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持続可能性 VS 幸せ

個人及び組織を持続させる事と、幸せや平和は比例するのか?

もしかしたら対立しているかもしれない。

SDGsという言葉が出てくる前、約20年前に大学で環境経済学を専攻していた僕は、サスティナブルコミュニティーについて勉強していた。

その時から感じていたのは、

「持続可能とはどういう意味なのか?」

この世に同じ形で永続するものはなく、人類も地球も必ず「死」や滅亡という変化は訪れるが、どこの時点までが「持続可能」なのか?という疑問だった。

一人の人間も必ずや寿命があるように、人類や地球にも寿命がある。

人類が滅亡した後も、もしかしたら多様な生物が地球で共存し続けているかもしれないし、地球内での“持続可能”な社会は続くかもしれない。

しかし、その地球もいつかは消滅し、新たな星の誕生へと引き継がれていくかもしれないと考えると宇宙は既に持続可能な社会を実現している。それはブラックホールの増加で全ての星が我々人類の視野から“消滅”したとしても宇宙は続いているかもしれないのである。

であるならば、僕らが問題にしている“持続可能性”とは、あくまで人類ベースであって、いつか死ぬと分かっているが、なるべく地球内で平和的に多様な生物と共存して長生きしていたい、という願望の事であろう。

その観点からすると、日本の精神性や文化は“長生き”に向いている。
個人の寿命のみならず、企業や政治体制(天皇制)も世界一長生きだ。

私自身、大学で持続可能な社会や平和について研究したり、世界各地を旅する中で、日本が調和を重んじ、持続可能な社会を創ってきた精神性が、これからの人類の長期的な平和に貢献できるのではないか?と考えていた。
しかし、このような精神性が何故生まれたのか?という理由を考えると、必ずしも平和には繋がらないかもしれないという仮説が生まれる。

何故日本は、個人も組織も「続ける」という事を重視するのか?

その精神性を生んだ一つの理由は「脳」にあるだろう。

日本人の脳はセロトニンという幸福物質が少なく、世界で一番不安になりやすいと言われているが、何故そうなったのかというと、日本は自然災害が多く、不安になりやすい脳を持つ遺伝子が生き残ったためとされている。つまり、今自分たちが生きているのは祖先の“不安のお陰”でもあるのだ。

「平和」という言葉は抽象度が高く、人によって定義や見方が変わるため、平和について議論しているのに理解し合えず、議論が平行線になったり、喧嘩もしてしまう。

僕にとって平和とは「不安の無い状態」と定義しているが、それはSecurityという言葉がSe cura(不安の無い状態)というラテン語から生まれたという理由もある。軍事力や安全保障もある種、土地や生活が奪われるかもしれないという不安の現れだが、個人・個人間・国家間で如何に不安を無くしていくか?が僕にとっての平和活動である。

しかし、その定義に基づくと、世界一不安になりやすい日本人は、世界一平和を感じにくい民族かもしれないのである。ただ、私は「不安=優しさ」と捉えており、不安は自分の身を守るための“優しさ”だと考えている。将来の不安、経済的不安、そういった不安があるお陰で、リスクや投資を嫌い、貯蓄と備えをしてあらゆる自然災害や人災も乗り越えられる。恐らくこのコロナを乗り越えた企業も基本的には、どんな天災が起こっても潰れないように前々から備えていた企業かと思う。

僕はよく「詰めが甘い」と言われてきた。何故詰めが甘くなるのか?それは、心の底で「大丈夫だろう」という楽観主義が横たわっているからだと思う。何処かで「失敗しても、死んでも問題ない」という潜在意識があるから、失敗したり間違わないように細かい所まで目が行かない。ユーラシア大陸やアメリカ大陸等、旅をする時も基本計画は立てなかったし、士心を開く時も多くの人に「無謀だ」と言われた。

基本的に人生を通して後先考えずに、その時やりたい事をやってきたので、いつ死んでも後悔は無い。ただそのような生き方は多く失敗もするし、死ぬ可能性も高い。つまり、あまり賢い日本人らしい脳じゃないみたいだ。

世界一主観的な幸福度指数が高いフィジーの人々は基本的に後先を考えずに無計画であると言われるが、将来の事を常に考え、「段取り八分」で綿密な計画を好む日本人は幸福度指数が低い。簡単に言えば、「フィジー人は短命だが幸せ」「日本人は長寿だが不幸せ」とも言える。

更に言えば、長生きしたければ「不安」をベースにした方が有利、という事になる。言い換えると、持続可能な社会を実現しようとすると、人類が不安ベースに生きる方が良い、という事になる。

日本の保守的な田舎や京都のような場所は、コミュニティーを長生き(持続可能)させるために、「村八分」や部外者を簡単に受け入れない。その分、長くいる者に対しては厚く優遇する。諸外国と比較して移民の受け入れも少なく、日本の学校や会社等でイジメが多いのは、自分の安心を確保する秩序を壊されたくない、異質なものを排除したい、という種や組織の保存の願望が働いているのかと思う。

つまり、日本の「和」の精神は、あくまで秩序を保つための和であって、秩序を壊す可能性のある存在は中々その「和(=輪)」に入れてもらえない。長生きのための不寛容な和なのである。自分の個人的な利益や意思よりも、組織やコミュニティーの意志を尊重して、自己の存在基盤を安定化しようとするのである。いや、むしろ自己を犠牲にしてでも、組織の存続を図る。

個人主義の広がりによって大分変わってきたが、人様に迷惑をかけるぐらいなら生活保護や国の助けを受けずに、ホームレスや引き籠りで孤独死しても構わない。人を殺すより、静かに自分を殺して消えた方が良い、という考えが根強く存在する。そして、人様に迷惑をかける死に対しては多くの批判が集まる。

個人よりも社会の存続が大事だからこそ、伝統や常識というものを守り、それに個人が縛られるのである。海外生活から帰って来て多くの日本人が、日本に対して何等かの息苦しさを感じるのは、この社会を長生きさせるための「目」かもしれない。

100年以上続く老舗企業の家訓の多くには、冒険的な「投機をしない」とか、伝統と革新を重んじる傾向があるが、それも伝統という安心できる確実な基盤の上に、少しずつ時代に合わせた革新を加え、堅実な組織の存続を第一にしているからだと思う。それゆえ、引き継ぐ者は伝統や社内の常識に苦しめられる可能性も高いが、その基盤を壊してまで不安定な経営をしたくないのかと思う。その反面、冒険的で、リスクの高い新規性の高い事業は総じて生まれにくい。

島国であり、自然災害が多く、種の長期的・組織的な保存のために、不安をベースに秩序を大切にしながら存続してきた日本。その「持続可能性」や「和」の精神性は、これからの人類が長期存続していくためには一役買うかもしれないが、不安をあまり感じず、今を大切にし、多様性を受け入れ、幸せを感じやすい平和な世界を創っていくためには、対立してしまう可能性がある事を心に留めておきたい。


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