人に向かって、
「ちょっとわたしに向かって、もう一回"ゆるし"って言ってみてください。じっくり感じたい」
と頼んだ。
一回じゃすまなくて、全部で三回、言ってもらった。
その人は戸惑っていて、わたしも戸惑ったけれど、その人が「生きた」"ゆるし"の言葉が、わたしの世界に深く浸透するのを感じた。
そしてもうひとつは、映画の「君の名は。」のなかで、三葉のおばあちゃんが言った「むすび」という言葉だ。
その言葉を、どうしても深く、芯から感じたくて、わたしはそれから11回も、いろんな場所へ、いろんな人と、「君の名は。」を観に行った。
わたしにとっては馴染み深くも感じたその音をずっと伝えてくれていたのは、人間ではなくて、共にあった自然界のあらゆるものたちだったけれど、「君の名は。」のなかで語られる"むすび"の音が、自分の世界に深く強く静かに呼応しているのを感じながらも、森羅万象を表現するときのはじめのほうにあるこの言葉が、こうして広く語られて、染み渡ってゆくのを目撃できるのは、ものすごいことだなぁと、完全に、違う楽しみかたをしているわたしがいた。
そうして今、また、「聴きたいな」と感じている。
人間の、芯から放たれる、言葉たちを。
たった一言で、わたしの世界の色を鮮やかに変えてしまうような、その言葉。
借り物じゃない、生きた人の、生きた、言葉。
留めるためじゃない、流れて、また、再生してゆくものとして、世界に放たれて、受けとめられ、新たな音の種となり、自分を生きる生命にとっての時の鐘となるような、そんな言葉。
"ゆるし"の人は、三か月考えだと言っていたけれど、その言葉から広がる世界は永遠みたいな音がしたし、"むすび"の世界は、生命が生きている世界なのだと、わたしは感じる。
放たれてゆく言葉たちはあなたから放たれたからこそ、その意味をもって世界に再生される。
そうして、わたしは生きて響きわたる言葉を通して、地球を形づくる音の世界を知り、自分のなかに生まれてくる、生命の音の種たちと遊ぶのです。
久しぶりに、英語を学びたいなーと思ったら、思いのほか欲求のニーズが深くて、こんなことになった。
聴かせてよ
あなたのなかで生きる言葉を
あなたと共に、生きた言葉を
上っ面じゃなくて、芯から伝わる言葉がいい
わたしはそこから、音を紡ぐ。
2019.4.5 日本
地球に暮らす、さやかより♪